「ずっと昔から、好きだった。どんどん好きになっていく自分が、怖くて――」
あらすじ
「ずっと昔から、好きだった。どんどん好きになっていく自分が、怖くて――」
大学を卒業し上京した聡子は、母の義弟にあたる叔父、悠貴の元に身を寄せることになる。4年ぶりに再会した彼の前で、あくまで姪っ子として振舞う聡子だったが、その胸には密かに彼への想いが育ちつつあった。だがある強い雨の夜、停電した部屋で震える聡子の額に、悠貴の唇がそっと落ちる。聡子は夢心地のまま「やめないで」と口走ってしまい……
作品情報
作:春宮ともみ
絵:時瀬こん
デザイン:RIRI Design Works
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◆序章 交わらぬ想い
いつもと違う叔父《悠貴》の姿。熱で汗ばんだ肌に、上気した頬。壮絶な色気を伴ったまま自分を組み敷く悠貴《ゆうき》の姿に、聡子《さとこ》はくらくらと酩酊するような感覚を覚えた。それはじっとりと暑かった夏の夜空に色とりどりの花火が上がった日、「ひと口だけな」と目の前の悠貴に窘められつつ手を伸ばした度数の高いスピリタスが喉を滑り落ちて行った時のような、眩暈に似た感覚だった。
「聡子……さと、こ」
悠貴は許しを乞うように聡子の名前を呼びながら、ひどく熱を持った指先で蜜壺を犯しぬぷぬぷと掻き回す。
「ひぁっ、あぁっ」
指の腹で加えられる浅瀬への絶妙な刺激に聡子が全身を震わせおとがいを反らすと、悠貴は中途半端にはだけせた聡子のショーツに手をかけそれを取り払った。
どうして。どうして、なのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。聡子は身体の芯から込み上げる情動の疼きに悶えながら、霞んだ思考回路の隅で無力感に苛まれる。
それでも聡子は知っていた。破戒的な関係であることを憂い、涙することさえあってはならないのだと。だから今、こめかみを零れ落ちていった雫だって、激しい快感が産んだものだと言い張るしかないのだ。
「……聡子……」
あの日よりも掠れた悠貴の声。あの時と違い、今の彼は風邪を引いて朝から寝込んでいたためになおさらだ。もとより敬慕している人物から縋るように名前を呼ばれ、聡子の胸の奥がぎゅうと締め付けられる。
「聡子は……悪い子だ」
「やっ、あぁあんっ!」
悠貴は苦し気に息を吐き出しながらも聡子へ施す愛撫の手を緩めなかった。双丘の先端でつんと尖った粒を弾き、挿入した指で花襞の臍《へそ》側をくにくにと刺激しつつ、期待に充血した肉蕾をも親指の腹で潰してくる。聡子の恥裂の奥に溜まっていく疼きが、あの瞬間に悠貴の楔によって刻まれてしまった圧倒的な快楽を求めるように強くなっていく。
「俺の……夢の中にまででてきて、俺を誘惑するんだから」
「それッ、だめ、あぁっ!」
絶え間なく続く甘やかな責め苦に乱されながらも、聡子は必死に平静を保とうと努めていた。自分たちは道理に反した道に踏み出した後ではあるが、互いに道を正してなかったことにしたのだ。それをふたたび崩してはならないという、後ろめたい気持ちを必死に押し込めようとしていた。が、悠貴に耳元で低く囁かれたことであえなく全てが決壊する。情火を孕んだ彼の吐息が、聡子の思考を白く白く塗りつぶしていく。
「聡子。言ったろう? 感染《うつ》るといけないから、部屋に入るな、って」
「だ、ってぇっ……!」
悠貴は駄々をこねる子どもに言い聞かせるように言葉を吐きだしながら、ぐじゅぐじゅと淫靡な水音を響かせ聡子の蜜屈を丹念に凌辱していく。過ぎた快感に涙ながらいやいやと頭を振れば、以前よりも伸びた髪が汗ばんだ首筋に貼りついた。
寝込んだ彼の看病のために部屋に立ち入ったことを咎められているが、同居している家族が風邪で苦しんでいるところを見て見ぬふりなどできるはずがない。まして、症状が強く出るインフルエンザかもしれないと言い添えられては。
聡子がまだ実家住まいだったころ、高熱に浮かされたときに家族が看病してくれた経験がある。身体が弱ると心も弱る。そうした時、そばにいた家族の存在がどれほど精神的な支えになってくれたことか。だからこそ自分のことを気にかけて助けてくれる家族として、悠貴を支えたいと思っただけだというのに。
「こんなにびしょびしょにして……感じまくって」
「ひぁっ、ああッ、叔父さっ、も、だめっ、〜〜〜ッ!」
聡子の官能を的確にくすぐっていく悠貴の巧みな指遣いは彼女を確実に高みへと押し上げていく。まぶたの裏が白く弾けた聡子は全身を戦慄《わなな》かせ、享受した悦《よろこ》びを悠貴へ訴えるようにシーツに爪を立てた。
倫理的に許されない関係だとわかっていても、幸せを感じずにはいられない。愛だとか恋だとか、正当で淡く瑞々しい感情ではないことは百も承知だ。込み上げる恋慕を白日の下にさらすことすら罪深いのだ、ということも。
「……叔父さんに犯されてるのに、派手にイっちゃって……本当に聡子は悪い子だね」
卑猥な言葉で直接的になじられた聡子は唇を噛み、羞恥のあまり眦《まなじり》から涙を零して顔を逸らす。
それでも聡子は悠貴にこうして触れられるたび、途方もない快感と、脳が麻痺するほどの多幸感と――激しい自己嫌悪を抱いてしまう。
くつくつと喉の奥を鳴らした悠貴は、細めた目に数多の複雑さと愉悦をにじませていた。そのまま張り詰めた怒張に手を添え、聡子の蕩けた秘裂に擦りつける。ぬぷんっという悩ましい水音とともに肉襞が押し広げられ、内臓が圧迫された。聡子は大きく目を見開いて仰け反ってしまう。
「あ、ぁあっ……」
「叔父さんの言うことが聞けない悪い姪っ子にはっ、……罰が必要、だよね?」
灼熱のそれが侵入した分、蕩けた蜜道からこぽりと音を立てて雫が溢れた。圧倒的な質量に身体の芯から震えが込み上げる。悠貴は切なげに眉根を寄せた。そして、腰に弾みをつけ最奥を穿つように貫いていく。
「は、あッ、ぁあああっ!」
「ちゃんと……悪いことは悪いって、叱ってやらないと。俺は、聡子の……家族、だから」
「やぁぁっ、おじさぁんっ! まっ、て、あぁんッ!」
悠貴のほの暗さを含ませた低い囁きとともに、獣の交わりのようなガツガツとした強い律動が始まる。最奥に生身の雁首が打ち付けられる衝撃に聡子はふたたび最果てへと誘《いざな》われていった。肉杭を逃すまいと隘路《あいろ》がきゅうきゅうと窄《すぼ》まり、聡子は泣きじゃくりながら唇を震わせる。
悠貴と聡子の間には超えてはならない透明ななにかがあったはずだった。叔父と姪という関係である以上、血が繋がっていなくとも踏み出してはならない領域があった。親類縁者がこうして肉体を繋げても、一般的な幸せを手に入れることはできない。倫理の名の下において、思慕という愚かな大義名分は通用しない。
「夢だからっ……っく、それ、でも……俺は、聡子のっ……叔父、なん、だから」
譫言《うわごと》のように紡ぐ悠貴の言葉が聡子に過ちを教えていく。聡子を蹂躙しながらも、必死に『家族』という関係性を絞り出す矛盾した悠貴の姿に胸が苦しくなる。自分のせいでそんな表情をさせてしまったと思うと、心が焼けつきそうだ。彼の憂いを帯びた表情は、彼の苦悩が痛いほどに伝わるものだった。
けれど――叔父に抱かれることを心底願っていた自分がいることも、紛れもない事実、で。
きっと、こうして身体を重ねるたび、良心の呵責が消えていくのだ。してはいけないことをしてしまったから、二人でパンドラの箱を開けてしまったから。多少のスリルがある方が刺激的で忘れられない恋愛になるだとか、どこにでも転がっているような陳腐なセリフに騙されて冷静な判断ができなくなっていく。背徳感も罪悪感もなにもかもが砂塵になっていくのだろう。そんな二人の行き着く先が、破滅ひとつだとわかっていても。
だから聡子は、せめてと自分に言い聞かせた。もうこうして彼を受け入れるのは今夜だけ、と。ひと時の快楽に溺れたとしても、幻の愛を信じて浸り続けるほど――自分は愚かではないはずだから。
「はぁっ、ぁあっ! あっ、……ん、んっ」
身体を揺すられるたび、じわじわと押し寄せてくる絶頂の予感が甘い毒のように全身に広がっていく。自らの意思に反してがくがくと震える両手を悠貴の汗ばんだ手が捕らえる。その拍子にぐっと身体を起こした悠貴が体重を乗せて深壺のその先を抉った。途端、隧道《ずいどう》が歓喜を伴って伸縮を繰り返していく。
「っ、……ここ? すごく締まる」
「あ゛っ、ん、――――ッ!」
悠貴は口角を歪め、楔を打ち込む角度をほんの少し変えてからさらに奥へと腰を進めた。精悍な顔に愉悦をにじませた悠貴が自身の骨盤で聡子の腰を固定する。その体勢のまま、限界まで張りつめた肉槍の先端でぐりぐりと融解した最奥口を潰していく。聡子は陶酔の波に翻弄される息苦しさにはくはくと口を開閉させる。
「もっ、むりっ……くるし、いっ」
快楽の沼に足を取られた聡子は断続的に達し続け、脳が酸欠を起こしていた。視界が霞んで、呼吸がひどく浅い。心臓も破裂しそうなほどに強い鼓動を刻んでいる。
「苦しい? でも、っ……聡子が悪い子だから、こうなったんだ。俺の夢の中にでてくる……悪い子、だからっ」
「ぁ、あっ、またぁっ!」
悠貴は潤んで痙攣する蜜壺を執拗に責め立てる。大きなくびれで香蜜を絡め取り、引きずりだしては押し込んで、鋒《きっさき》を打ち付ける。
聡子を犯しながら取り憑かれたように「これは夢だから」と繰り返す悠貴は、まるで自分自身に言い訳をしているようだった。絡められた手には痛むほど力が入っており手の甲に爪の痕がきつく刻まれていくが、聡子は痛みすらも性感へと変換してしまう。
理性を失ったまま、悠貴と聡子は互いに互いを貪った。まかりならない関係であるという現実の厳しさややるせなさを投げ捨てるかのように。
背徳の慕情は限りなく甘く、それでいて氷のように冷たい。
本能を剥き出しにした悠貴の情欲を受け止めることで、果てしなく押し寄せる後悔も、このままずっと繋がっていたいという心の隙間も、聡子は何もかもを忘れられるような気がした。
悠貴とともに果てた先で気を失い、目覚めた翌朝――――がらんとしたリビングに残された、置手紙を一人で目にするまでは。
◆一章 不安と期待が芽吹いた日
左手に持ったパスケースを改札に翳し、通り抜けた先の階段をのぼって地上に出た。聡子が目の前の横断歩道を渡ってすぐの大きなオフィスビルを見上げると、黒々としたガラスファザードには輪郭が曖昧な淡い雲が綺麗に映り込んでいた。空全体に広がる薄い雲が、頭上から降り注ぐ陽射しをよりやわらかなものにしている。
――すご……。
聡子が飛行機と電車を乗り継いで降り立ったこの場所は、ファッションにまつわる流行の発信地でもあり、外資系やIT企業が多く拠点を構える都心の一角。要するに、ブランド力のあるお洒落な街だ。聡子が生まれ育った地元の街も政令指定都市ではあるが、郊外に位置していたためにここまで都会的ではなかった。
――やっぱり、叔父さん家《ち》に居候させてもらうことにしておいてよかったなぁ。土地勘もないから普段の買い物とかも困っただろうし。
平日の昼間だというのに雑踏を行き交う人の波は途切れることがない。都心の目まぐるしい動勢に圧倒された聡子は、心の頼りにするように手に持ったスーツケースを身体の横にぴたりと寄せ、横断歩道の信号が青になるのを待った。
大学卒業後、就職に伴い上京することとなった聡子は、都内で一人暮らしをすることに不安を感じていた。就職が決まった直後はそうしたものを感じてはいなかったが、住まいを探すにあたってインターネットで様々な情報を得ていくうちに、治安に対する不安感や、物価が高いことで一人でやりくりできるのかという憂慮が募り、ホームシックにならないだろうかというネガティブな感情に駆られてしまった。都会と田舎の中間地点という、郊外のほどよい環境でのびのびと育ってきた聡子の偏見に過ぎないのだろうが、『都会の人は冷たく他人に無関心』というイメージが彼女の思考に根付いてしまったのだ。
その旨を家族に相談したところ、都心に居を構える義理の叔父・悠貴の元に身を寄せるという提案が挙がり、悠貴も「家族なんだから気にせず頼ってよ」と快諾してくれたのだ。
信号が青に変わる。一斉に歩き出した人波に押されるように聡子もスーツケースを転がした。先ほど視線を向けたオフィスビルからほど近い交差点の角に、シルバーグレイの色味が重厚感と高級感を演出する大きなビルが現れる。無事に辿り着いた、と聡子は大きく胸を撫でおろした。このビルの一階に聡子の目的地である月下部《かすかべ》インテリアデザイン事務所の東京オフィスが入居している。
スーツケースの持ち手をぎゅっと握り直し、聡子は歩く速度を落とした。祖父が興した会社の支社には初めて足を踏み入れる。それに対する期待もあるが、一番は。
――久しぶり……だもんなぁ。
叔父である悠貴とは四年振りに顔を合わせる。彼はもともと聡子の地元に立地する月下部インテリアデザイン事務所で働いていたが、聡子の祖父・弦司《げんし》によって経営の才覚を買われ、弦司の養子となった。この養子縁組には、弦司の一人娘であり聡子の母である華子《はなこ》が結婚により他家に嫁いだことで弦司の後継者が不在だったこと、そしてなにより悠貴は青年期に不慮の事故で両親を亡くし、以降天涯孤独だったことが影響していた。そのため悠貴は華子の義理の弟に当たる。
弦司の目は正しかった。インテリアプランナーとしての能力だけでなく、新しい建築・インテリア技術や知識、流行に敏感でオリジナリティのある『ひらめき力』を持ち合わせ、フットワークも軽い。確かな実行力を地盤に悠貴はその商才を存分に発揮していった。弦司と二人三脚で事業拡大を続け、聡子が大学に進学するころには東京オフィスを開設するまでとなった。この支社を取りまとめるのが悠貴の現在の業務内容である。
叔父が地元を離れてから四年。東京オフィスの立ち上げ後は仕事に忙殺されていたのか悠貴は一度も地元へ帰省しておらず、必然、聡子はその期間叔父と対面していない。
