「契約期間は……そうですね、あなたの計画が終わるまで」
あらすじ
「契約期間は……そうですね、あなたの計画が終わるまで」
ぶくぶくぶく……。ある日、伯爵令嬢アンヌは口から泡を吹いて倒れた。なぜなら、婚約者と友人である子爵夫人によって毒を盛られたからだ。薄れゆく意識の中二人の裏切りを目撃した彼女は、迫りくる死神を追い返し息を吹き返す。『悪党を必ず同じ目にあわせてやる!』復讐の決意を固めたアンヌは、優秀な協力者を求めて毒物学の第一人者クレーメル博士の元へ向かう。すると博士は、復讐協力の報酬として(スキンシップ込みの)契約恋愛を提案してきて……!?
作品情報
作:江原里奈
絵:yuiNa
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10月6日(金)ピッコマ様にて先行配信開始!(一部ストア様にて予約受付中!)
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プロローグ
――ぶくぶくぶく……。
口から溢れ出る泡の音が、まるで他人事のように聞こえてくる。
突如として降り出した雨の音が、耳に飛び込んできた。その雫を集めて飲むことができれば、この苦しみが少しでも癒せるはずなのに。
まるで灼熱の砂漠を歩く旅人のように喉が乾き、ヒリヒリと痛んだ。籠もる熱気のせいかすぐに空気が足りなくなり、どんどん息が苦しくなってくる。
助けてほしくて声を出したいのに、願いも虚しく口が微かに動くだけ……。
誰ひとりとして救おうという気配がないのは、助けを求めているのが伝わっていなからというわけではないようだ。
――混乱のさなか、聞こえてきたのは女の声だった。
「あら、しぶといわね。まだ死なないのかしら?」
それは、まるで嘲笑うかのような響き。
「仕方がないよ、ジャンヌ。毒の量を調節したんだもの。だって、すぐに死んだらいっしょにいた僕たちが疑われちゃうじゃないか」
「……それもそうね。あなたは悪事の天才だわ、シャルル」
「港に転がったカニみたいな無様な泡を……」
「カニ! そうね、市場で並べたら売れるかもしれないわね!」
あまりにもひどい会話だった。瀕死の人間を愚弄する言葉の数々に、耳を疑ってしまう。
残された力を振り絞って、重すぎる瞼《まぶた》を微かに開いてみた。
目の前には、抱き合って熱烈な口づけを交わす男女の姿……。
(噓でしょ……!?)
死の瀬戸際で人が苦しんでいるときに、いちゃつくなんてマトモな人間がすることではない……いや、それ以前に男のほうは自分の婚約者ではないか!
――アンヌ・ド・サヴォワが七歳年上のシャルルと婚約して五年が経つ。浮気に飽き足らず、自分の婚約者に毒を飲ませて殺そうとするなど、いわば悪魔の所業である。
しかもシャルルの相手はアンヌが誰よりも気を許し、慕っていた年上の女友達だった。
この二人は、ずっと自分を騙していた。いったい、いつからなのだろう?
(許せない……! 私が邪魔なら、婚約破棄すればいいだけじゃない!)
そう思った途端、得体の知れない力が体の奥底から湧く。
怒りのエネルギーが、毒の痛みも熱さも苦しさも凌駕していた。
(こいつらに、復讐してやる……!)
――パチンッ。
口に溢れていた泡が、強くなる雨音と雷の轟音を打ち消すように弾け飛ぶ。
それは、伯爵令嬢アンヌが、婚約者シャルルとその浮気相手であるランバール夫人に復讐を誓った瞬間だった。
1.復讐計画の協力者と契約恋愛?
(もぉーっ! なんで私がこんなところにッ!?)
アンヌは悪態をつきながら、重い足取りで道なき道を歩いていた。
見回す限り緑、緑、緑……そして、大空の青と足元の土の茶色が混じる大自然。その風景は、一年の半分以上を王都で過ごす彼女には新鮮なものとして映った。
ここは父のサヴォワ伯爵が統治する領地と、隣のライヒ王国の間にまたがるシュベリン聖山だ。その中腹にある山小屋に、これから会わねばならない人がいる。
そう……それは、彼女の復讐計画に欠かせない重要人物。その人物の協力を得ることが、アンヌの今日の目標であり、計画の第一歩である。
しかし、ほんの少しの距離でも馬車を使う怠惰な伯爵令嬢の脚力では、ピクニックに毛が生えた程度の軽登山でも正直しんどかった。
こんな細い道を馬車が通れるわけがないので、きつくても徒歩で登るしかない。
護衛騎士のヴァリフに頼んで馬に乗せてもらうことも考えたが、万が一にでも計画のことを知られたら困るので、麓のシュルフ村の大聖堂に用事があると言って撒いてきたのだ。
(……どんな変人? こんなところに住むなんて!)
