作品情報

乙女ゲームの悪役令嬢にまた転生したので、推しの虚弱ラスボスを今度こそ全力で救います!

「もう一度やり直せたら、なんだってするのに――!」

あらすじ

「もう一度やり直せたら、なんだってするのに――!」

 乙女ゲーム『プリンセスと虹の騎士』の世界に転生した元社畜OLのフローライトは、推しのラスボス、悪の魔法使いシグルを助けようとした罪で処刑される。だがギロチンの刃が落ちた次の瞬間、なぜかベッドで目を覚ます。
 時間が巻き戻った理由はわからないが、今度こそシグルを救わなくては――ゲームに存在しないエンディングを求め、フローライトのやり直し計画が始まった。

作品情報

作:小達出みかん
絵:まりきち
デザイン:RIRI Design Works

配信ストア様一覧

本文お試し読み

【一、悪役令嬢、巻き戻る】

「フローライト・ライザー、王家への反逆罪で、お前を死刑とする!」
 暗い牢の中、他に聞いている人など誰もいないのに、王子ブライアンは声を張り上げてフローライトにそう死刑宣告した。元は婚約者であった彼を、フローライトは鉄格子の中から暗い目で見上げた。
「……あの方は、どうなりますの」
「ふん。自分の心配をしたらどうだ。そんなにあいつが気になるか」
 ブライアンは唇の端を吊り上げて、冷たく笑った。
「あいつは君より先に死刑だ。首謀者だからな」
「……そうですの」
 うつむいて視線をそらしたフローライトに、ブライアンは屈んで目線を合わせた。
「どうして、あんなやつに協力したんだ。もしかして俺が、君と婚約破棄をしたからか?」
 その言葉に、フローライトは力なく笑った。
「違いますわ」
「ではなぜだ! 貴族である君が、反王家組織と手を組むメリットなど一つもないだろう!」
 声を荒げる彼に、フローライトは黙って首を振った。彼に説明をしても理解などしてもらえないし、理解してほしいとも思っていなかったからだ。
「失礼して、休ませてもらいますわ」
 フローライトは牢の奥の粗末なベッドに腰かけた。そんなフローライトを見て、ブライアンも見限ったのか背を向けた。
「君の処刑は明日だ」
 ブーツの音を響かせながら、彼は地下牢から去った。フローライトの胸に、重苦しい後悔が沸き起こる。
(ああ……私の処刑が明日なら、きっとシグルは……)
 ぎゅっと拳を握ったその時、刑吏たちが牢へ下りてくるのが見えた。フローライトの身体に、戦慄が走る。
 彼らがフローライトの牢の前を通り過ぎてほどなくして、ガチャンと奥の牢の開かれる音がした。フローライトは祈るような気持ちで、耳を澄ませた。刑吏たちの硬い足音にまじって、一つだけ、ひそやかな靴音がする。
 それだけで、フローライトは彼だとわかった。
(シグル……!)
 心臓を足元に落としてしまったような冷たい感覚が、ひゅうっとフローライトの身体に走った。手と肩が、小刻みに震える。
 フローライトは鉄格子に駆け寄って、彼を見上げた。
「っ……!」
 名前を呼びたいのに、喉がつかえたようになって言葉が出ない。シグルは一瞬、フローライトを見下ろした。影にまぎれる、暗褐色の髪。いつも鋭かったその闇色の目は、フローライトの絶望の表情を見て、一瞬の戸惑いを見せた。
「シグル……!」
 やっとかすれた声が、フローライトの口から出た。刑吏が立ち止まる。しかしシグルはフローライトから顔を背けた。
「お前……何で俺なんか、助けようとしたんだ」
 刑吏が歩き始めた。シグルは彼らのされるがままに、引きたてられていった。
 彼の姿が見えなくなって、フローライトはがくんと石牢の床に膝をついた。
(なんでって……なんでって!)
 ブライアンも、そしてシグル本人でさえも、同じ事を聞いてくるなんて。
 フローライトは鉄格子に額をおしつけながら、唇を噛んだ。
(あなたは私の、『推し』だからよ……!)
 フローライトは目を閉じた。しかし、もう涙も出てこない。明日は自分も処刑されるのだ。