悠貴が聡子の叔父となったのは聡子が小学校中学年のころのことだった。十五歳年上の悠貴は持ち前の朗らかさであっという間に月下部家に馴染み、それ以降、家族ぐるみで遊園地に行ったり温泉旅行に行ったりと密度の濃い付き合いを重ねてきた。面倒見のよい悠貴は親族の中で最年少の聡子を構い、聡子も『優しい親戚の叔父さん』に懐いた。そのせいか、一人っ子だった聡子は周囲からブラコンと揶揄われるほどに悠貴を慕い、悠貴も聡子のことを妹のように可愛がった。親類からも仲が良いと言われることが聡子はわずかばかり恥ずかしくあったものの、おおむね嬉しいと感じていた。眉目秀麗で支社長まで任されるようになった悠貴の存在は、聡子にとっても自慢の存在だった。家族の欲目と思いながらも、悠貴が周りから認められ褒められることはとても喜ばしいと感じていた。
長い時間を一緒に過ごし、人間性の深いところまで見せ合ってきたからこそ、そんな彼との邂逅に胸が躍る。数年離れていた悠貴に久しぶりに会えると思うと、聡子は妙に嬉しく感じてしまう。
聡子は成人を迎えた。子どものころはちょっとしたことでもすぐに感情をあらわにしていたが、大学時代にアルバイトをして社会人の末席に加わり、ある程度自分の感情をコントロールできるようになった。自分でお金を稼ぐことも経験した。メイクも覚えて多少は垢抜けたと思う。
悠貴はなにか変わっただろうか。他人の話を聞くのが上手く勤勉で明るい彼が、四年という歳月を経たとてなにかが大きく変わった姿は想像できない。初対面でも人間関係を築けるコミュニケーション力の高さはきっと変わっていない、いや、むしろ東京オフィスの設立を経てもっともっと向上したのではないだろうか。
そんなことを聡子がつらつらと考えていると、出入口の扉がガラス造りとなっているテナントが見えてきた。ちょうど聡子の視線のあたりに『月下部インテリアデザイン事務所/東京オフィス』と社名が記されている。その扉を押し開くと、チリン、と可愛い音が響いた。
視界に飛び込んでくるのは背が高く青々とした観葉植物。個性的な曲がり幹が唯一無二の樹形を描く、グリーンアラレアだった。
視線を上げれば、天井から下がるころんとした丸いペンダントライトが目についた。そこから降り注ぐやわらかな光が雰囲気の良いオフィスを演出している。
室内中央に設けられた木目柄が美しいカウンター席の後ろにオフホワイトのパーティションが設置してあり、そこから顔を覗かせた長身の男性の姿に聡子は頬を緩ませる。
「叔父さん!」
「あぁ、やっぱり聡子だった。久しぶり。迷わなかった?」
「うん、空港から電車で一本だったから大丈夫。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。それにしても……大きくなったなぁ、聡子」
黒髪に切れ長で黒々とした瞳。目鼻立ちのしっかりとした風貌に奥二重の目元が彼を野性的に見せているが、今のように笑ったときの表情は柔らかく甘い。品のある落ち着いたグレーの背広とジレが甘い笑みをより引き立てていた。眦《まなじり》を下げた悠貴の姿は聡子の中の記憶よりも少しだけ目尻に皴が増えている。そんな悠貴の表情を感慨深く感じるが、『大きくなった』と表現されるのはいささか心外だ。最後に会ったのが小学生や中学生の時で、容姿ががらりと変わったのであればまだしも。聡子は納得できずわざとらしく頬を膨らませる。
「大きくなった、って……私、四年前からそんなに身長変わってないよ?」
「あぁ、すまんすまん。大人びたな、ってことを言いたかったんだ。でも、考えていることが表情に出るのはあんまり変わらないんだね」
一瞬だけ困ったように嘆息した悠貴は次の瞬間には面白そうに口角を上げる。からかうような口調を向けられた聡子はさらに口の先を尖らせた。思えば、悠貴が地元にいたころも聡子は悠貴から軽く茶化されたりおちょくられたりすることはあった。聡子は「叔父さんだってそういうところ変わってない」と反論しようと口を開きかけたが、パーティションの奥から見慣れない人物がひょっこりと顔を出したため、すんでのところで思いとどまる。
「悠貴さん、その子が例の姪っ子さん?」
「ん? あぁ、そう」
椅子に座ったまま身体だけを伸ばしていた彼は悠貴の返答に腰を上げる。聡子は初めて会う人物だ。こちらに向けられた彼の視線と自分の視線がかち合ったため聡子は小さく会釈をする。
「弦司社長のお孫さんですよね。初めまして、大塚《おおつか》といいます」
「初めまして……倉木《くらき》聡子です。祖父や母、叔父がいつもお世話になっております」
穏やかに微笑んでゆったりと言葉を紡ぐ大塚に聡子はふたたび頭を下げた。母親である華子が地元の本店で経理事務しているので、おそらくこの人物は弦司や悠貴だけでなく華子とも面識があるはず。家族の大多数が彼と仕事をともにしているらしいと察した聡子は、思わず外向けの声色で言葉を紡いだ。
「彼は俺がここを立ち上げる時に雇ったインテリアプランナー。もう一人秋辺《あきべ》っていうのがいるんだけど、今日は終日外出。また機会があれば挨拶させるよ」
「あ……うん、わかった」
悠貴の補足に聡子は合点がいった。そういった経緯で東京オフィスに勤めているのであれば彼らと自分には面識がなくても不思議ではない。なるほど、と小さく呟いた。
「今日は定時で上がれるように仕事調整してるから、ん~……そこに座ってもう少し待っててくれる?」
そう口にした悠貴はカウンターに備え付けられたスイングドアを開き、聡子を出入口付近の応接テーブルに案内する。悠貴が引いた椅子に聡子は素直に腰を下ろし、手に持っていたスーツケースをテーブルの下に滑り込ませた。
そばにあるオフィス用のドリンクサーバーは自由に使っていいと言い残してカウンター内に戻っていった悠貴の背中を見つめ、ほうと息を吐く。腰を落ち着けると、応接テーブルに近い壁に貼られたいくつもの写真が視界に入った。ブラック基調で重厚感のある応接間のような空間を切り取った一枚や、木のぬくもりが全面に出たリビングダイニングの写真、コンクリートの無機質さと左官仕上げと思われる白い壁のコントラストがセンスの良さを引き出すモダンな玄関スペース、クラシカルな気品を漂わせたホテルのロビーのような写真が散りばめられ、それぞれの写真の横には色鉛筆で色付けされた設計製図が並んでいる。これらの写真がこの東京オフィスで手がけた案件の実績サンプルなのだと気が付くまで、そう時間はかからなかった。
聡子がそれらの写真をぼうっと眺めていると、パーティションの奥でリィンと電話が鳴った。
「はい、月下部インテリアデザイン事務所です。……あぁ、私が月下部です、お世話になっております。折り返しのお電話ありがとうございます。早速なんですが、先月ご相談いただきました御社の明星《みょうじょう》店の内装デザインにつきまして…………」
パーティション越しに悠貴のはきはきとした声色が聞こえてくる。普段の砕けた悠貴とは違う丁寧な言葉遣いにさすがだなと感嘆するとともに、怖気づいてしまう気持ちがあることも確かだった。
聡子も来週になれば新社会人だ。大学の近くで開催された就活セミナーに参加し、自分の将来に悩んだ聡子はふと目にした食品商社のインターンシップに参加することにした。生活に必要な「食」を提供するだけでなく、日々商品開発を進め人々の暮らしと密接に関わっていくことを目指した企業理念に惹かれて採用試験に挑み、営業事務職として内定をもらった。営業マンのサポート業務を筆頭に、書類作成やデータ入力、電話応対等の業務に取り組んでいくこととなる。
大学時代に経験したアルバイトは飲食店の接客業だった。注文を取り、配膳をしてレジを打つ。電話応対にはその経験が活かせるだろうが、やはり接客で言葉を交わすのと顔の見えない相手とやりとりするのでは勝手も違うはず。
それでも、どんな仕事が待っているのか楽しみでもある。仕事を通して自分も成長できるだろうし、社会の役に立ちたいという思いもあれば仕事をきちんと覚えることができるかという不安ももちろんあるし、どちらかというとそちらの割合の方が大きい。
はちきれんばかりの期待感と形のない漠然とした不安感が綯交ぜとなったまま、聡子はパーティションの奥で仕事に取り組む悠貴や大塚の様子を眺めつづけた。
*……*……*
「大塚、先に上がる。戸締り、よろしく頼むね」
「了解です。お疲れさまでした~」
聡子が腰を落ち着けてから一時間が過ぎたころ、悠貴がビジネスバッグを持ってスイングドアを開けた。手持ち無沙汰に触れていたスマートフォンに表示された時刻はもう日の入り時刻を指していた。悠貴は宣言通りに仕事を定時で切り上げたらしい。慌てて腰を上げた聡子はスーツケースを手に持つ。
「お待たせ。ご飯の前に一旦家に帰るから、一緒に行こうか」
悠貴はこうみえても管理職である。年度末も近いためそれに伴う事務処理もこなさねばならず、本職として抱えている案件も多いだろうに、疲れなどを感じさせる様子はない。
「俺の家、この上なんだ」
出入口の扉を開けて待っていてくれた悠貴がさらりと聡子の手からスーツケースをさらっていく。あまりにも自然すぎるその仕草に呆気にとられるも、そのまま軽い足取りで歩き始めた悠貴の背を追いかけるように聡子も足を動かした。
「え、どういうこと?」
「んん? このビル、五階までがテナントでその上が賃貸なんだよ。いわゆる下駄履《げたば》きマンション、ってやつだね。通勤に時間を割きたくなかったから、テナントを探すときにこれを条件にしたんだ。時は金なり、ってね」
涼しげな佇まいと穏やかな笑顔に、これが大人の余裕というものだろうかと聡子は何げなく考える。
横幅が長いこのビルの一階にはずらりと店舗が入っていた。自然木を使ったディスプレイが目を引く花屋に、輸入アンティーク雑貨のセレクトショップ。少し歩くとテナントとテナントの間にくぼんだ空間があり、そこがエントランスになっているようだった。緩やかな曲線を描くサーキュラー階段が特徴的な空間が広がっている。その階段をのぼると完全予約制の美容室やネイルサロンが入居している二階に行けるそうで、三階から五階はほぼ外資系企業の支社やベンチャー企業が入居しているそうだ。
重厚感のあるサーキュラー階段のわきを通り過ぎるとそこは集合ポストと宅配ボックスが備え付けられたロビーになっている。悠貴がオートロックを解除すると無機質な音が響いて、木目調の自動扉が開いた。
「スーパーはちょっと歩かないといけないけど、一階の角にコンビニがあるから買い忘れしたときとか便利だよ」
扉が開いた先で悠貴がポストを確認していた。そこにはこのマンションの高層階を表す数字が刻んである。配達されたらしき郵便物を手に取った悠貴はエレベーターの『上』ボタンを押した。
土地勘のない場所で家事や自炊を続けていけるか心配だったが、スーパーも近いうえに同じマンション内にコンビニがあるのはありがたい。都心《この街》で暮らすにしては比較的便利な立地のようで、それらは聡子にとってほっと息をつけるものだった。
「とりあえず、俺が物置にしてた部屋を開けてベッドだけは新しいのを買ってあるから。シーツカバーもとりあえず持ち合わせのをかけてる。好みじゃなかったらごめんな」
「えっ……準備してもらえるだけでありがたいから、そんなの気にしなくていいのに」
チン、と軽い音が鳴る。到着した真ん中のエレベーターに乗り込んで隣に立つ悠貴を見上げると、悠貴は少し困ったように眉を下げた。
「寝具、こだわる人はとことんこだわるからねぇ。聡子がそういうタイプだったら申し訳ないなと思って」
悠貴は、建築物の設計段階から内装を手掛けていくインテリアプランナーだ。依頼された案件の空間をデザインしていくにあたって、これまで様々なこだわりを持った顧客に接してきたのだというのが手に取るようにわかる言葉だった。
「お仕事でそういう人がいるんだ?」
「まぁ、そんなところ。あ、それとチェストとかはどれくらい必要かがわからなかったから準備してないよ。明日と明後日は年休取ってるから、そういうこまごましたのを一緒に買いに行こうか」
「叔父さんも一緒に行ってくれるの? 助かる!」
「ついでにこの辺りをうろうろしよう。俺も忙しいときは買い物とか頼むかもしれないから、早めに土地勘を掴んで欲しいところだし」
住み慣れた悠貴が案内してくれるのであれば心強い。こういう時、親戚というのは一番頼りにすることのできる人脈なのだと改めて痛感した。
他愛もない会話を続けていると、あっという間にエレベーターが目的の階へと行きついた。降り立った先の間接照明が特徴的な内廊下は絨毯敷きとなっており、ホテルライクな高級感が漂っている。各住戸の玄関は内廊下からわずかに奥まったところに設置されるアルコーブつきになっているようだった。ゆったりとした空間の一角で悠貴が立ち止まり、縦スリットが入った黒基調の玄関ドアを開く。
そこは明るい白で統一された空間だった。入ってすぐの玄関の床には黒タイルが採用されているため、メリハリがあり飽きの来ないすっきりとした印象を与えている。玄関をあがると水回りが揃った扉の隣に居室があり、この部屋を悠貴が聡子のために開けてくれたらしい。先ほど伝えられた通り、ベッドだけが設置されたシンプルな空間が広がっていた。ハンガーパイプ付きのクローゼットも備え付けられていて、明日悠貴と一緒にここに収めるチェストさえ揃えれば収納には困らなさそうだった。
悠貴に促されてリビングダイニングに入ると、そこは落ち着きのあるモダンなトーンでまとめたゆったりとした空間だった。廊下から続く白いフローリングに明るいグレーのムートンラグが敷いてあり、その上に白基調のダイニングテーブルと細身の脚が特徴的なダイニングチェアが設置してある。
「あ~、そうだった。先週こたつ片付けちゃったんだった。まぁ床暖房あるから大丈夫だとは思うけど、寒かったら言ってな、また出すから」
頭を掻いた悠貴が視線を向けているリビング。そこにはダイニングテーブルとおそろいと思われるローテーブルにダークブラウン調のソファ。天井はやや高めでシーリングファンが備え付けられている。壁掛けのテレビの向こうにもう一部屋あり、綺麗に整えられたベッドやL字型のワークデスクが覗いている。そちらもダークブラウンで統一されていて、リビングから続くその部屋が悠貴の私室なのだろうと察した。キッチンは対面式のアイランドキッチンになっており、二人で並んで調理しても差し支えのない広さを誇っている。
まるでモデルルームのようなセンスのある洗練された空間は、長い間インテリアデザインに携わってきた悠貴だからこそのもの。彼の空間デザインは見るものを魅了するだけでなく、実用性も高いインテリアの配置であるとまったくの素人の聡子でも理解できた。弦司が初手で悠貴のデザイナーとしての高い感性を見抜いて彼を採用したことも頷ける。