肩で息をしつつ、厄介な場所を好む見知らぬ相手を罵った。このままでは今日の目標はおろか、無事に山小屋にたどり着けるかどうかさえも不安である。
「く、苦しい……」
時折立ち止って、神に救いを求めるように空を見上げる。
どこまでも澄み切った青い空と、綿菓子のような白い雲――シュルフの村人たちも温和で、ここにある植物や生物のすべてが、苦しみから解き放たれているように平和だ……普段は愛らしい見た目にかかわらず、疲れ果てて恐ろしい形相をしているアンヌ以外は。
たしかに登山は苦行だが、死の淵でさまよった経験がある彼女はさらなる苦痛を知っている。心も体もボロボロになり、命が危うくなったのはほんのひと月前の出来事。
――死ぬまで、あの日の屈辱を忘れないだろう。婚約者シャルルとその恋人であるランバール夫人に裏切られ、殺されかけたあの日のことを。
アンヌとシャルル、そしてランバール夫人は仲がよく、時折いっしょに外出したり互いの邸宅を訪問したりする関係だった。
ところが、そう思っていたのはアンヌだけ――シャルルと夫人はアンヌの目を欺いて付き合っていたからだ。
いつもどおり、サヴォワ伯爵邸で集まってお茶をしていたところに恐ろしい事件が起こる。アンヌが離席している隙に、彼女のティーカップに毒を盛られたのだ。
一時は心臓が止まり、体温も冷たくなった。そのまま棺に入れられようとしたときのことだ……信じられない奇跡が起こったのは。
人間は死ぬときに、その人生の中で味わった、いいことも悪いことも一瞬で思い出すという。
しかし、アンヌにとって復讐できずに終わる人生は悔いだらけ。このままおとなしく死ぬことはできず、死神が振り下ろそうとしている大鎌を避けて、大声で怒鳴った。
『やめなさいよ! 本当に死んだら、奴らに復讐できないじゃない!』
怒りという感情は、時に恐ろしいほどの生命力を生み出す。弱った魂しか獲物にできないとされている死神は、別の魂を探すためにいそいそと退散していった。
そういう経緯で、彼女はあり得ない気力で息を吹き返した。渾身の力で瞼《まぶた》を開け、埋葬の準備をするために棺の中に彼女の体を抱え上げた作業人を睨みつけながら。
『わぁー、バケモノ……!』
作業人の悲鳴に異変を察知したアンヌの父と兄は、恐ろしい形相で目を開けた彼女に驚愕して、条件反射で剣を抜いた。
『アンデットか!?』
『あっ、悪霊!?』
どう考えても、人を馬鹿にしすぎである。可愛い娘が生き返ったことが気に食わないとは!
いや、家族がどう思おうと構わない。そんなことは、二の次だ。
とにかく、復讐をするためには死んではいけない。
(みんなふざけすぎだわ! 地獄に堕ちればいいのよ!)
アンヌは心の中で家族を罵りながら、いまも生き続けている。怒りが生きるための力になり、死神を駆逐したことがおかしな自信につながったのだ。
きつい斜面を抜けると、目の前に広がるのは爽やかな香りがする薬草園。
繁茂する木々の緑が視界を遮っていたこれまでの道のりとは違い、太陽の光と澄み切った青空が臨める美しい情景だ。
色とりどりの花を咲かせる薬草の奥に見えたのは、木で作られた山小屋……そう、そこは彼女がこれから直談判する相手の住まいである。
目的地を前にしたアンヌは走り出そうとしたが、下草に足を取られて前につまずいてしまった。
「きゃあッ!」
咄嗟《とっさ》に悲鳴をあげたが、次の瞬間、なぜか衝撃を感じることはなかった。
答え合わせをするように閉じた瞼《まぶた》を開けると、逞《たくま》しい腕が支えるように腰に回されている。
「えっ……!?」
振り向くと、彼女を支えていたのは長身の若い男。
太陽の光を通すと少し赤っぽく見える茶色の髪、切れ長の栗色の瞳。秀でた目鼻立ちは繊細な印象だが、健康的な小麦色の肌をしているせいか、騎士というよりも戦場に赴く傭兵のような強靭さも感じられる。
さらに、アンヌよりも頭一つ分は背が高く、頭の後ろに当たる胸板は適度に筋肉がある……すなわち、一見してどんな身分で何の職業をしているのか判別がつかない謎の青年だった。
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