(ああ……どうせ処刑なら、せめて同じ日に逝きたかったわ)
 するとその時、地面についたフローライトの手に、ちょんと触れるものがあった。
「えっ」
 驚いてそちらを見ると、牢の床に落ちた黒い影から、するりと猫が現れた。
「ジャスパー!?」
 フローライトは目を丸くした。この黒い毛並みの彼は、シグルが唯一大事にしていた使い魔・影猫のジャスパーだったからだ。
 フローライトは夢中で彼を腕に抱き上げた。
「よかった……あなたは無事だったのね」
 野生の魔法動物である影猫の特性は、影や闇にまぎれて移動できることだった。この世界では不吉だと忌み嫌われる存在であったが、影から出てきた姿は黒猫そのもので、フローライトからすればとても愛らしく見えた。
「うるるるん」
 ジャスパーは腕の中からフローライトを見上げて、わずかに鳴いた。その懐かしい声に、フローライトは自然と肩の力が抜けた。温かい毛並み、湿った肉球、気まぐれに動くしっぽ。
(元の世界の猫と、同じ……)
 フローライトは、元々この世界の人間ではない。ビルの立ち並ぶ都会で、漢字の名前を名乗り、寝る間も削って忙しく働いていた。そして忙しすぎて倒れてしまい、目覚めたらこの世界に来ていた。
 周回するほどはまっていたゲーム、「プリンセスと虹の王子様」の世界の、高飛車な悪役令嬢、フローライト・ライザーとして。
(だけど……このゲームの私の推しは、騎士様でも王子様でもなく、ラスボスの、シグル)
 シグルは最後、ヒロインに倒されるという役目ゆえに、どのルートでも処刑が確定していた。フローライトはそのエンドを覆したくて、この世界に来てからあらゆる手を尽くしたのだ。しかし、頑張りは徒労に終わってしまった。
 せっかく過労で倒れた現世から、煌びやかな世界にやってきたというのに――ここでも散々働きまわって、失敗して、死んでしまうようだ。
(だけど最後……あなたが来てくれて、よかった)
 膝の上のジャスパーの背を撫でながら、フローライトはそう思う事にした。現世では様々な事を我慢していたが、猫を飼うこともその一つだった。
(あなたと仲良くなれた。それだけでも、ここに来てよかったわ)
 ジャスパーは賢い影猫だった。主人のシグルは冷たかったが、ジャスパーはフローライトの本心を悟っていたのか、最初から懐いてくれていた。その事に、ずいぶん助けられたものだった。
 もう少し、こうして彼との最後の時間を過ごしたい……。フローライトはそう思ったが、意を決して彼を膝から下ろした。
「ここから逃げて、ジャスパー。みつかったら、あなたも殺されてしまうわ」
 するとジャスパーは、青い真ん丸の目でフローライトを見上げて、小さく鳴いた。
「うなぁん」
「だめ。行くのよ。あなただけでも、生き延びて欲しいの」
 フローライトとジャスパーは、しばし見つめあった。フローライトの決意が固いのを見て、ジャスパーは下を向いてうるる、と喉を鳴らした。彼の身体が、じわじわと闇に溶けていく。
「そう、それでいいの。闇にまぎれて、外へ出て……」
 彼の身体が、完全に影と一体化し、やがて気配もなくなった。出て行ったのだ。ほっとしたフローライトは立ち上がった。
 すると、からん、と何かが転がる音がした。床に一つ、青紫色のガラス玉が落ちていた。
「これ……ジャスパーの首輪についていたものね」
 フローライトはビー玉のようなそれを拾い、ぎゅっと手のひらに握りこんだ。
 おそらくシグルが用意して、ジャスパーの首輪につけさせていたものだ。普通のペットがつけている、名札のようなものだろう。主人思いのジャスパーにとって、きっと大事なものだったはずだ。
(優しいジャスパー。これを……私に残していってくれたのね)
 フローライトはそれを眺めた。ただの色つきのガラス玉かと思っていたが、中は青、紫、翠……いろんな色が交わって、まるで海の色のように美しかった。
 フローライトは、それを大事にドレスの裏側にしまった。