リビングに入る扉を開けてすぐのところにスーツケースを置くと「とりあえず、ご飯に行こう」と悠貴に連れられてふたたび部屋を出た。
マンションからそう遠くない商業ビルの最上階。着いたレストランはオーダー品とわかるようなしっかりしたスーツ身にまとった男性や品のある装いの女性で溢れていた。こんな高級そうなレストランには初めて訪れる。場違いだと思わざるを得ないレストランに聡子は気後れしてしまうが、悠貴は慣れた様子で聡子をさらりとエスコートしていく。
「今度接待で使おうと思ってる鉄板焼きのお店。まぁ、事前視察ってところかな。俺の都合に付き合わせちゃって悪いんだけど、コース料理でいい? もちろん食事代は俺が出すから気にしないでね」
昔と違う、都会的な街をなんでも知っているような悠貴の姿に聡子は若干の戸惑いを覚えた。家族行事で顔を合わせるたびにトランプやテレビゲームをして遊んでくれた学生時代の印象が強く、身近だった『親戚のお兄ちゃん』がどこか遠くに行ってしまったような気がしたからだ。
どう表現していいのかもわからないあやふやな感覚を抱きながらも、聡子は全面ガラス張りの窓から宝石箱をひっくり返したような夜景を一望しながら悠貴と鉄板焼きのコース料理に舌鼓を打った。前菜から始まり、鮮魚のお造りに焼き野菜、そして目の前の鉄板で調理される和牛ロース、ご飯からデザートまで。良い素材の良い部分を余すところなく引き出すように、丁寧に計算されて調理されていることが伝わってくる。どれも極上で聡子は夢中になって平らげてしまった。
「お腹いっぱい……」
「美味しかったねぇ。この店、うちの本店の隣町の農業組合と提携してるんだって。お客さんとの話題にも出しやすいし、うん、次の接待はここで決まりかな」
カウンター席で隣り合う悠貴は赤ワインのグラスを傾けながら満足そうに微笑んだ。その様子に聡子は小さく首を傾げる。
「……叔父さんってそんなに飲むんだっけ?」
悠貴はあまり酒に強いタイプではなかったはず。彼がまだ地元にいたころに家族旅行として温泉旅館に行った際、弦司にお酌されてもあまり口をつけていなかったように記憶していたからだ。
悠貴は肩を竦《いさ》めながら苦笑いを浮かべた。
「こっちに来てからそれなりに飲むようになったかなぁ。顧客開拓で接待に行くことが多くなったからね。お酒の知識で相手をこっちのペースに引き込むために勉強はしたよ。お義父《とう》さんには適わないけど」
「ふぅん……」
悠貴は四年という月日を重ね、さらに勤勉さに磨きをかけたらしい。東京オフィスを軌道に乗せるためになりふり構わず仕事をこなしてきたのだろうか。あまり嗜んでこなかったはずのお酒にまつわる情報をも積極的に仕入れていたという一面を垣間見たことで、聡子は悠貴の月下部インテリアデザイン事務所を大きくするためには使えるものはなんでも使うという並々ならぬ意思を感じ取る。
優しい親戚の一人、だと思っていた。聡子も年齢を重ね、目線の位置が変わったからなのか、そうでないのかはわからない。けれど、真剣なまなざしをしたそんな叔父の新たな一面に触れたことで聡子の胸の奥には憧憬の想いが込み上げてくるようだった。
「聡子、これ」
ワイングラスをテーブルに置いた悠貴が、小脇に置いた紙袋から見るからにプレゼント然とした小さな包みを差し出す。開けてもいいかと視線で許可を求めると、悠貴は肯定するように目尻をさげた。
慎重に包みを開くと、品のあるペールブルー色をした細長いベルベット調のジュエリーケースのなかに、一粒ダイヤモンドのネックレスが納まっていた。スクリューチェーンがキラキラとした煌めきをより引き立たせている。思わぬ贈り物に聡子は小さく息を飲んだ。
「これ、就職祝い。俺、思い返せば成人祝いも渡してなかったからね。これから会社周りでの冠婚葬祭も増えるだろうし、ベーシックに使いこなせるのがいいかと思って」
優しげながら、目力を感じさせる豊かな表情をした叔父の心遣いに聡子は頬を緩ませた。と同時に、冠婚葬祭という言葉が、大人としての自覚を持って責任のある行動を取るように、という悠貴の言外の想いを聡子に教えていく。聡子は一社会人として改めて気を引き締めなければという決意ととも頭を下げた。
「ありがとう、叔父さん」
「いえいえ。しかし、あんなに小さかった聡子が就職と聞くと、時の流れの早さを感じるなぁ」
海のように揺らめく大きな瞳が懐かしむようにやわらかく細められる。
「家族旅行で遊園地にいってお化け屋敷で俺に抱き着いて泣いてたっけ。なんというか、本当に懐かしいな」
あれは中学最後の夏休みのことだった。家族旅行で行った先の遊園地で、リニューアルオープンしたという謳い文句に惹かれ悠貴の手を引いてお化け屋敷に勇んで入ったものの、真っ暗な空間に突如出てきたゾンビにどうにもできない恐怖を感じて後をついてきていた悠貴にひっしと抱き着いてしまった過去があるのだ。
聡子にとっての恥ずかしい思い出をことさらに懐かしそうに語る悠貴に、聡子は決まり悪く視線を泳がせる。
「叔父さんだってあの時ちょっとビビッてたでしょ、ビクってしてたもん」
責任転嫁な発言であることは聡子も自覚していた。けれど『思い出したくない、早く忘れたい失敗』をこうして引きずりだされるのは本意ではない。仕返しと言わんばかりに当時の悠貴の様子を暴露し、口の先を尖らせたまま聡子はじとりと悠貴を見つめる。
「……悪かった。もう言わないから、機嫌直してくれよ」
「わかればよろしい」
しゅんと眉下げたような悠貴に聡子がわざとらしく頷くと、悠貴は顔をほころばせてくすくすと声を立てて笑った。
気を許せ、全てをさらけ出せる悠貴との生活が始まる。昔と変わらない自然体でいられる心地よさに、聡子は新生活に向けて不安でいっぱいだった心がゆっくりと解きほぐされていくように感じていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。その日はレストランでも、自宅でも。互いに空白の時を埋めるかのように、思い出話に花を咲かせ、たくさんの言葉を交わし合った。
*……*……*
「車だから大通りを通るけど、歩くときは裏道とかの方が近いと思う。あとで一緒に歩こう」
久方ぶりの邂逅の翌日、聡子が実家から宅配便で送った洋服等の荷物を受け取ったのちに悠貴の車でチェスト等の収納用品や小物類の購入に行くこととなった。
悠貴は安全運転を心がけているのが伝わってくる真剣な横顔を見せたかと思えば、たまに片手運転をして余裕がある姿を見せていく。脇道から出てきた車に車線を譲っている紳士な応対を見るにつけ、運転中はなぜだか普段よりも二割増しくらい彼が男性らしくみえた。
そして、それは買い物の場でも同様で。
「聡子はあの部屋、どんな風にしたい?」
「えっ……う~ん……仕事から帰ってきて、ゆっくり落ち着ける感じがいい、のかなぁ」
「ん。じゃ、この辺りのオープンシェルフにしよう」
悠貴は木目が活きたナチュラルスタイルの家具や小物をカートに放り込んでいく。あたたかみのあるホワイトオーク色は白基調の聡子の部屋に違和感なく溶け込んで、安心してくつろげる空間を演出してくれるような気がした。迷いなく商品を手に取っていく悠貴の頭の中では、すでにあの部屋が聡子の要望のとおり落ち着ける空間にコーディネートされているのだろう。
クローゼット内で使う引き出し式の収納ケースや積み重ねバスケットもカートに入れ、レジに並ぶ……ものの。
「ちょっ、叔父さ……私、ちゃんと払うからっ」
聡子が財布を出そうとしたのを悠貴が制止してクレジットカードを革張りのカルトンに置く。こういう場所で揉めるのはよくないとわかっているものの、思わず慌ててしまう。
「いいって。出世払い」
対する悠貴はなんでもないことのように口角を引き上げる。思い返せば昨晩のコース料理の支払いも事前に済ませてあった。これまで聡子の周りにいなかったスマートな応対をする姿に、よく遊んでくれた悠貴は自分よりも大人の男性なのだと改めて実感してしまう。昨晩と同じような戸惑いの中、つきり、とかすかに胸が痛む感覚を抱いた。聡子は会計した荷物を運んでもらう最中、その痛みの意味を考え込む。
「そうだった、大事なこと忘れてた」
パタンとトランクを閉めた悠貴は後部座席を開き、そこに置いてあった鞄から鈍色の艶を帯びる金属物が入った透明なチャック袋を差し出した。それが悠貴の家の合鍵だということに気が付くのに、数秒も必要なかった。
「あっ……ありがとう」
「どういたしまして」
聡子は受け取ったそれを握り締め、運転席に乗り込む悠貴を追うように助手席に乗り込んだ。シートベルトを締め、ショルダーバッグから昔から愛用しているファスナー付きのキーケースを取り出すと、シートベルトに手を伸ばした悠貴が驚いたように小さく声をあげる。
「それ……」
「え? ……あ、これ?」
なにをそんなに驚くことがあるのだろう。素朴な疑問とともに悠貴の視線の先を辿ると、聡子がキーケースに着けているエッフェル塔のキーホルダーに意識が向けられているように感じ、聡子はそれを摘まんだ。
これは悠貴が東京オフィスを立ち上げる二年ほど前、家族旅行で行った先の温泉旅館に設置してあったカプセルトイで悠貴が当てたもの。当時、月下部インテリアデザイン事務所のポートフォリオを作成していたらしい悠貴は撮影小物として羽根ペンモチーフが欲しいと思って回したが、希望とは違うデザインのものが当たったからとそのまま聡子に渡したのだ。
「なんかおしゃれだし、お気に入りなの。あれからずっとつけてる」
ころんとした細長のデザインのキーホルダーは毎日目にするもので、だからこそ聡子が手放せないものとなっていた。フランスを象徴するデザインは平穏な日常の中に確かな非日常を感じさせ、気分を上げてくれる。すっかりお気に入りになったそれは、六年という時間の経過を経てキーホルダーの光沢が霞んでいきレトロな雰囲気を醸し出している。それもまた聡子がこのキーホルダーに向ける執着に拍車をかけていた。
「そ……う、なんだ」
悠貴は柔和な相貌を崩し、曖昧に笑う。その返答の意味が掴めず、聡子はわずかに困惑した。普段から明るく快活な彼がかつてこんな表情をした瞬間があっただろうか。聡子の知る叔父らしくない強張ったような笑い方に、急な体調不良かと眉をくもらせた。外界から遮断され静まりかえった車内の中、肘置きに手を伸ばし悠貴の顔を覗き込む。
「叔父さん、どうしたの? 具合悪い?」
「っ、いや……なんでもない」
聡子が問いかけると、悠貴はなぜか息を詰め動揺したかのように視線を逸らした。そのまま悠貴はイグニッションキーを回していく。サイドブレーキを外した車がゆっくりと動き出す。
胸の奥で、またなにかが疼いた気がした。ざらりとした表現しようのない違和感が湧き上がる。だが、一瞬の違和感は悠貴の言葉ですぐに消え去ってしまう。
「そういえば、聡子は富士沢《ふじさわ》食研に入社するんだったね。すごいな、富士沢食研といえば食品商社の大手だろう? 調味料から冷食まで取り扱ってて、テレビCMもよく打ってる」
一段と優しく涼やかな声色で言葉を紡ぎ、しっかりと前を向いて運転する悠貴の姿。なにかが引っかかるような気もするが、今はそれを追求してはいけないような気がして、聡子は悠貴の言葉に小さく首肯する。
「あ……うん、そう。営業事務で内定もらってて」
「配属はもう決まってる?」
「うん。食品販売部。でも一部から四部まで区分けされてて、そのうちのどこに配属になるかはまだわからない。来週の入社式のときに辞令を貰うようになってるの」
来週からの新しい生活のことに思いを馳せれば、どんな仕事が待っているのだろうという高揚感とともに、ひんやりとしたなにかに全身が包まれていく不安感が心の奥に渦巻いていく。
「……ちょっと、不安なんだ。ちゃんと社会人できるかなって」
ちりちりと胸が焼ける気がした。焦燥感というのはこういう感覚なんだろうかと考えながら、ぼうっと窓の外を眺める。
そこから見える景色がどんどんと後ろに飛んでいく。街を歩く人々はきらきらとしていて、自信に溢れているひとたちばかりのようだった。自分のやるべきこと、自分がなすべきことを明確にして、確固たる道を迷わずに歩んでいく精神性を象徴しているかのようで。
なにより、数年振りに再会した悠貴のひどく凛々しい姿が聡子の心を急かしていた。
幼かったころの聡子は年齢を重ねれば自動的に大人になれると思っていた。でも、現実はそうではないということを成長する過程で思い知る。大人になるということは清濁併せ吞むことも必要であるし、そのためにはある程度の一般常識を身につけなければならない。聡子は立派な大人として社会に溶け込んでいる悠貴に、内心で羨望を抱いては、こうはなれる気がしないという消沈を繰り返していたのだ。萎えそうな心を奮い立たせては落ちることを反復させた神経はすり減って、胸の奥に燃え差しのようななにかを積もらせていく。
信号待ちで車を停めた悠貴はやや視線を下げ、ほんの少しだけ渋い顔をした。途切れた会話が気まずい沈黙となり、聡子はいたたまれなさから視線を彷徨わせる。
成人の仲間入りを果たしたことを昨晩祝ってもらったばかりだというのに、日を経ずして弱音を吐いてしまった。いい大人がみっともないと呆れられてしまっただろうか。弱い自分が情けなくなり、眦《まなじり》に熱いものが滲む。それを落とさないようにとぐっと唇を噛んだ。
「……うまくいかなかったらどうしようという感情は、その経験を大事に思っている証拠だからね。意外かもしれないけど、不安になるということはいいことなんだよ」
ひとつひとつの言葉を慎重に選んで、噛み締めるような声色が響く。信号が青になり、ゆっくりと車が動き出した。
「そう……なの、かなぁ」
確かに、社会人になるという経験を大切に思っていることは間違いのない感情だ。それでも、不安を抱くことが良いこととは今の聡子には到底理解できないものだった。向けられた言葉に潜む深い意味を掴めず、聡子は首を傾げることしかできない。
「うん。人間、防衛本能としてのネガティブな部分を誰しも持っているものだよ。だから新しいなにかに不安になるのは当たり前のこと」
「……」
とても優しく、甘やかな声が耳朶を打つ。言葉の意味はわからなくても、今はそれだけで呼吸が楽になるような気がした。
「聡子。一休さんって知ってる?」
唐突な話題の変換に聡子は瞳をまたたかせる。一休――確か、室町時代の禅僧だ。様々な逸話を残したことで、テレビアニメにもなった人物。必死に考えを巡らせ、そっと返答する。
「え? えっと……トンチがすごい人?」
「うん。彼は自分が死ぬとき、弟子たちに『自分が死んで本当に困ったことになったらこれを開けなさい』って巻物を残したんだ。で、数年後に弟子たちが本当に困ったことに遭遇して、それを開いた」
淡々とした真剣さだけがにじむ声色に引き込まれるようだった。だが、そこまで口にした悠貴はなぜだか口を噤んでしまう。静かな沈黙がゆっくりと落ちていく。
「……それには、なんて書いてあったの?」
早く続きが聞きたくて、聡子は思わず御伽噺《おとぎばなし》の結末を催促する子どものように助手席から身を乗り出した。悠貴は聡子の焦れた感情を読んだかのように口の端をにっとつり上げる。
「『大丈夫、心配するな、何とかなる』って書いてあったんだって」
「えーっ!? なにそれ」
「ちょっと笑えるだろう? でも、嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、苦しいことがあっても――きっと数年後にはきっと笑って話せるようになる。俺だってそういう経験、たくさんあるよ。だから聡子も、絶対大丈夫」
ハンドルから左手を離し、そっと腕を伸ばした悠貴が聡子の髪を優しくくしゃりと撫でた。独特のあたたかさと心地よさに身を委ね、聡子はゆっくりと目を細める。
心配も不安も、大切なものだからこそ大きいものとなる。大人になるということは、きっと喜びも悲しみも不安も、そんな感情をたくさん重ねていくことでもあるのだろう。それに気がつけただけで胸がいっぱいになるような気がした。
視界の端に映る悠貴の揺るぎない姿に、泣きたくなるくらいに安心する。安堵の吐息を落とし、ゆっくりと窓の外に視線を向けた。
助手席から見える窓の外には淡い桜の花びらが舞っていた。新しい旅立ちを祝福するかのような光景だが、それでも聡子は現実に感情が追いついていかない。春は聡子の憂いを顧みず、爛漫に咲き誇っていく。
どこからか、鶯の優しい鳴き声が聴こえた気がした。
◆二章 持て余す曖昧な感情
「ただいまぁ~……」
ずいぶんと気の抜けた声が自分の喉から零れ落ちる。一週間分の着替えが入った重いスーツケースを玄関へと引き上げ、それに寄りかかるようにくたりと身体を預けた。
聡子は入社式の翌日から、郊外の研修宿泊施設にて新入社員研修を受けていた。学生から社会人への切り替えについてだったり、ビジネスマナーについてだったり。各々が配属される部門にわかれてのチームビルディング研修や、富士沢食研で働くにあたっての就業規則等の初期教育、コンプライアンスに関する講習等、みっちりとしたプログラムを受講した。途中、眠くなることもあったが、出発する日の朝に悠貴から笑顔で「しっかり受けておいで」と言われたこともあり必死に自我を保ちながらの研修期間を過ごした。
宿泊を伴う研修のため、カリキュラム外の自由時間では同期たちと存分に交流できた。長い研修期間を一緒に乗り越えたことで考えたことや感じたこともたくさんあり、彼らとの交流は、この先に待つ仕事での辛い経験をわかち合える大切な存在となることを確信させるような時間だった。
不意に、ブーッと鈍い音がした。ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンを手に取ると、特に仲良くなった管理部門配属の山谷《やまたに》 菜月《なつき》と福西《ふくにし》 友梨佳《ゆりか》、そして聡子の三人で作ったグループトーク画面に『家着いた~。お疲れさま!』というメッセージが表示されていた。
ふわっと浮き立つような感情を覚えた聡子も、彼らと同じように帰り着いた旨を書き込もうと上がり框《かまち》に腰を落とす。それに伴って視線を下げると、足元に悠貴の革靴が綺麗に揃えて置いてあることに気が付いた。宿泊施設を出る時にメッセージアプリで見た通り、悠貴はもう帰宅しているらしい。帰り道で覗いた一階のオフィスも消灯されていたため当然かと会得する。
聡子はパタパタとメッセージを打ち込んで送信ボタンをタップし、脱いだスプリングコートを腕にかけリビングの扉を開ける。途端、玉ねぎをじっくりと炒めたような甘い香りが鼻腔をくすぐった。顔をキッチンに向けると、そこで料理をしていた悠貴が陽だまりのようなあたたかい感情を浮かべ破顔した。
「おかえり。研修、お疲れさま」
緊張していた心がほっと和らいでいく感覚に比例して、頬もじんわりと緩んでいく。
「うん、ただいま」
「疲れたろう? 今日は定時で上がってきたからいろいろ作ったんだ。荷解きして、手を洗っておいで」
白のワイシャツに腕まくりをし、眼鏡を湯気で少しだけ曇らせた悠貴が「ほら」といわんばかりにコンロにかけている鍋を指差していた。聡子は「うん、ありがと」と短く言葉を返し洗面台に向かう。
手を洗いながら、眼鏡をかけた彼の横顔にもずいぶんと慣れた気がするなぁと心の中で独り言ちる。ひとつ屋根の下で一緒に生活をするようになって初めて知ったことだが、悠貴は視力が悪い。比較的軽度とのことだが、東京オフィスの立ち上げの前後から視力が低下しつつあったらしく、仕事中はコンタクトレンズ、自宅では眼鏡という使い分けをしているそうだ。居候初日はびっくりしてしまったものの、ほんの数日で彼の眼鏡姿にも慣れてしまった。
「わ。すご……」
軽く荷解きをしてリビングに戻ると、ダイニングテーブルには悠貴の手料理が所狭しと並んでいた。飴色になるまで丁寧に煮詰められたオニオンスープに、バジルソースがかかったカプレーゼ。フライドポテトとにんじん、ブロッコリーのグラッセが添えられた鮮やかなステーキ。フランスパンに添えられた発酵バターはとろりと溶けて黄みがかった黄金色に姿を変えており、視覚的にもひどく空腹感を刺激していく。
「久しぶりに作ってたら興が乗っちゃってね。やっぱり料理は無心になってできるからストレス発散になっていいな」
大きな瞳を楽し気に細め、弾むような足取りで悠貴は冷蔵庫へ向かう。そこから炭酸水を取り出した拍子に、彼は深いネイビーをしたつる《テンプル》が印象的な縁のない眼鏡をくいっとずり上げた。
悠貴は独身だ。男性の一人暮らしということで、聡子はてっきりざっくりとした簡単な食事ばかりを取っているのだろうと思っていた。だからこそ、聡子が悠貴宅に身を寄せてからは入社前で毎日が休日状態だった自分が張り切って夕食を準備していた。
――もしかしなくても……
どうやら悠貴にとって料理はストレス解消の手段でもあるらしい。目の前に広がる料理のレパートリーとその出来栄えを見る限り、先週の自分の行動はお節介だったように思えてならない。
「その……叔父さんの大事なルーティンを私が奪ってしまって……ごめんなさい」
「ん?」
泣き出したい気持ちに駆られながら肩を落とし、席に着いた悠貴に小さく頭を下げる。彼はきょとんと瞳をまたたかせたのち合点がいったように息を小さく吸った。そして次の瞬間には、なにかを言いたげに唇を震わせもどかしそうに眉を歪める。
「あー……いや、すまない。そういう意味じゃなかったんだ」
苦い口調で紡がれた言葉をどう受け取っていいのかわからず、聡子は立ちすくんだまま複雑に入り乱れる感情をやり過ごそうと嘆息する。
「年度末とかの忙しい時期は毎回宅配ピザとか冷食で済ませてたから、先週聡子が作ってくれてたのは本当にありがたかったんだよ。謝ることじゃないから」
決まり悪そうに笑みを浮かべた悠貴に聡子は「でも」といいすがりそうになり、ぐっと口を噤んだ。花を持たせてもらっているとわかってはいるが、そうやってこちらを気遣ってくれている叔父をこれ以上困らせてはいけない。快適な共同生活を送るため、互いを尊重しあおう、と――初日に二人の間で約束したからだ。
ためらいがちに視線を上げるとくつろいだように笑う悠貴と視線が絡み合う。彼のその表情は縮こまりそうになる心を不思議と軽くするなにかを持っていた。
「これからはやれる方がやっていこう。聡子も残業あるかもしれないし。お互いに無理しない生活をしていこう。俺らは家族なんだから、な?」
悠貴の揺るぎない声色が、その場しのぎの慰めではないことを明確に表している。彼は座ったまま腕を伸ばし、聡子をあやすように頭を撫でた。ふわふわであたたかい毛布にくるまれたような落ち着ける感覚にほっと胸を撫で下ろす。
聡子の目から見ても違和感なく都会に溶け込んでいる悠貴は、自分の知らない人間《ひと》になってしまったように感じていた。けれど、なにに関しても優しく気配りを欠かさないのは変わらない。それが彼の本質ともいえる部分なのだろう。
「せっかく一緒に生活するんだから、楽しみながら毎日を過ごそう。俺が聡子に求めるのはそれだけ。先週も言ったろう?」
「……うん。ありがと」
「ん。今みたいに言いたいことはなんでも話して。それは俺との生活のことだけじゃなくていい。仕事で嫌なことがあったとか、そういうのだってなんでも話してな。俺はいつも聡子の味方だから」
くしゃりと表情を崩して笑う彼に負担をかけないよう、聡子もそっと口角を上げた。聞きわけのない子どものように駄々をこねて困らせるのは本意ではない。聡子はそのまま素直に食卓に着いた。
「いただきま~す」
「はい、どうぞ。俺もいただきます」
揃って両手を合わせ、聡子はまずはメインのステーキに箸をつけた。鮮やかな見た目通りの美味しさに、口元が綻ぶ。脂が多すぎることもなく、程よい弾力。焼きも良く、口の中で溢れ出す上質な肉汁が香り立ち、静かな波のように押し寄せる。
「ん~、美味し……」
「それは良かった」
悠貴が満足そうに眉を下げ、箸を動かし始めた。互いに一週間分の話をしながら、ゆっくりとした時間が流れていく。
「研修で勉強したことをちゃんと実践できるか不安だけど、同期の子たちとすごく仲良くなれたからちょっと安心したかも」
「それはよかったね。新卒の同期って一生に一度の存在だから、困ったことがあったら先輩だけじゃなくて彼らにも頼るといい。同じ立場で悩みをわかちあえる存在って本当に貴重なんだから」
「うん」
輪切りレモンを浮かべた炭酸水のグラスを傾けながらしみじみと語る悠貴の姿に相づちを打つ。彼が月下部インテリアデザイン事務所に入社したのは聡子は小学二年生に進級した時期だった。こうなってくると、俄然自分が知らない叔父の若いころの話を聞いてみたくなる。
「叔父さんが新入社員のころって、どう思ってた? 何に気をつけてた?」
聡子が食い気味に訊ねてみると、悠貴は遠い場所を見つめるように瞳をすがめ、思案の表情を浮かべた。
「う~ん……こうやって聞かれると、ちょっと難しいなぁ」
困ったように小首を傾げた悠貴は、それでもほんの少し嬉しそうに目尻を下げている。
「とりあえず、なんでも受け入れて使ってみることかな。臨機応変の第一歩。そのためには与えられた仕事を大雑把に『だいたいこんな感じ』くらいで理解して進めることも大事。細かいところまで完璧に理解しようとするといくら時間があっても足りない。仕事って、やってたら理屈はあとからいくらでもついてくるものだから。……先週も言ったけど、時は金なり。時間は有限なんだから、大切に使わないと」
「……うん」
汗をかいたグラスをくるりと回しながら語る悠貴の姿に、このことわざは彼の座右の銘のようなものなのだと理解した。弦司が『フットワークが軽い』と評する根幹の部分。悩んで立ち止まるより前に進もう、という彼の信念の表れなのかもしれない。
――見習いたい、なぁ。
これから先、仕事上で悩むことも出てくるはずだ。そんなとき、悠貴のこのアドバイスを思い出して乗り越える糧にできたら――そんな想像をすれば、未来への展望は明るい気がした。自分にとって悠貴が『頼れる親戚のお兄ちゃん』であることは不変の事実なのだと実感する。
「だからね、頑張るときは頑張る、休むときは休むというオンオフの切り替えが大事。明日はゆっくり休むといい。明後日は俺も振休で休みだから、桜でも見に行こうか」
「あっ、うん! 行く!」
こうして悠貴が聡子を血の繋がった妹のようにべたべたに甘やかしてくれることだって、子どものころから変わらない。自分が彼を兄のように慕っていることも。
きっと、これから先も変わることはないと――そう、思っていた。
*……*……*
聡子が悠貴と生活をともにするようになって三週間。引っ越しの荷物もほぼ片付け終わり、会社で働くという新しい生活リズムにもずいぶんと慣れてきた。聡子は食品販売四部に配属され、主に自社で加工したレトルト食品を全国のスーパーや小売店に卸す業務の事務作業に携わることとなった。現在は簡単な電話応対や見積書や契約書のファイリング等を任されているが、徐々に商品管理や売上データの入力作業も任されていくことになるらしい。OJT制度が確立されており、懸念していた部内での人間関係についても良好な関係を築けていけている。
新入社員である聡子は定時で帰ってくることが多く、反対に悠貴は通勤時間の制約がないため夜遅くまで一階のオフィスで仕事をしていることが多い。それでも水曜日は違う。『水』という単語から水害や契約が水に流れることを連想させるため住宅業界では定休日を水曜日に設定する場合が多く、それに倣って月下部インテリア事務所も水曜日を休日としている。その日だけは聡子が帰宅するころには夕食が並んでいるのが常だった。
そんな週の中日、数日ぶりに二人揃っての夕食を取り終えた聡子は一度部屋に引き上げ、ごそごそと鞄から封筒を取り出した。ぎゅっとその封筒を握り締め、緊張気味にリビングに戻る。片付けを終えテレビを観ながらリビングのソファにゆったりと腰掛ける悠貴の隣にそっと腰を落とし、おずおずと声を絞り出した。
「叔父さん、あの……」
「ん?」
「……これ、生活費」
今日は富士沢食研に入社して初めての給料日だった。いざ言葉に出すと迷ったものの、もう後には引けず手元の封筒をテーブルに差し出す。それを認めた悠貴が瞠目《どうもく》して大きく息を飲んだ。膝の上でぐっと手を握り締め、まるで判決を待つ被告人のように彼の言葉を待つ。
「夏のボーナスが出てからでいいって言ったろう? 今は貰えないよ」
「でっ、でもっ……やっぱりいろいろお世話になってるし……私が納得いかないから」