 次の日は、曇天だった。灰色の分厚い雲が、重たげに空に立ち込めている。高い塀に囲まれた処刑場の物見席は、王侯貴族をはじめとした観客でいっぱいだった。恵まれた貴族の身でありながら、反王家組織の魔術師に力を貸したフローライトに、立見席に群れる民衆たちが残酷なやじを飛ばす。
『この雌犬!』
『貴族の皮をかぶった売国奴め!』
『首切りだ! 首切りだ!』
 処刑台に上りながら、フローライトはただ考えていた。
(シグルも昨日、ここでこうして、罵られながら死んだ――)
 彼を、救いたかったのに。幸せにしてやりたかったのに。そう思うと、再び消せない後悔が、胸の中に広がる。
(ああ、せっかく私、この世界に来たのに。彼を救える場所に、いたのに!)
 刑吏がフローライトの手を取る。断頭台の刃の下に、フローライトは素直に身を伏せた。輝く長い金髪を、ばさりと切られる。
(もう一度、やり直せたら、なんだってするのに――――!)
 手の中のガラス玉を、フローライトはこれ以上ないくらいの力でぎゅっと握りこんだ。
 こんな事になるのなら、せめてシグルに気持ちを伝えておけばよかった。
 あなたが好きだから、助けようとしたのだ、と。
 次の瞬間、刃が落ちた。

「おはようございます、お嬢様」
 かたん、とベッドサイドのテーブルに水差しを置く音で、フローライトは目をさました。いつものベッド。頭上に張られた天蓋の色は、明け方の空のような淡い桃色だ。
(待って――! 私、処刑されたはずじゃ)
 がばりとはね起きたフローライトに、メイドが怪訝そうな顔をする。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「だ、だって私……」
「今日は王宮の舞踏会がありますから、御支度の際はお声がけくださいね」
 そう言って、メイドは出て行った。
(舞踏会、って……私が婚約破棄されるイベントの……)
 フローライトはとりあえず落ち着くために水を一杯飲み、窓から外を眺めた。
「どういう事なの……」
 処刑された季節は冬だったのに、窓の外の木々は新緑がまぶしい。窓を開けると、春めいた優しい風が入ってきて、フローライトの長い髪を揺らした。
 はっとしたフローライトは髪に手をやった。乱暴に切られたはずの髪は、艶めいたまま背中に垂れている。フローライト自慢の、波打つ金色の髪だ。
「時間が……巻き戻った……?」
 口には出してみたものの、にわかには信じがたい。この世界に魔法はあるが、時間をさかのぼるなんて大それた魔法は、見たことも聞いた事もない。
(そんなすごい事を、私がやった……わけがないわ)
 なぜなら、貴族ならば誰でも持っているはずの魔力を、悪役令嬢のフローライトはそもそも持っていなかった。
(だから……理由はわからない。けど)
 フローライトはきっと顔を上げた。
(それなら今度こそ、処刑エンドを回避してみせるわ!)
 