同居生活を始めるにあたり、金銭的な約束ももちろん交わしていた。悠貴はやはり姪である聡子を甘やかしたいようで、新卒の初任給なんてしれたものだから、最初は生活費は受け取らない、夏の賞与後から経済的に余裕が出てきたら少しずつ家計にいれてくれたらいい、と……そう言っていた。
「この前も言ったけど、一生に一度の初任給なんだから聡子が使いたいように使ったらいいんだって」
ソファから身を起こした悠貴は不満げに小鼻を膨らませながら、ひどく真剣な声色で聡子を諭すように声をあげた。だが、聡子は叔父からふたたびその言葉を引き出したかったのだ。これ幸いとばかりに隣に座る悠貴を見上げる。
「うん、だから、私が使いたいように使う。お父さんとお母さんにもちょっとしたプレゼントを買おうと思ってる。でも、やっぱり叔父さんにも渡したいって思った。……だめ?」
本当はなにかを買って渡そうと思っていた。けれど、悠貴は一人暮らし歴も長くこの家には生活に必要なものは一通り揃っているし、仕事関係で使えるものと思っても贈り物にふさわしいなにかが思いつけなかった。結局、現金を渡すという味気ないものとなってしまったが、なにもしないよりはましに思えたからだ。
息がつまりそうなほどの緊張感が聡子を支配していた。身体の中心がどくどくと忙しなく跳ねている。こんなことで十五歳も年上の悠貴を言いくるめることができるとは到底思ってはいないが、それは聡子の中にあるせめてもの願いだった。
「…………そうきたか」
さりげなく目を伏せた悠貴は力なく苦笑したように見えた。
「わかった。聡子の気持ちを尊重する」
しょうがない、と言わんばかりに肩を竦《いさ》めた悠貴が腕を伸ばした。ソファから立ち上がった彼の長い指先が封筒をさらい、その足が隣続きの私室へと向かう。困ったように微笑んで、それでもほのかに万感の思いを宿した悠貴の横顔。大事なものを受け取ったかのように手にした封筒を私室のワークデスクの引き出しにそっとしまう彼の姿からは、姪の気持ちが大切だと言わんばかりの感情が伝わってくる。聡子は背を丸め、俯きながらそっと胸元を押さえた。
気持ちを押し付けるようで申し訳ないとも思う。けれど、どうしてもこれだけは受け取って欲しかった。昔も今も、叔父からは掌中の珠とするようにたくさんの愛情を与えられてばかり。ずっとずっと、なにかしらを返したいと思っていた。
――でも……
こうして自分のわがままに譲歩してくれることも恩愛の一端だ。それがわからないほど聡子は子どもではない。
なにかを返したいと願ったはずなのに、結局は聡子が一つを返す前に次から次へと新たな芳情を与えられている。走っても走っても彼には追いつけない気がして、幾ばくかの寂しさが唐突に込み上げた。
小さく吐息を落とせば、いつの間にか隣の私室から悠貴が戻ってきていた。彼はゆっくりとソファに沈み込みながらテレビのリモコンを操作していく。込み上げた感情は一旦胸の奥に押し込め、パッと切り替わったテレビに目を向けた。そこに映っているのは全国の観光地でそれぞれおすすめの飲食店を特集したバラエティ番組。中部地方の瑞々しい茶畑を背景に、抹茶ジェラートを紹介している。
「うまそ。もうそんな時期かぁ。そろそろお義父さんから新茶が届くかな……」
悠貴がまとう空気がふわりと緩む。ふるさとを懐かしく思う感情は聡子と同じなのかもしれない。
あっという間に新緑が芽生える季節となった。聡子が育った地元も少し車を走らせて南下すると、この時期は一面もえぎ色に変わった茶畑が広がる。もうそんな季節かとその番組の音声を聞き流しながら液晶画面に映し出される映像をぼうっと眺めた。
今日は更衣室にいると周囲から浮かれたような声色で連休中の帰省の予定だったり、デートの予定だったりが話されているのを耳にしたが、あいにく聡子にはそういった予定が全くない。一人旅をするにしても初任給のみでは金銭的に難しく、今年は自宅《ここ》でゆっくり過ごそうかと考えてはいる。
「そういえば。聡子はゴールデンウィーク、帰らないの?」
テーブルの上のマグカップに手を伸ばしながら悠貴が穏やかな声で問う。悠貴はどちらかというとコーヒー派のようで、車で少し行った先の焙煎所でコーヒー豆を購入しているらしい。食後は必ずハンドドリップでコーヒーを淹れている。もちろん、聡子もタイミングが合えばお相伴にあずかっていて、今日のコーヒー豆はコロンビアの深煎り豆。苦みと酸味のバランスが良く聡子のようなコーヒー初心者にもおすすめなのだそう。
「特に帰る予定はないよ。ゆっくりゴロゴロして、ちょっとこの辺りを散策しようかなって思ってる」
「そうなんだ。せっかくだし、彼氏とちょっと遠くに遊びにいってきたらいいのに」
流れていくバラエティ番組を観ながらなんでもないように紡がれたそれは、聡子の胸に勢いよく刺さるような言葉だった。
恋愛経験がないわけではないが、はじめて付き合った彼氏とは本格的な就職活動が始まる直前に将来設計が合わずに別れてしまった。その後はずっとフリー。
恋愛には体力と気力が必要だ。自分をさらけ出して、相手のことを受け入れて……今はそういった新しい関係を一から構築する気力がない。会社で新社会人としてしっかり立ち回ることを考えるだけで精いっぱい。
なにがなんでも彼氏が欲しいとか、結婚したいという願望が聡子の中にあるわけではない。ご縁があったらそのときに考えたらいい、くらいの認識でいる。別に焦っているわけでもないが、華の二十代といわれる月日を二年以上も独り身でいることに対しての胸の内の気重さは確かに感じていた。
「……彼氏なんていないもん」
「えっ……」
正直に憂うつな感情を丸出しにして言葉を返すと、悠貴がこれまでにないほどに目を大きくした。彼のその言動の意図が掴めず、聡子はソファの上でマグカップを握り締めたままきょとんと瞳をまたたかせる。
「……叔父さん?」
硬直したような悠貴の様子を怪訝に思って首を傾げると、わずかな沈黙ののち、悠貴は気を取り直したように苦笑とも表現できない曖昧な笑みを浮かべた。
「実をいうと、俺、お目付け役に任命されたと思っていたんだ。華子さん、心配性だからね。聡子を一人暮らしさせたら彼氏のところに入り浸ったりして、良からぬことになるんじゃって思ったんだろうなって」
思いがけない話に今度は聡子が驚く番だった。確かに悠貴の家に居候をすることを提案したのは母である華子だ。だが、両親にそうした思惑があったとは聡子は知る由もなかった。自分が知らされていなかっただけなのか。けれど、悠貴の口ぶりからするに、はっきりとそうした依頼が両親と悠貴の間で交わされたものではないようだ。
「お母さんからそういう話があったの?」
混乱のままに聡子が悠貴ににじり寄ると、悠貴はふたたび困ったように吐息を落とす。
「う~ん、華子さんとそういう話はしてないけどね。俺は聡子の『家族』だし、そうならないように見張っててね、ってことなのかなと思ってた」
聡子は投げかけられた言葉を咀嚼するようにゆっくりと瞬きを繰り返す。優し気な彼の声色からは困ったような感情が確かににじみ出ていた。まるで――厄介な仕事を回され、面倒だと思っているような。
「……」
数年ぶりの再会から変わらずに聡子を甘やかす叔父が本当は腹の底でなにを考えているのか、皆目見当がつかない。もしかすると悠貴には聡子に明かしていない『彼女』のような存在があって、聡子が自宅にいると不都合なのではないかと少し複雑な気分になってしまう。堰を切って溢れ出た感情にはきりがなく、数多の疑いが沸いて、聡子はそのどれもに解答が見つけられない。
『連休中はここにいないほうがいい?』
聡子は言いかけた言葉を飲み下し、別の言葉を探した。こんな聞き方をすれば、心優しい叔父は自分に気を遣ってそんなことはないと返すに決まっている。
「その……叔父さんこそ……彼女さんとか、いないの?」
悠貴はもう三十七歳だ。インテリアデザイナーという職業柄、高いファッションセンスも持ち合わせている。そして先般のレストランでも感じたが、常日頃から紳士的な振る舞いをみせる。顔立ちも精悍で、身内というひいき目を除いたとてモテない要素がない。
きっと彼の隣に立つ女性は繊細さと適度な抜け感を持ち合わせた都会的な女性が似合うはずだ。お互いに自立した生活を送っていて、成熟した大人の関係を重ねていくような。
そんな想像をすると、どうしてか聡子は胸の奥がつきんと痛んだ気がした。
「月下部に養子に入ってからはいないよ。両親が高校の時に死んで天涯孤独だった俺だけど、ありがたいことにお義父さんに期待されて養子になったわけだし。ありきたりだけど、仕事が恋人だったから。まぁ、こっちの支社を任されてそれどころじゃなかった……ってだけだけどね」
眉を下げて頬を掻き、朗らかに笑う悠貴の言葉に偽りの空気は含まれていない。その言葉を聞いてわずかに安堵してしまう自分がいたことに聡子は驚いた。と同時に、わずかに胸の内に湧き上がったざらりとした感触。
「……そっか。叔父さん、大変だったんだね」
「仕事は好きだから、苦ではなかったけど。いろいろ大変ではあったね。でも……充実した四年だったと思うよ」
「ふぅん……」
穏やかに回顧する悠貴に合わせるように聡子も言葉を重ねる。二人の言葉が途切れると、流し続けているバラエティ番組の音声だけがリビングに響いていく。シーリングファンの静かな駆動音がやけに耳に残った。
この瞬間に抱いたざらりとしたもの。それをやり過ごそうとしてもうまく流しきれず、聡子は結局、この日はまんじりと自室の天井を眺めるばかりで、なかなか寝付けなかった。
*……*……*
乗り込んだ電車のドアが軽快な音を立てて閉まる。と同時に、通勤ラッシュ中のホームの喧騒が搔き消えた。電車内の静かな空間から声をひそめた周囲の人々の話し声が聞こえてくる。
出入口の扉に近いつり革につかまる聡子の目の前に立っているのは、フォーマルな印象が強いぱきっとしたダブルスーツを身にまとった男性。外回りが主である営業マンなのだろうか、肌は少し日に焼けていて健康的に見える。サックスとホワイトのストライプシャツに、ブランドネームをランダムに配置したネクタイ。髪もワックスでしっかり整えてあり、欧州のダンディなおじさまを彷彿とさせる装いをしていた。ふっと視線を動かせば、左手にはハイブランドのロゴが大きく入った腕時計が目に入る。
左手の薬指は空っぽ。それを確認した周囲に立つ女性たちがにわかに色めき立っているのを肌で感じる。手に持ったスマートフォンでカモフラージュしながらも、彼女たちは時折彼にちらりと視線を送っていた。それほど彼のまとうオーラは周囲の男性とは一線を画す格別なものだった。
――ハリウッド映画の……俳優さんみたい。
年に一度のアカデミー賞の受賞式に出席するような、とても華やかな服装だ。紳士的で頼りがいのある印象をもたせる扮装《いでたち》をしているのに、聡子としてはいまひとつピンとこない。渋さもあるのに爽やかで、それでいて明らかに成功者であるという雰囲気を醸し出し、何人もの女性の心を一瞬にして鷲づかみするほどの男性が目の前にいる。でも、関心がわかない。ブランドものをスマートに着こなしておしゃれだなとは思う。
――正直……叔父さんの方が、かっこいいもんなぁ。
悠貴は普段からこんな風に着飾らなくてもおしゃれだ。接待の際によいものをたくさん食べてアルコールも摂取するからか、普段の食事では節制して、休日である水曜日にはジムに通ってしなやかな体型を維持している。毎日朝食後にコーヒーを片手にタブレットで電子新聞を読んでいる姿から、常に情報収集を怠らず、仕事に対する責任感も強いことが窺える。男性の魅力は決して着飾るだけでは作れないというのを体現したようなひとだ。
普段の生活で交わす会話でもそれは見えてくる。時事問題から経済まで話題も豊富で、聡子の知らない世界を教えてくれ、なのに聞き上手だ。先日、配属されて一ヶ月になるのに電話応対に対する苦手意識が克服できないという悩みを相談した際にも――。
『外部の電話を受けるってね、誰がどんな仕事をしているのかわかりやすくなるメリットもあるんだよ。部内の全体像を把握しやすくなるから、必然的に要点を理解する力が養われる。仕事以外でも使えるコミュ力が付くって考えてごらん。電話応対って、メリットの方が大きいと思わない?』
そう言われ、確かにと納得したうえに安心もした。インターネットで調べても『数をこなせば慣れる』といういわば根性論のような解決法しか見つからず途方にくれていたが、こうしてなにかに悩んで相談すれば返ってくるアドバイスも的確だ。悠貴と言葉を交わせば交わすほど、今まで抱いてきた尊敬の想いがどんどんと積みあがっていく。
いつなんどきだって聡子の味方でいてくれる。そんな悠貴になにかを返せたらといつも思っているが、結局は初任給から生活費として少し渡したくらいしか返せてない。
青年期に両親を一度に失うという辛い経験をしたのに、それを感じさせることもなく常に朗らか。血縁関係がなくとも、月下部家、そして華子が嫁いだ倉木家の支えとなってくれている。……本当に心優しいひと。
だからこそ幸せになってほしい。いつだって笑っていてほしい。
低くて優しい声をしていて、仕事着でもある白いワイシャツから覗く喉仏に妙な色気を感じるのに、くしゃっと音がしそうな笑顔が妙に子どもっぽくもある。
そんな彼の隣に――ずっと、いられたら。
「……、ッ」
ひくりと、喉が震えた。と同時に、目の前が一瞬だけ白んだ。思わず口元を片手で覆う。そうでもしないと思考に浮かんだ言葉がまろびでそうだった。
くらくらと眩暈がする。つり革につかまっていたことが幸いして倒れることはなかったものの、動揺で戦慄く喉では上手く呼吸が紡げなかった。
「大丈夫ですか」
「え」
目の前から気遣わしげな声が投げかけられる。ふと顔をあげれば、先ほどから周囲の注目を集めている男性が不安げに茶目がちの瞳を揺らしていた。
「お顔が真っ青ですよ。……すみません、そちらのかた。こちらのお嬢さんに席を譲っていただけませんか」
「あっ……いえっ! 大丈夫です、次で降りますのでっ……」
電車内で立っていた女性がいきなり口元を押えれば吐き気を催しただとか、そういう類の体調不良だと周りは認識する。彼の言葉で聡子は改めて自分の行動を顧み、急いで固辞した。事実、体調が悪いわけではない。突飛な発想に自分でもひどく驚いてしまっただけだ。
目の前の男性だって、見目が良いだけでなく気配り上手なひとだ。体力にも心にも大人の余裕がある紳士的な男性。
――わ、……たし……?
今。なにを考えただろう。先ほどから心臓が痛いくらいに鼓動を刻んでいて、浅黒いなにかが思考の奥で渦巻いている。振り払おうとしても、脳の片隅に淡い残滓がこびりついている。
この感情に答えを出してはいけない気がした。だから聡子は、胸の奥底に深く深くしまいこむことを選択した。小刻みに震える手の下で乾いた唇からゆっくりを息を吸い込む。それでも一度揺さぶられてしまった感情はなかなか落ち着いてはくれない。身体の中枢が軋むように痛かった。
今、明確な正解を探し当ててしまえばなにかが崩れるという直感めいたものがある。平穏な生活、穏やかな時間、安らげる空間。それらのすべてを失ってしまう。
だから今は――どれほど焦がれても、曖昧に受け流すしかない。だって、彼はれっきとした聡子の叔父なのだから。
「私ね~。聡子の叔父さんみたいな生活がしたいんだよね。だって羨ましいもん」
ふと気が付けば、聡子は社員食堂で同期の山谷とお弁当をつついていた。彼女から飛び出てきた話題に、聡子は一瞬、箸の動きを止めてしまう。
周囲のざわめきから察するにどうやらあっという間に昼休みに突入していたようだ。電車内でのあの出来事からの記憶が曖昧だが、こうして和やかに同期と食事をしているということから自分は午前中の仕事を普段通りにこなしていたらしい。社会人としての自覚が芽生えていた聡子は安堵から胸を撫で下ろした。
「……どうして?」
聡子はためらいがちに山谷に聞き返す。研修時、特に仲良くなった福西と山谷には叔父のもとに身を寄せているという身の上を明かしていた。その際は「一人暮らしよりも貯金しやすくなるね」と羨望の眼差しを受けたが、叔父自身が羨ましいというのはどういうことだろうか。
彼女のたれ目気味の目尻が下がって、箸を持つシャンパン色をしたネイルが天井の照明の光を浴びてつるりと艶めきを放つ。
「仕事で成功して、気ままな一人暮らしでしょ? そりゃぁ支社長を任されるくらいだから仕事は忙しいのかもしれないけど、起きる時間も寝る時間も自分で決められて、好きなことにとことん時間を使えて、自分のペースで生活できるって最高だと思う。私も早く実家出て一人暮らししてみたいなぁ」
山谷は実家が都内にあり、学生時代から変わらない生活をしているということは聞き及んでいる。
「軍資金をためて一人暮らしをするのが目標なのよね。だから私、経理部に配属されてめちゃくちゃラッキーだった。合法的に資産運用の勉強ができるからね~」
期待に満ちた表情で楽しげにそう言葉を続ける彼女の横顔に、聡子はぎこちなく「そっか」と返すのが精いっぱいだった。それが上擦ったような声色になってしまったことは、まだ付き合いの浅い山谷には伝わっていないはず。
独身貴族で、自由な一人暮らしを満喫していた悠貴の生活を乱しているのはわがままな自分のせい。改めてその事実を認識すると聡子はこれからどうしていいかわからなくなってしまう。
脳裏に浮かぶのは、悠貴の存在だけ。二人で遊んだ地元の公園のブランコ、茶摘み体験に連れていってもらった日の夕焼け、温泉旅館で卓球対決をした時のこと。黒いエプロンを身に着けて楽しそうに料理を作る横顔、キッチンでコーヒーを淹れる優雅な立ち姿。
悠貴は幼いころから聡子を慈しんで、そばにいてくれた。それは今だって変わらない。養子縁組で繋がった義理の家族に対しても気配りを忘れず、姪《聡子》のためにと日常生活でもあらゆる場面で心を砕いてくれている。
そんな心優しい叔父がようやく手にした自由な生活。彼の安寧を踏み荒らしたのは聡子自身だ。
だから――いや、だからこそというべきだろうか。今朝、卒然思い浮かび、自らの手で沈めた情動は、決して掘り起こしてはいけない。早く叔父にたくさんの恩返しをして、社会人として自立の道を探らなければ。聡子にできるのはそれだけだ。
感情のすべてが炙られるような焦慮を堪え、聡子はそっと手元の弁当箱に視線を落とす。
楽しそうな笑い声や提供される料理の馥郁《ふくいく》たる香りが憩える社員食堂を包んでいる。昼休みのわずかな時間にリフレッシュして、この場所にいる誰もが午後からまた気持ちを切り替えて仕事に励む。だから今、こんなことを考えていては立派な社会人にはなれない。
そう自分に言い聞かせたものの、襲いくる大きな喪失感を拭い去る道筋がどうしても立てられずにいた。この感情がなにに起因するものなのか、今は考えたくない。
「そういえば! 来月、駅前に新しいスイーツ屋さんができるんだって。聡子も今度友梨佳と一緒に行かない?」
「うん、行きたい。あとで予定確認する〜」
瑞々しい笑顔を振りまく同期に相づちを打つ。暗い感情を追い払うように、聡子は必死で笑顔を貼り付け、ランチどきの女子トークに花を咲かせた。
◆三章 言い訳さがしの日々
恋とはどんな感情をいうのだろう。
なにかに憧れることやなにかを愛することをいうのだろうか。それとも、その人が欲しいと強烈に願うことをいうのだろうか。乾いて飢えて、欲することが『恋』という感情なのだろうか。
「これをこっちに持ってきて、っと。……聡子、これで拭き掃除できる?」
「うん。ありがとう、叔父さん」
電子レンジ等を載せたキッチンカウンターを動かす力強い腕。ジムに行く際に着ているらしいぴたりとしたトレーニングウェアは、普段はスーツの下に隠れている悠貴の雄渾《ゆうこん》な身体のラインを露わにする。聡子にとって危険な魅力を放つ彼の艶やかな体躯を視界に入れないよう、できるだけ自然な声色を意識して濡らした雑巾を手に取った。
「いいえ。じゃ、俺は窓を掃除してくるよ。聡子の背丈じゃ届かないだろうし。そのあとはエアコンのフィルターを取り外してくるから」
「ん。お願いします」
蛇口にかかった悠貴のしなやかな指先に視線が吸い寄せられる。思わず瞬きを忘れて目の前の光景に見惚れてしまう。水が勢いよくシンクに叩き付けられる音にはっと我に返り、聡子は慌てて作業に戻った。
悠貴は軽やかな足取りでリビングを横断し、ベランダへと続く窓を開ける。まばゆい夏の光をまとった厚ぼったい風が室内にむわりと吹き込んでいく。
思考の奥深くにこびりついた感覚を振り切るように無心になり、聡子は黙々と作業を進めた。彼の手によって普段とは別の場所に移動したそれぞれの家電や家具の下の汚れを取り除いていく。
三ヶ月の試用期間を過ぎ、聡子は今月から本格的に営業事務職としての業務に携わっていた。OJT研修の担当である先輩に教えを乞いながら、会社独自の売上管理システムへの入力だったり、各仕入れ先への支払い手続きだったり、はたまた卸し先への請求書作成等々、ひとつひとつの業務を丁寧にこなせている。
そんな勤務時間中も、手が空けばふと悠貴は今なにをしているだろうと彼の動向に思いを馳せてしまう。同居しているので、何時に帰るだとかなにかを買ってきてだとか、昼休みにそうした定時連絡をするたびに早く既読が付かないかと待ちわびる自分を認識しては狼狽える。自らの手で奥深くに沈めたはずの情動を、自らの手で無意識に引っ張りあげてしまっている矛盾に動揺を隠せずにいた。
悠貴が遅くまで一階のオフィスで仕事をして帰宅が遅くなると、妙に寂しくなる。彼の「ただいま」という声を聞くと安心する。
リビングで過ごす時間でも、話しかければ穏やかに頷いてくれる悠貴と同じ空間にいる、というだけで心が休まる。離れがたいと思う感情に襲われる。
今――自分が抱いているこの感情はなんなのだろう。それらの因数分解を試みては、解答に辿り着けずに幾度となく打ち捨てる。
悠貴《その人》が欲しいというこの感情が恋というのならば、自分は人倫の道に背いている。曲がりなりにも、彼は自分の叔父だ。家族に対してこんな不埒な感情を抱いている自分がどうかしている。
自分は幼い憧れを恋心と勘違いしているだけなのかもしれない。触れることができる距離にいることが多く、手が届きそうで届かない距離で生活をしており、それらの感情を恋心にすり替えてしまっているだけなのではないだろうか。
はたまた、一種のホームシックなのかもしれない。生まれてこのかた離れたことがなかった両親と、物理的に離れた生活をしているからだ。就職した富士沢食研へのインターンシップや、大学での友人たちとの卒業旅行で数日間実家を離れることはあったものの、数ヶ月単位でふるさとを離れたことはない。だからこそ身内である叔父に情愛に似た感情を抱いているのではないだろうか。だとすればこの侘しさにも日ごとに慣れていくのかも知れない。
けれど――そう思おうとするたび、抑えがたい浅黒い感情に支配される三ヶ月を過ごしてきたことも、偽れない事実だった。
「……ふぅ。ずいぶん綺麗になったね」
掃除を始めた時には高い位置にあった熟した太陽が暮れて鈍っていく。茜色の空を背景に、こめかみから落ちる汗を腕で拭った悠貴がそっと呟いた。毎日、悠貴か聡子のどちらかができる範囲で掃除をしているためそこまで気合いを入れて大掃除に取り組むものでもなかったが、やはり棚の裏や扉の戸当たりまでは日ごろから手が回らないもの。聡子も汗ばんだ首筋に空気を送るように、パタパタと部屋着の胸元を動かして返答する。
「うん。八月に入る前に大掃除できてよかった」
今年は例年にない酷暑が予想されていた。そんな最中で大掃除に取り組むよりも、暑さが一層本格的になる前にあらかた済ませてしまおうと二人で話し合った。休日の予定を相談しあい、タイミングを合わせたことであっという間に家中の大掃除を済ませられた。
汗ばんだ彼の肉体から溢れ出る蠱惑的な色香の威力はすさまじく、室内に充満する空気の熱さとは異なる熱が身体の奥底から込み上げていく。聡子はその事実に、罪悪感と自分に対する嫌悪感を強めるばかりだった。
早く――早く、この感情に蓋をしなければ。でなければ、得体の知れないなにかに囚われて、真っ向から立ち向かう力を失ってしまう。
「よし! 今日は二人とも掃除頑張ったし、ピザ頼もう。ポテト、食べる?」
「あっ、食べる食べる!」
脳内にある感情とは裏腹に口角を上げ、半ば無理やりに頬を緩ませた。あの日からずっと、悠貴が聡子に抱く『明るい姪』というイメージを壊さないよう細心の注意を払っている。誰から見ても不審に思われないように。なにより、悠貴自身に疑念を持たせないように。
日が沈めば冷たい夜が訪れるように。時を経るごとに、聡子の心には深い帳《とばり》が降りていく。
「ん~、いい匂い……」
玄関のインターフォンが鳴り、悠貴がピザの袋を配達員から受け取ってきた。リビングに広がるピザソース特有の濃密な香りが鼻腔をくすぐっていく。聡子は漂う香りを堪能しながらも、綺麗にしたばかりの食器棚から真っ白なパンプレートを取り出しダイニングテーブルに並べた。
今夜注文したのは、繁忙期の悠貴がよく取り寄せていておすすめという宅配ピザ。料理好きな彼がおすすめするだけあって、見た目も非常に華やかだった。四種のチーズのマルゲリータはたくさんのプチトマトが乗っており、チーズとほのかに香るバジルの匂いが食欲をそそっていく。その他には、ツナとオリーブの珍しい組み合わせが特徴的なシーフードピザと、照り焼きチキンにマヨネーズがトッピングされた変わり種のオリジナルピザ、そして生ハムとモッツァレラチーズが乗ったシンプルなピザ。そしてポテトとシーザーサラダ、コーンポタージュ。
白いパンプレートと色とりどりのピザの鮮やかなコントラストがダイニングテーブルに花を添えている。一面を見渡した悠貴が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「今日くらいは晩酌するか」
いいことを思いついた、と言わんばかりに悠貴はことさらににっと口角を上げる。聡子も肯定するようにこくこくと首を振った。せっかく過ごす楽しい食事の時間だからこそ、今は自分の心の中に巣食う憂いには目を向けたくない。それに、悠貴がストックして時折飲んでいるお酒にも興味があった。
「やった! お疲れさま会だね。私ね、叔父さんが飲んでるハイボール、飲んでみたかったの!」
「おっ。じゃぁ、オレンジを絞ってオレンジハイボールにしてあげよう。爽やかでハイボール初心者でも飲みやすいんだ」
悠貴はそう口にしながら腕まくりをする仕草をした。冷蔵庫のわきに置いている円柱型のリカーラックの前でしゃがんで小さく呟いていく。
「俺は……ん~、お義父さんから送ってもらったスピリタスにしようかなぁ」
真鍮色をしたエレガントなそれに手を伸ばし、二つの瓶を腕の中に抱え込んでいく。弦司は義息子《むすこ》を常に気にかけているようで、三ヶ月に一回の仕送りを欠かさないらしい。先ほど悠貴が手にしたスピリタスもゴールデンウィーク明けに弦司から届いたものだ。
特に今年は聡子も生活をともにしているためか聡子の両親も拠出していたようで、今年の新茶にお米、保存がきくレトルト食品、さらには地元産の果物や銘菓まで一緒に同封されていた。二人して、家族という存在のありがたさを身に染みて感じる出来事だった。
「んじゃ。乾杯!」
「かんぱーい!」
チン、という軽い音が響く。合わせたグラスを放した拍子にダイニングチェアに腰かけてくつろぐ悠貴の姿に見とれてしまいそうになり、聡子は慌ててそれに口をつける。公私のオンとオフ、その両面を見せられて胸が高鳴らないわけがない。悠貴が聡子に対して心を許しているからこそ見られる光景だからだ。
――だけど……本当はそうじゃないのも、わかってる……。
それは、聡子が姪《親類》だから。それ以上でもそれ以下でもない。ふたたび暗い場所に落ちていきそうになる自分を跳ね除けるようにグラスの中の液体を口内に含んだ。
叔父が手ずから作ってくれたハイボール。オレンジの甘味と酸味が口の中にじんわりと広がっていき、こくんと飲み干せば少しだけ熱い感覚が喉の奥に残る。それでも悠貴が言ったように柑橘類の香りが爽やかでとても飲みやすい。あまりの美味しさと飲みやすさにそのまま勢いよく飲み干しそうになるが、どうやら悠貴にはお見通しらしい。彼は呷ったグラスをテーブルに置き、聡子を窘めるように眉根を寄せた。
「ちゃんと食べてから、な? ハイボールは曲がりなりにもウィスキーだからね。すきっ腹だと悪酔いするから」
「……は~い」
こうして、悪いことは悪いと叱ってくれる。咎めてくれる。家族として――叔父として。その思いを無下にしてはいけない。
そんなことをぼんやりと考えながらグラスを置き、目の前に広がるピザの海に視線を落とす。
「アボカド入りのもお願いすればよかったなぁ」
「んん? どうして? 聡子、アボカド好きだったっけ?」
まずは定番から、ということだろうか。テーブル中央に鎮座するマルゲリータを手に取った悠貴が目を丸くした。それに倣うように聡子もマルゲリータに手を伸ばす。