『プリンセスと虹の王子様』を始めたきっかけは、ささいな事だった。ニュースサイトを眺めていたら、広告が出たのだ。綺麗な絵に、甘い言葉を囁くイケメン……。普段は食指は動かないが、とても疲れていたその時、何か気軽な楽しみが欲しくてダウンロードしたのだった。
『お砂糖のように、甘い恋』というキャッチフレーズそのまま、ヒーローたちは甘い言葉を囁き、平民出身でみなしごのヒロインを貴いお姫様のように溺愛する。騎士も王子様も宰相も、みんな三者三様の溺愛っぷりで、プレイしているとこちらが赤面してしまうほどに、皆ラブラブで幸せな世界であった。
 たまには、こんな幸せなストーリーを楽しむのもいい。そう思っていたが、どのルートでも倒され、悲痛な叫びを上げながら死んでいくシグルに、いつしか心を奪われてしまっていた。
『俺はお前が嫌いだ』
『俺と同じ天涯孤独のくせに、なにもかも持っているお前が憎い』
『この国もお前も、滅ぼしてやる』
 そう言って、シグルはヒロインを本気で打ち滅ぼしにかかってくる。圧倒的な悪である彼を前に、ヒロインとヒーローは強く手を取って協力し、彼を倒す事によって絆を深める。
 愛情たっぷりの幸せしかない綿菓子のようなこの世界で、シグルの存在は鮮烈で、衝撃的だった。その時、彼から目が離せなくなってしまったのだ。
 シグルのあくどい行為の裏には、『自分はこの世界に拒絶されている』という悲しい思いがあった。この世界を滅ぼすため、自分が生きていくために、シグルは何もかもを犠牲にして反王家組織・サーペントのために働く。幼いころ親に捨てられた彼には、サーペントだけが心のよりどころだった。
 そんな彼を倒して、国は平和になり、二人は幸せになりました。めでたし、めでたし。
(って、なんだか納得いかない……!)
 様々なものを犠牲にして、身を粉にして働いているのはまさに自分だった。完璧なヒーローに愛される清らかなヒロインではなく、過酷な運命に抗おうとする彼と、社畜をこなす自分とが重なった。
 何もかも持っている王子様より、何も持っていないシグルにこそ、ヒロインの万能魔力と愛情を捧げたかった。ゲーム中くらい、そんな恵まれない人間の方こそ、幸せになってほしいと思ったのだ。
 だから頑張って周回プレイをし、隠しルートもやりこんだが、シグルはあくまで『ラスボス』。攻略対象ではなかった。
 様々なルートで彼が死ぬのを何度も見てしまい、それでも助けてあげたくて必死に彼の登場シーンばかりリプレイする。
 そして頭の中で、想像は膨らんだ。もし彼を助けるなら、こうしよう、自分がヒロインだったら、こうするのに――と。
 しかし。
(実際全部試したけど、だめだったのよ……)
 舞踏会の準備に取り掛かりながら、フローライトはため息をついた。せっかくもう一度チャンスがもらえたのだ。今度こそ、シグルを死なせない。
(前回、シグルは結局最後まで、私の事を信じてくれなかった……)
 なにせ、転生したのは万能魔力≪チート≫持ちの天使のような性格のヒロイン、エミリエンヌではなく、高笑いの似合うゴージャスな悪役令嬢、フローライトだったのだから。
 もともと貴族を嫌っており、王家打倒を目的とするシグルからしたら、もう悪の象徴みたいなものだろう。
 フローライトの方でも、正体がバレるのを恐れて、この世界で本心をあまり出すことができなかった。その結果、貴族でありながら反王家組織に協力した裏切者と断罪されても、ちゃんと反論ができず処刑されてしまったのだ。
(私は断じて、サーペントに肩入れしているわけじゃないのにっ)
 むしろ、シグルに悪事を働かせるサーペントの事を憎んでいる。潰したいとすら思っている。
 しかし、シグルはそのサーペントの人間なのだ。
(うぅ……どうすれば、彼は組織から抜けてくれるのかしら……)
 悩みつつも、メイドたちの手でフローライトは美しく飾り立てられていく。最高級の絹のドレスはたっぷりとしたドレープがあり、大小のリボンでいたるところを留められている贅沢なものだ。ゆるく波打つ髪は一部を結い上げ、その金の房には真珠の飾りがちりばめられている。お揃いの真珠のイヤリングに、ネックレス。最後に頬紅と口紅を差し、フローライトは鏡を見つめた。豪奢な美女が、きょとんとした不安げな顔でこちらを見ていた。
(ダメよ、怯えた顔をしていちゃ)
 今日はフローライトが、ブライアン王子から婚約破棄される日なのだ。気合を入れていかないと。メイドたちを下げ、出発の時間までに、フローライトは自分がどう動くべきかの計画を立てた。
(とにかく……今回はぐずぐずしないで、出来るだけ早くシグルと接触しなければ。それで……)
 今回こそ、シグルに心を開いてもらうのだ。攻略対象ではない彼を、頑張って攻略するのだ。そのために必要な行動は、物は、人は――。
 頭を悩ませながら、フローライトはその方法を考えた。シグルに自分を信じさせ、処刑を回避するための作戦を、頭の中で作り上げていく。
 鍵のかかる日記帳に時系列を示し、フローライトは一つ一つやるべきことを記していった。ずらりと並んだ『やることリスト』を眺め、フローライトはため息をついた。
(これを全部こなすのは、大変ね……でも)
 もう、次はないかもしれない。フローライトはパシンと頬を叩いて、立ち上がった。
(なら、やるしかないじゃない!)
 まずはやることリストの一番目、ブライアン王子との婚約破棄から、だ。