「あの青臭さ、私は苦手だけど、アボカドって疲労回復にうってつけの食材なんだよ。ビタミンが豊富だから。私よりも叔父さんの方が色んなの動かしたりして疲れただろうから、頼んでたらよかったなって」
ピザを注文した一時間ほど前にその考えに至れればよかったのだろうが、あの時は心の中に住んでしまった悠貴を追い出すことで精いっぱいだった。胸に浮かんだ言葉にできない虚しさを抱えながら、何の気なしに唇に言葉を乗せる。……が。
「?」
悠貴はピザを手元に引き寄せたまま瞠目《どうもく》しているようだった。今の言葉に、そんなに驚くような要素があっただろうか。心当たりがなく小首を傾げ、どうしたのと視線で問いかける。
「いや、……さすが、っていうべきなのかな。社会人らしいというか……食材のプロって感じでびっくりしたというか」
哀愁とも感慨とも表現できないような表情で悠貴は口を濁す。聡子が入社した富士沢食研は『食材』の商社だ。聡子も事務作業だけでなく、社内で取り扱っている商品への知識も少しずつ学んでいる。こつこつと重ねた努力や成果がこうして思いがけないタイミングで評価されると、なんとなくこそばゆい心持ちになってしまう。それが仕事ぶりを尊敬している悠貴からのためなおさらだ。緩みそうになる頬を隠すように、どうということはない風に手に持ったマルゲリータに口をつける。
「そうかな」
「うん、そうだよ。こうして考えると、……本当に大人になったよなぁ。聡子と一緒にお酒が飲めるようになるなんて考えもしてなかった」
少しだけ困ったように眉を下げた悠貴はそのままピザを口に含んだ。彼は八歳のころから聡子を知っている。ずいぶんと長い付き合いのため仕方ないのかもしれないが、やはり悠貴の中にいる聡子は幼いままで止まっているらしい。
もう学生じゃない。だから――子ども扱いしないで。
思わずそんな生々しい想いが口元からまろびでそうになり、ぐっと唇を引き結んだ。
――そんなことを主張したって……どうにもならない、のに。
悠貴と聡子が叔父と姪であることは、どう足搔いても変えられない事実だ。この先もずっと、この縁続きが変わることはない。聡子の心の声に肯定を示すかのようにカランとグラスの中で氷が転がる軽い音が響いた。この三ヶ月の間、幾度となく経験してきた痛みに胸が震える。
この胸の軋みに意識の比重を置いてしまうとよそよそしい態度になってしまう。だから聡子はいつも通り心の奥深くにねじ込んだ。
口をつけたマルゲリータのチーズが重力に逆らわずに糸を引き、それを舌で絡めとっていく。四種のチーズの華やかな香りがトマトの酸味と絡み合い食べ応えも抜群。バジルソースを使っていることで、重くなりがちなチーズの風味に爽やかさを演出している。
「美味しいね」
「だろ? 俺のお気に入りなんだ、この店」
聡子の笑顔を嬉しそうに見つめた悠貴は少し得意げな口調で首を縦に振る。その拍子に彼は指先についたオイルを舌でぺろりと舐めとっていく。その姿がひどく妖艶で――知らず知らずのうちに息が震えた。
「叔父さん。それ、飲んでみたい」
不自然になりそうな声色をごまかすため小さく咳払いをし、悠貴の手元にあるスピリタスを強請《ねだ》った。自分は悠貴の目には『いつも明るい姪』として映っているはず。幼少期の自分はなんにでも興味を示して、悠貴の後をついて回っていた。彼も聡子の疑問に答えるように辛抱強く相手をしてくれた。
だからこそ。彼の前では彼が望む『姪』として振舞わなければ。
「……ひと口だけな?」
そんな聡子の言葉に、悠貴はやっぱり言うと思った、と言わんばかりに肩を竦めて手元のグラスを差し出した。
悠貴が飲んでいるスピリタスは炭酸水で割られているが、手に取ると強烈なアルコール臭が鼻をつく。注射の前に肌に塗られる消毒用のアルコールのような香りに一瞬だけ顔を顰めてしまったが、自分から飲みたいと言い出した手前、もう後には引けない。そっと口をつけると咥内が一気に熱くなる。吐きだすこともできず思い切って飲み干すと、喉のあたりで蒸発するような感覚にくらりと眩暈を覚えた。
「なんか……思ってたのと、違う」
渋い顔をしたままグラスを悠貴に戻すと、悠貴はぷっと吹き出して小さく笑い声をあげた。
「だろう。まぁ、これも経験かな? でもな、これが不思議とクセになるんだ。チビチビ飲みたいときにおすすめ」
確かに、喉を滑り降りていった後味にはほんのりと惹きつけられるような甘みとコクがあった。ついまた飲みたくなってしまうのもわかる気がする。
口の中と鼻腔に留まっている濃厚な後味を堪能していると、外からドォンと大きな音がした。思わずダイニングチェアに沈んでいた身体がびくりと跳ねる。
「びっ……くり、した」
驚きのままにベランダに視線を向けると、悠貴もそちらに視線をやり、納得したように屈託のないやわらかな笑みを浮かべた。
「あぁ、そうか。今夜だったか、プロムナードの花火大会」
悠貴の口ぶりからするにこの音は打ち上げ花火の音らしい。確かに、ここからそう遠くない埋め立て地に立地するプロムナードという商業施設から花火があがるというチラシを最寄り駅の構内で見かけたような気もする。
「……明かり消したら、見える?」
プロムナードとベランダの位置関係からすると、もしかしたら今あがっている花火が見えるかもしれない。わずかな期待に胸を膨らませ手に持った生ハムピザをパンプレートに置くと、悠貴も期待に満ちた表情で破顔した。
「見えると思う、カーテンあけよう」
悠貴とともにリビングの明かりを消してカーテンを開くと、勢いよく開かれたカーテンの袖がひらりとたなびいた。
「わ、結構見える!」
カーテンを開いた先の漆黒の夜空を、数多の大輪の花火が彩っている。会場から間近で眺めるものからしてみれば迫力も臨場感も劣るだろうが、不規則に身体の芯まで届くような大きな音が響いてくる。窓ガラス越しでも夜空に浮かぶ光の束の美しさは色彩の渦のよう。手を伸ばせば届くように錯覚してしまうほどの光景に、思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。
「綺麗……」
「うん。綺麗だね」
悠貴の整った顔に色とりどりの鮮やかな光が差し込んでは緩やかに消えていく。身体の奥が熱くなるのは、きっとさっき飲んだスピリタスのせいだ。いいタイミングで燃えるような高い度数のアルコールを摂取した自分にそう言い聞かせる。
ひゅるひゅると甲高い花火の発破音を聴きながら二人でゆっくりとダイニングテーブルに戻った。
「関東って、なんか花火大会が多いイメージ」
「確かになぁ。住んで四年になるけど、この時期はどこかしこでやってる気がするな」
和やかな時間の合間で、どぉんとひときわ鈍い音がした。ふたたび夜空に視線を向ければ、大きな錦冠《にしきかむろ》が上がっている。花びらが垂れ下がっていくような大きな軌跡を残し、金色の光が暗闇に消えていった。
「そういえば、来週の横浜の花火大会はベルンシュタインっていうショッピングモールの近くからあがるんだけど、そこは俺と大塚が立ち上げから内装デザインに関わったんだよなぁ。オープンと花火大会の日程を合わせたいからってことでスケジュールがかなり詰め詰めになってしまって、施行会社と一緒に毎日駆けずり回った覚えがある」
「そうなんだ」
悠貴が手がけた案件の事例はこちらに越してきた初日に下のオフィスで目にしている。けれど、それは写真で目にしただけで、実物を見たことはない。生ハムの塩加減が絶妙なバランスの味わいを引き出しているピザを飲み込みながら、心の中に浮かんだ考えを小さく言葉を零す。
「いつか行ってみたいなぁ。叔父さんがデザインしたって場所」
「んん? じゃ、明日ベルンシュタインに行ってみる?」
「えっ、いいの? お仕事は?」
悠貴はポテトに手を伸ばしながら鷹揚《おうよう》に頷いた。
「明日も休み。大掃除が一日で終わらなかった時のことを考えて二日休み取ってたから」
「やった! 行く!」
そんな約束を交わし、久しぶりの悠貴との外出に心を躍らせながら美味しい食事とお酒を心ゆくまで堪能した――翌日。
「うわっ、天井、すごい」
ベルンシュタインの正面出入り口を抜けた先はイベントスペースとなっている。高めの天井にはアンティーク調の素材で立体的なひし形のマークがいくつも設置してあり、濃い茶色をした流木とグリーン類がそのマーク部分を繋ぐように設置されている。そこからところどころに白い布とワイヤーライトが繋がれ、長さの違うすりガラス製の丸いライトと透明なハンギンググラスボールがいくつも顔を覗かせていた。ワイヤーライトとぶら下がっている丸いライトの黄色がかった暖色系の光がアンティーク調の一体感を演出している。悠貴のデザインセンスがひときわ光る空間に仕上がっていた。
「ベルンシュタイン、っていうのがドイツ語で『琥珀』を意味する言葉なんだ。でもシャンデリアとかランタンを使ってコテコテにすると高級志向の雰囲気が出ちゃうから、どちらかというとシャビーシック感を前面に出したデザインにしたんだよ。グリーンやワイヤーライトを取り入れて親しみやすさも出したっていう感じ」
「へぇ……」
確かに、丸いライトと無造作な流木が醸し出すアンティークの重厚感のなかにも、ハンキンググラスボールの透明感や白い布の上品さがほどよい可愛らしさを演出したデザインだ。聡子は嘆息しながら悠貴の解説に耳を傾ける。
臨時のハンドメイドマルシェが開かれているイベントスペースを抜け、テナントが並ぶ一階のフロアを歩きながら浮きだつような心持ちを覚えていた。こうして悠貴と二人で出かけるのは桜を見に行った春以来のこと。そして、なにより。
――デート……みたい。
今日は叔父とショッピングモールで買い物をする。ただそれだけだ。それでも、悠貴へ向ける感情を自覚してしまったあとだからこそ――まるでデートのようだ、と。そんなどこにでもあるような陳腐な感想を抱いてしまう。真夏の蜃気楼のように淡い恋心がほのかに舞い上がり、聡子の心を乱していく。
夏休み期間中の日曜日の昼下がりとあって、ショッピングモールは多くの人で賑わっていた。家族連れ、カップル、お一人様とたくさんの人がフロアを行き来している。
「聡子、なにか欲しいものは?」
「う~ん。ちょっと服をみたいかも」
「じゃぁ上のフロアに行こう」
そう言った悠貴とエスカレーターで上階に向かうと、彼は「このお店、どう?」とあまり人が多くない店を選んだ。聡子が普段から好んで着ているパステルカラーなどの柔らかい色味の服を多く取り扱っているお店のようだ。店内に流れるBGMもゆったりとした選曲のため、聡子が落ちついて服が見られるようなお店選びをしてくれているのだろうか。
店内に入ると、どうやらこのお店はメンズものもレディースものも置いてあるようだった。
「聡子はこんなのが似合うよなぁ」
悠貴は生成り地のカシュクールワンピースを抜き取って聡子の身体に合わせていく。大人の女性らしいやわらかな印象を引き出すナチュラルな服装が彼の好みなのだろうかと考えてしまい、慌ててそれを思考の奥深くに沈める。
「うん。アウターを工夫したら秋まで着れそうだし、買おうかな。……あ、叔父さんこれ似合いそう」
似合うと言ってくれたのは素直に嬉しい。それだけ普段から聡子の服装を見てくれているということだからだ。なんとなくの気恥ずかしさを取り繕うように聡子が手に取ったのは浅めのVネックをしたグレーのシャツ。今の彼は白のクルーネックにヴィンテージ加工されたジーンズとラフな服装のため、着回しに使えそうな服を選んだ。
「おぉ。確かによさそう」
そうして二人でああでもないこうでもないと言いながら服を選び、そのお店を出てウィンドウショッピングを楽しんでいく。
「あぁ、そうか。今年は聡子がいるから加湿器を買おうと思ってたんだった」
おしゃれな北欧雑貨やインテリア小物を取り扱っている雑貨屋の前で思い出したかのように悠貴が呟き、入ろうかと指先で意思表示される。それに従い店内に入ると、悠貴はしずく型のデザインをした加湿器を眺めていた。
「これいいね。インテリアにもなるし」
「うん。リビングにぴったりかも。私これがいい」
「じゃぁ、これにしよう」
二人で選んだ品物を手に持ってレジに向かう道中、聡子はふと『冷房対策に』という販促ポップに惹かれた。本格的な夏を迎え会社のフロアでは空調が効きすぎているときがあり、ブランケットが欲しいと思っていたのだ。綺麗に陳列されたそれらを手に取り、肌触りの良いアーガイル柄のブランケットに目をつける。
「……ん? 聡子?」
不意に足を止めた聡子を悠貴が不思議そうに見つめている。そして聡子の視線の先を見遣り、あぁと納得したように声を上げた。
「そういえば、聡子、来月の八日が誕生日だったよね。もうすぐだし、プレゼントで買ってあげよう」
「えっ……いっ、いいよ、自分で買う」
子どもならまだしも、聡子もれっきとした社会人なのだ。毎月の給料日にはいくらかを渡しているが、家賃も食費も生活費も、悠貴に多くの割合を払ってもらっている。就職祝いとしてダイヤモンドのネックレスだって贈ってもらった。悠貴からは受け取るばかりで、全く返せていない。
「いいって。代わりに俺の誕生日、期待しているから」
悠貴はおどけたように笑いながら聡子の手の中からブランケットをさらっていく。本当は自分で払いたいが、悠貴が聡子の誕生日を祝いたいと言ってくれているのだ。その意思は尊重すべきだろうと結論付け、聡子は素直にありがとうと頭を下げた。
彼の誕生日は十一月。これから少しずつお金を貯めて、美味しいお店でディナーというのはどうだろうと考えつつスーパーに寄って帰路に着く。
「よし。昨日はジャンクなピザだったから、今日はヘルシーに豆腐ハンバーグをメインにしよう」
「は~い。じゃ、私は夏野菜のスープ作るね」
「ん。サラダは豚しゃぶにするか」
「いいね~おいしそう!」
いつものエプロンを身に着けた悠貴とキッチンに並び、二人で分担して夕食の準備を進めていく。
一緒に買い物をして同じ家に帰り、こうして一緒に料理を作る。
――なんだか……新婚さん、っぽい……
法的に叔父と姪であることを除き、客観的にみれば――今の自分たちはそれに近い。漠然と抱いた感情に頬が火照るような感覚を覚えてしまう。
「聡子、ごめん。そこの塩コショウ取ってくれない?」
「ちょっと待って……はい、どうぞ」
ボウルの中でハンバーグを捏ねる悠貴の言葉に従い、そっと小瓶を悠貴に手渡した。その際、不意に彼の手が聡子の手に触れ、どくんと心臓が高鳴った。昨日も視線を奪われてしまった、彼のしなやかな指先。
これまでその手で――何人の女性に触れたのだろう。逞しいその腕で、何人の女性を抱き締めてきたのだろう。つまらない考えはすぐに消し去り手元に視線を落とす。虚しさを切り捨てるかのようにスープに入れる赤いパプリカを包丁で刻んでいく。