 開幕のダンスの時間が終わり、歓談の時間となった。ホールに運ばれた軽食や飲み物を手に、招待客たちは挨拶を交わし、笑いさざめいていた。フローライトも顔見知りの令嬢たちと談笑しつつ、すっと部屋の端に目を走らせた。ちょうど廊下から、ブライアン王子とヒロイン・エミリエンヌが手をつないで入ってきた。二人とも、そこはかとなく緊張した顔をしている。
(きたわね)
 フローライトはシャンパングラスをテーブルに置き、彼らの方へと歩いていった。
「フ、フローライト……」
 こちらの方から姿を現したので、王子は驚いたように少し後ずさった。
「何か私にお話があるのではありませんか?」
 フローライトは敵意のない笑みを浮かべ、二人を見た。しかし王子は顔をしかめ、エミリエンヌの方は怯えたようにぎゅっとブライアンの腕を握った。
「白々しい演技はやめろ! お前が俺の大事なエミリエンヌを虐めていた事、知らないとでも思ったか!」
「あら……何の事かしら」
「彼女に嫉妬して、仲間外れにしたり、ことあるごとに嫌味を言ったりしたのだろう!」
 たしかに、元々のシナリオではそういう事になっている。そしてこのイベントでフローライトは怒り狂い、惨めに婚約破棄される。
 しかし今日はむしろ、婚約破棄『されに』来たのだ。フローライトは素直にエミリエンヌに対して謝罪した。
「エミリエンヌさん、今までの事はごめんなさい。今後は決して、貴女に対して害のある行動はしないとお約束いたしますわ」
「え……」
 驚くエミリエンヌとブライアン。
「お前、何を企んでる? いまさらしおらしくしようが、俺の心はもう決まって――」
 フローライトは先手を打って、金色の飾り箱をブライアンに差し出した。
「ええ、むろんですわ。こちらの王家の指輪は、お返しいたします。どうぞエミリエンヌさんがおつけになって」
「は、はぁ!? 意味がわかって、言っているのか?」
 動揺を見せたブライアンに、フローライトはにっこり笑った。
「ええ、もちろん。本日をもって、私とブライアン様の婚約は、白紙に戻す事にいたしましょう」
「な……お前、一体どう心変わりしたというのだ」
 なぜか王子は、茫然とつぶやいた。しかしフローライトは、心からの笑顔を浮かべたままであった。
 こんな場所で喧嘩など、ない方が良いに決まっている。二人に今後は敵視されないよう、円満に婚約破棄をする。それがフローライトのするべき行動なのだ。
「お父さまには、私から話を通しておきます。短い間でしたが、お世話になりましたわ、殿下。エミリエンヌさんとお二人で、幸せになってくださいね」
 フローライトは笑顔のまま一礼して、二人の前を退出した。
(よし、もうここに居る必要もないわ)
 フローライトは王宮を退出し、館に居る父の元へと向かった。婚約破棄の件を伝え、今後は貴族の令嬢らしく、しばらく慈善活動に精を出したい、と相談すると、父は少し驚いたものの、了承してくれた。
「まったく、ブライアン殿下も困ったものだ。私情で婚約破棄されるとは」
 苦々しい口調でそう呟く父は、善人には見えないが、悪人でもない。どこにでもいる、貴族のおじさんといった体だ。けれど反対されては困るので、フローライトの計画の詳細を話すべきではないだろう。
「ええ。ですがエミリエンヌ様はかなりの魔力をお持ちでいらっしゃるようですし、私よりも王妃となるのにふさわしいのかもしれませんわ」
 魔力のないフローライトは、家柄というスペックしかない。それは父も十分わかっている事だった。
「うむ……ま、まぁ、しばらく好きな事をしているがよい。殿下もまた、気が変わるかもしれないから」
「はい、お父様」
 父の部屋から退出したあと、フローライトはごく小さな鞄に荷物をまとめ、馬車を街中へと向かわせた。
(シグルを、探さなくちゃ)
 自然に出会うのを待っていれば、手遅れになる。今回は早い段階で会わなくては。豪奢なドレスから動きやすいワンピースドレスに着替え、ケープを羽織ったフローライトは、盛り場の裏路地に建つ古ぼけたアパルトマンへ向かった。ここの地下の部屋が、シグルのねぐらなのだ。しかし今は留守のようだ。
(今夜、帰ってくるかしら……)
 そう思いながら、フローライトは馬車を帰し、一人で玄関先に座って待った。
 深夜もまわってだいぶたったころ、ふらりと路地裏に人影が入ってきた。黒いマントが闇にまぎれて、まるで夜そのものを人の形にしたような姿。見間違えようがない、彼だ。
「お前……なんだ」
 フローライトに気が付いた彼は、すぐさま戦闘の体勢を取った。フローライトは自分は敵意はないと両手を見せ、彼に話しかけた。
「魔術師のディズ・マイヤーさんですね。あなたに会いたくて、来ました。攻撃する気はありません」
 ディズというのは、彼が魔術師として表向き名乗っている偽名だ。彼に必要以上に警戒されるのを避けるため、フローライトは、彼が組織のメンバーだと知らない体で近づく事にしたのだ。
 シグルはちらりとフローライトを見た。警戒しているまなざしだった。
 その鋭い黒い目と、フローライトの大きな水色の目が合った時――フローライトは思わず、時間が巻き戻る前の事を思い出した。
『何で、俺の事なんて助けようとしたんだ』
 彼の声が甦る。助けたかったのに、助けられなかった彼が、今目の前で生きている。
 そう思うと、計画も冷静さもすべてどこかに押し流されて、フローライトの口から感情があふれ出そうになる。
(よかった……また会えて)
 しかしフローライトはそれをぐっとこらえた。
「お話があります。大事な事なんです。中に入れてちょうだい」
 真剣に言うフローライトを、シグルは当然拒否した。
「入れるわけないだろ。そこをどけ」
「あなたの命にかかわる事よ。聞いた方がいいわ」
「まずあんた、何者なんだ。顔を見せろ。名を名乗れ」
 そう言われて、フローライトは頭にかぶっていたケープを下ろした。彼が軽く息を飲むのがわかった。
「初めまして。私はフローライト・ライザーと申しますわ」
「……王室の婚約者が、俺に何の用だ」
「ブライアン王子とは、先ほど婚約破棄しましたの。私はもう婚約者でもなんでもございません。今日来たのは、あなたにお聞かせしたい事があって……」
「俺を捕らえに来たのか」
 何も知らない設定のフローライトは、大げさに驚いてみせた。
「まぁなぜですか。あなたは悪い事などなさっていないでしょう」
 シグルが、じっとフローライトの目を覗き込む。嘘か本当か、見極めているようだった。フローライトはここぞとばかりに全力できょとんとした表情をしてみせた。
「……まあいい。ここじゃひと目につくから、入って用件を聞く」
 ため息をついて、彼はドアを開けた。フローライトは後に続いて、階段を下りた。
 元は地下の倉庫か何かだったのか、その空間はひんやりと涼しかった。シグルがランプを灯す。すると、ぼんやりと彼の部屋が見えるようになった。
(散らかってはいないけど――殺伐とした空間ね)
 石の床の上にも、古いすすけたテーブルの上も、魔術の道具が所せましと置いてある。書物に、ガラス瓶に、魔術に使う大粒の宝石たち。道具は頻繁に使うのか、しっかりと手入れされているようだ。しかし賑やかなのは机の上だけで、あとは部屋の隅には、マットレスだけの古びたベッドがあるのみだった。寝に帰ってくるだけの部屋。そんな感じだ。
 フローライトはとりあえず木椅子に座り、テーブルにもたれるシグルに説明を始めた。
「『星占の術』の事は、ご存じ?」
 シグルは少し考えるように眉根を寄せ首を傾けた。左耳にしている青い宝石のピアスが、蝋燭の光をうけてちらりと光る。