――夢なら、醒めなきゃいいのに……
聡子の心の中に焼き付いてしまっている悠貴の存在が消える日は、くるのだろうか。そもそも、二人で出かけたことをデートのように思ってしまったり、想像の中の女性遍歴に嫉妬めいた感情を抱くということは――やはり自分は悠貴に『恋』をしているのだろうか。
――違う……恋、なんかじゃ。
悠貴と離れ難いと思っているのは事実だ。でも、それはきっと、そばにいてくれる悠貴を親代わりのように見ているだけ。
聡子にとって悠貴は叔父で、いつまでだって頼れるお兄ちゃんだ。きっと悠貴にとっても聡子は姪で、妹のような存在でしかない。
わかっている。自分が――愚かにも、なにかをすり変えようとしていることなんて。
それでも。いや、だからこそ。
この感情は、家族へ向ける親愛なのだ、と。
割り切るよりほかにない。
*……*……*
ストライプに赤いバラ柄の浴衣を着た山谷が、カランと軽く下駄を鳴らした。
「なに食べる~?」
「私、かき氷食べたいなぁ」
「いいねいいね~。夏って感じ!」
彼女の問いかけに黒地の艶やかな浴衣を着た福西が返答し、聡子も大きく頷いた。
今夜は先日、悠貴が言っていたベルンシュタインでの花火大会の日だ。同期の仲良し三人組で夏らしく浴衣を着て会場に足を運んでいる。そんな聡子の装いは白地に藤の花があしらわれた浴衣。
悠貴にもこの恰好を見せたかったが、あいにく彼はクライアントとの打ち合わせが入っているということで朝から不在だった。お祭り特有のシチュエーションにあてられているだけなのだろうが、彼に浴衣姿を披露する間もなく自宅を出てしまったことで、聡子はなんとなくの寂しさを抱えてしまっている。
焼き鳥や焼きそば、たこ焼き等のグルメ系の出店からかき氷やクレープ等のデザート系の出店までを三人で見まわり、それぞれ思い思いに買い物をした。お盆も来週に迫っていることもあり帰省客と思われる家族連れも多く、ショッピングモール側は先日悠貴と訪れた日をはるかに上回る賑わいをみせていた。
花火大会の会場は溢れんばかりの人出だった。なんとか三人座れる場所を探し、買ったものを食べながら色とりどりの花火が夜空に打ち上げられるのを眺めて合間合間に言葉を交わす。フィナーレを飾るスターマインが断続的に上がるころ、いちご味のかき氷を食べて舌を赤くした福西がいいことを思いついたと言わんばかりに笑顔を弾けさせた。
「花火終わったらさ、ちょっと飲みに行かない?」
「行く~!」
「私も行く~。なんだかんだ、女子だけで飲みに行くのって初めてだよね」
山谷が食い気味に賛同し、聡子も笑顔で首肯する。これまで同期の男女数人で集まるような飲み会は経験しているが、こうして女子だけの飲み会は初めてだ。
良さそうなお店をあれこれとスマートフォンで検索しながら、時折三人で笑いあう。彼女らと接していると悠貴に向ける悶々とした感情が忘れられるような気がして、聡子は気の置けない親友二人との会話に没頭する。大学時代に経験したサークル活動を思い返してしまうくらいの楽しさを感じていた。
女子の集まりにお酒が入れば、必然的に恋バナが始まってしまう。
「あのね。私、開発部の及川《おいかわ》主任に告ったの~」
「え~っ! うそ!?」
三人で入った雰囲気の良い立ち飲みバルで、カランとグラスを傾けながら福西が爆弾発言をした。それを聞いた山谷は大きな瞳が溢れ落ちそうなくらいに目を瞠《みは》る。思ったよりも大きな声が出てしまったのか、山谷は直後に焦ったように自分の手で自分の口元を塞いだ。
「えへへ。あっ、社内恋愛になるから、内緒にしててね?」
福西は照れたような笑みを浮かべながら唇に人差し指を当てた。聡子も山谷もこくこくと頷き、それから福西の恋の顛末に耳を傾ける。
富士沢食研には聡子が所属する食品販売部のほかに、開発部と海外戦略部、品質管理室がある。開発部は文字通り自社で取り扱う商品の開発を行う部門。それらを全国津々浦々に売りさばくのが食品販売部で、全国に展開する食品の品質を担保する品質管理室、海外への輸出を担う海外戦略部、総務部や経理部が属する管理部門という五部門で構成されている。
「及川さんって、あの長身でメガネかけた人? でも、普段はちょっとどこかぽやってしてる……」
「そうそう。それがね、能ある鷹は爪を隠すって感じで、まさに私の好みなのよ~」
「へぇ~。私は品管《ひんかん》の佐久間《さくま》さんがいいな。あのあごひげがワイルドで好きだわぁ。聡子は?」
「……えっ」
カシスオレンジを飲みながら二人の会話を聞いているだけだった聡子に山谷が話を振る。
「聡子もい~な~って人、いるでしょ?」
顔を覗き込まれながら投げかけられた思いがけない問いに息が詰まってしまう。電車の中で悠貴への感情を自覚してしまって以降、悠貴以外の男性に目を向ける心の余裕などありはしなかった。なんと返事をすべきかと必死に考えを巡らせる。
どんなに想いを募らせても、叔父と姪の一線は超えられない。決して結ばれない間柄で、決して結ばれてはいけない間柄だ。
わかっているのに、この感情を振り切ることがどうしてもできない。誰にも言えない、明かしてはいけない想い。
聡子は胸に込み上げる切なさを払拭するかのように小さく肩を竦めた。
「う~ん、そうだなぁ……強いて言うなら、四部の取引先のオジサマの声が好みかな」
「顔よりも声ってこと?」
「そう。どっちかっていうとね~」
当たり障りのない会話で話題を躱しつつ、聡子は自分の心に問いかける。いつまでこんな感情を封印していくのか、と。
同期達は恋をして愛されて、キラキラと輝いていく。対して、自分はどうだろう。叶うはずのない想いを抱いて、これから先も燻ぶっていくのだろうか。
「いいなぁ。じゃぁお盆は及川さんと過ごすの?」
「うん。実家に連れていってくれるんだって」
「えぇっ!! すごい、及川さん本気っぽい?」
「う~ん、どうかなぁ。親に会わせることをなんとも思わないタイプなのかも。あっ、実家はお兄さん家族が同居だから、彼、一人暮らししてるらしくて。そっちにも連れてってもらうつもり」
恥じらうような笑みを浮かべた福西の言葉に、聡子はあることに卒然思い至る。
――私が……このまま、あの家にいたら。
仕事が恋人だったと彼は言っていた。だが、それはもう何ヶ月も前の春先のことだ。
例えばこの数ヶ月で悠貴が誰かに恋をしていたとして、そしてその願いが成就していたとして。彼女を自宅に招きたくても聡子が同居しているから連れてこられずにいるのかもしれない。遠慮しているだけならまだいいが、聡子が同居しているせいで恋愛を諦めたことだって――あったかも、しれない。
急に突き付けられた現実にグラグラと足元が歪んだ気がした。
悠貴の隣に、自分以外の女性が。そう思うと勃然《ぼつぜん》として、感情が胸の奥に凝《こご》りつく。とぐろを巻くようなざらりとしたそれの正体に聡子は黙ったまま目を伏せた。
――いや、だ……なぁ……
自分のせいで悠貴が我慢していることも。悠貴の隣に知らない女性がいることも。
どちらも、今の自分にとっては耐え難い事実なのだと。
認めざるを得なかった。
「浴衣なのに立ち飲みにくるんじゃなかったぁ」
バルに入って数時間が過ぎた。慣れない下駄を履いていた三人は時間の経過とともに足の痛みを覚え、ふらふらと店を後にすることに。
福西が脚をさすりながらがっくりと項垂れる。そんな彼女に肩を貸しつつ聡子は苦笑いを浮かべた。
「まぁまぁ、これも思い出でしょ~。どうする? みんなでタクシーで帰って割り勘する?」
「そうしよ~。私も鼻緒のところが痛くて限界……」
街はまだ明るい。この辺り一帯は光が沈まない街とも言われている。土曜日ということもあり人通りも多く、このまま電車に乗ったところで座席には座れないだろう。それよりは三人でタクシー代を割り勘にするほうが体力気力を削がなくて済む。
通りがかったタクシーを捕まえ、その地点から一番近い福西を自宅に送り届ける。その次は山谷の実家の通り道に位置する聡子の自宅に回ってもらうことにした。車内でも会話は途絶えることなく、聡子は悠貴への感情を無視し続けるかのように親友に向かって唇に言葉を乗せ続けた。そうでもしなければ、思考が深く深く沈んでしまいそうだった。
山谷とわかれ重い足取りで向かった玄関の扉を開けると、蝶番が乾いた音を立てた。リビングに繋がる廊下は明るく、閉ざされた先のリビングも電気が煌々と灯っている。心の奥に沈めて見て見ぬふりをしてきた思慕をはっきりと自覚してしまった今は、叔父の顔を見たくない。それでもいつも通りに――彼の前では『明るい姪』として振舞わなければ。玄関の鍵をおろしてかご巾着を上り框《かまち》に置くと、ガタンと大きな音がして廊下の先の扉が開いた。
「っ、聡子……」
「あ……た、ただい、ま」
扉を開いてこちらに視線を向けている彼はどこか余裕のない、切羽詰まったような表情を浮かべていた。そのうえ、まさか出迎えられるとは思っていなかったので、より一層言葉に詰まってしまう。
悠貴は妙な緊張感を孕んだ空気を連れたままつかつかと近付いて来たかと思えば、玄関に立ったまま身じろぎひとつできずにいる聡子を自身の胸元に勢いよく抱き寄せた。
「っ!?」
生活をともにして四ヶ月、これまで一定のラインよりも踏み込んでこなかった叔父の思いもよらぬ行動。
「お、叔……父っ、さ」
「頼むから」
状況が理解できず、聡子は小さな悲鳴にも似た声をあげる。それらを遮るように、悠貴は震える声で大きく息を吐き出した。
「頼むから……どこに行ったのかくらいは、連絡してくれ……」
「あ……」
ぎゅうと抱き締められたまま、耳元で懇願するようなか細い声が向けられる。息苦しいのは、強く胸に抱き寄せられているからなのか、それとも。
「会社の飲み会、って聞いてた日も、遅くとも日付が変わる前に帰ってきてたから……」
悠貴の冷えた手が、後頭部に回る。指先が髪に差し込まれ地肌を緩やかに撫でていく。
確かに今日は、悠貴に連絡を一切入れていなかった。忘れたいのにいつも頭の片隅にある彼の名前を目にしたくなくて、今日はスマートフォンに触れることを無意識に避けていた。そのうえ、タクシーを降りた時点で時計の針はてっぺんを回っていた。心配させてしまったのだと聡子が理解するまでにどれほどの時間を要しただろうか。
なにかを言わなければ。その思いはある。声の出し方を忘れた訳でもないのに、上手く言葉を紡ぐことができずにいた。
「遊んでまわるのはいい。若いからこそできることもたくさんある。だけど、せめて帰宅時間くらいは連絡してくれないか……」
傲慢で、愚かで、劣悪な感情だとはわかっている。今日も一日みっちりと仕事をこなしてきた彼が、日付変更線を超えても眠らずに待ってくれていたことが――泣きたくなるほど嬉しい、だなんて。
眦に熱いものが浮かぶ。心の中で張り詰めていたなにかが、ぷつんと小さな音を立てて途切れた。
――あぁ……やっぱり…………わたし。
突然の抱擁に、ときめきを抑えることなどできなかった。溢れだした想いは際限なくはらはらと落ちていく。
どこにいても彼を想ってしまう。なにをしても彼のことを考えてしまう。
この想いを表に出してしまえば、誰も幸せにならない道に足を踏み出してしまうと知っている。
この恋心が報われないと知っている。否、報われてはいけないと――知って、いる。
「ごめん……スマホ、見てなくて。遅くなって、ごめんなさい」
トクトクといまだ落ち着きない鼓動を刻む心臓をなだめるように、両手で悠貴のしなやかな胸元をそっと押し返した。何度も何度も深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
「同期の女の子たちと……あそこの。ベルンシュタインの……花火大会に、行ってたの」
「いつもの、三人で?」
「う、うん……」
悠貴の真剣味を帯びた視線に射抜かれ、聡子は少しばかりたじろぎながらこくこくと首を縦に振った。
聡子の返答を受け取った彼の黒目がちの瞳には数多の感情が見え隠れしているような気がした。強い安堵の奥底に、ちらちらと――熱情のようななにかを。やり場のない焦燥、気が狂《ふ》れそうなほどの妬心に近いなにか感じてしまうのは、自分の気のせいだろうか。
「本当に……心配したんだぞ。朝まで帰ってこなかったらって思うと……」
「……」
聡子の肩に手を置いた悠貴はそこまでを口にして、珍しく言い淀んだ。普段からハキハキとした物言いをする彼からは想像もできない姿だ。
しばらくののち、悠貴は唇を震わせながらなにかを迷うように聡子から視線を外していく。……淡い期待に、心が締め付けられるようだった。先ほど目にした熱いなにかに、沈めた感情を掘り起こしてしまいそうになる。
けれど彼は次の瞬間には口元に強い決意の色を浮かべ唇を引き結んだ。悠貴のその表情があまりにも真剣なそれで、わずかばかり息が詰まってしまう。
その感情は家族に対しての信愛か、それとも――?
「もし犯罪に巻き込まれていたら……華子さんやお義父さんに顔向けできないって」
答えのない問いを自分の心に投げかけたところで、虚しさだけが残るとわかっている。
「……」
呼吸の仕方すら忘れてしまったようだった。息を吸う、そんな簡単なこともままならない。それなのに――胸の奥が、軋むように痛い。
わかっていた。悠貴《叔父》が聡子《姪》に向ける感情のことを。彼が自分を『家族』として見ていることを。彼の言動を自分の都合のいいように解釈していること、それ自体が間違っているのだ、と。
「うん。…………ごめん、なさい」
揺れ動く彼の瞳を真っ直ぐに見つめ、聡子は小さく頭を下げた。
「本当に……ごめんなさい。お仕事お疲れさま。叔父さんもおかえりなさい」
こんなにも近くにいるのに、これ以上彼に触れることは赦《ゆる》されない。法という倫理の壁は厚く、氷のような冷たさを宿していた。
「……うん。ただいま。次からはちゃんと何時に帰るってきちんと連絡すること。いいな?」
「うん。わかった」
「わかってくれたならいい。……さて、浴衣で汗かいたろう。お風呂、追い炊きしてくる」
悠貴は眉を下げつつ、わずかばかり無理をしたように笑っていた。彼の手が、指先が、聡子の肩からゆっくりと離れていく。
胸の奥がつかえるような、すっきりしないこの気持ちはなんなのだろう。まるで嵐の海に一人きりで投げ出されたかのような寂寥感《せきりょうかん》が聡子の全身を包んでいた。それでも聡子は、自らの本心を悟られまいと心を休めることなく悠貴が望む『聡子』を演じることにした。
「うん! ありがとう。めちゃくちゃ歩いたから脚ぱんぱん〜」
どうしようもない燻った想いを抱えた聡子の心情とは対照的に、カラン、と――下駄が落ちる軽やかな音が響いた。
(――つづきは本編で!)