「たしか、貴族の家に伝わる星占いの方法だろう。でも、すでに廃れて学ぶ者も居ないって聞いたけど」
 さすがシグル。魔術関係の事ならば、知らない事はない。フローライトは先を続けた。
「ええ。ですが私は、星占を深く学んで身に着けておりますの」
 シグルはうさんくさげな顔になった。
「ほとんど正確性はないんだろう。お嬢様の道楽、ってやつか」
「いいえ。予言に関しては、かなり精度が高いものですわ。もちろん、正しく手順を踏んで行えば、ですが。たとえば、私はブライアン王子と婚約をしましたが、王后になる事はないと、星占でわかっておりました。なので自分から婚約破棄を申し出ました」
 するとシグルは、少し興味をそそられたのか、フローライトに聞いた。
「へぇ。それじゃ、誰が王后になるって言うんだ」
「エミリエンヌという女性ですわ。彼女は平民でありながら莫大な魔力を持ち、この国を国母として導いていくことでしょう」
「エミリ……? 聞いた事のない名前だな。それに平民なのに莫大な魔力だって?」
 この世界では、魔力は基本的に貴族だけが生まれつき持つものとされていた。しかしエミリエンヌのような規格外≪チート≫や、シグルのような例外もわずかに存在はする。
「ええ。なので彼女は、王后となるのです」
「……お前、とんでもない事を言っているな」
 王子が平民と結婚する事は、本来ありえない事だ。しかしエミリエンヌは何と言ってもヒロイン。王子は彼女と一緒になるために、無理やり法を捻じ曲げるのだ。
「ええ。わかっております。ですがこれは本当に起こる事。彼女のために、この国の法律は一部変わる事になるでしょう。そう、おそらく来月に」
 シグルの表情から好奇心が消え、真剣なものになった。フローライトの言葉を、信じあぐねているようだ。
「それなら、この先この国で革命が起こることはありうるか」
 シグルなら、この事が一番気になるだろう。フローライトは用意していた答えを言った。
「起こり得ますわ。しかし、起こらない未来もまたあります。確率は半々といった所でしょうか」
「どういう事だ」
「すべての運命は、確定しているわけではないのです。その前の様々な事象によって、変わってきます。たとえば毎年の麦の収穫が、天候によって左右されるように」
「それじゃあどの時点で、未来は確定するんだ?」
 フローライトはそれらしく厳かに目を伏せた――。
 星占で未来がわかるなんて、すべて嘘っぱちだ。
 だが、死に戻ったフローライトは、この先何がいつ起きるかを、全て知っている。魔力を持たないフローライトにとって、これは大きなアドバンテージだ。しかしそれを人にそのまま言って、信じてもらえるはずもない。
(だから、『星占』を隠れ蓑にして、私はこの力を利用するわ)
 まずは、この嘘をシグルに信じさせるのだ。
 それができなければ、何も成し遂げられない――。
 フローライトはそう気合を入れ、間を取ってから、彼を見上げた。
「それを、星が教えてくれるのです」
「星読みの魔術でそれがわかるのか。どんな手順なんだ」
 フローライトは淑やかに首を振った。
「いいえ。私は貴族でありながら、魔力はございません。その代わり、星の声を聞く事ができるのです」
 すべて真っ赤な嘘である。そんな設定はない。けれどフローライトは本当の事であるかのように、粛々と言い切った。
 するとシグルは、否定も肯定もせずフローライトに聞いた。
「で、その星占と、あんたがここに来た事と、何の関係があるんだ」
 やっと本題だ。フローライトはシグルの顔を見上げた。
「ディズさん。あなたは近々、偉大な発明をするのです」
「は? 俺が?」
「ええ。この国の未来を変えるような、そんな新しい魔術を作り上げると星は伝えています。ですが……それとは別に、あなたがその前に命を終える未来も示唆されているのです」
 思い当たる事があるのか、シグルは口を挟まず、食い入るようにフローライトの言葉を聞いていた。
「ですからそうならないよう、私はあなたをお助けするために、ここに来ました」
 シグルの表情が固まった。しかし、頭の中はフル回転しているのだろう。しばらくして、シグルはため息をついた。
「……悪いけど、そう簡単には信じられないな。俺がどんな発明をするって言うんだ。それに、魔力もない、女で非力なお前がどう俺を助けるっていうんだ」
 まずい。このままでは信じてもらえない。フローライトは食い下がった。
「毎日ディズさんに、危険が及ばないよう星占の結果をお伝えします。危険な日は、どう行動すればそれが回避できるのかお教えいたしますわ。無事、魔術を発明されるその日まで」
 半信半疑のシグルに、フローライトはトドメの一言を言った。
「それにディズさんは……お仕事で何か探している魔術が、おありなんでしょう。それが発明につながる、と星占には出ているんですわ」
 シグルの目が、はっと見開かれた。
 ――そう、彼が組織の命令で探し求めている、未開発の魔術。それは、『自分の魔力を、他人に移す魔術』。この魔術をきっかけに、一団員でしかなかったシグルはラスボスと化し、革命の首謀者となるのだ。
(だけど今回は、ぜったいにそうさせない)
「お願いします。私がお側に居ることを、お許しくださいませ」
 するとシグルの顔が、不審に歪んでフローライトを見下ろした。
「一番わからないのは、お前がその未来を知っているとして――なんでわざわざ見知らぬ魔術師の俺を守るつもりになったかだ」
 そう言われて、フローライトの心臓は跳ね上がった。
「それは……それは、その、こここの国の未来の発展に必要なことなので……ッ」
 頬にかあっと血が上る。必死に建前を言う声が震える。
『前回』も、自分の気持ちを彼に伝える事はできなかった。
「言え。お前の目的は何だ」
 ずいっと顔を近づけて、シグルはフローライトに詰問した。
 濡れ羽色の睫毛。ダークチョコレート色の宝石のような瞳が、フローライトを見つめている。通った鼻筋に、冷たそうな白い頬、薄い夾竹桃≪きょうちくとう≫色の唇。
 いつもローブの影に隠れて見えづらい彼の顔が、あの時死んだ彼が、こんなに近くにいる――
 フローライトの口から、抑え切れなかった言葉が漏れ出る。
「それは……あ、あなたの事が」
「俺が何だ。俺を罠に嵌めに来たんだろう。それとも、婚約破棄の腹いせに俺の力を利用しに来たのか?」
「ち、ちがうわ」
「じゃあなんだ!」
 脅されて、フローライトはじっと唇を噛んで下を向いた。まずい。感情に流されて、余計な事を言ってしまった。
 目の前のシグルは苛々している。それもそのはず、フローライトが、反政府組織に属す自分を捕まえに来たと思っているからだ。
(それは……それは違うのっ!)
 嘘はついている。けれど、自分の動機はただ一つ。
(そこだけは……嘘じゃない)
 一番大事な事を正直に伝えれば――シグルはフローライトを、信じてくれるだろうか。
 フローライトは逃げるのをやめて、再び顔を上げた。苛立つ彼の目を見つめて、一か八かの勝負だ。
「私、あなたの事が……す、好きなのです」
 すると、彼の顔から感情がすっと抜け落ちた。
「……は? なんだそれ」
 フローライトの頬からすっと熱が引く。やはり、こんな事で彼は信じてはくれないようだ。
 ――言わなければよかった。
「驚かれるのも、無理はありませんね。突然こんな……。ご不快でしたら、今の私の言葉はどうぞ忘れてくださいませ。でも」
 フローライトは必死にシグルに訴えた。
「あなたの近い将来に、死の危険がある事は本当なのです。だからどうか……」
 しかしシグルは、フローライトのその言葉を遮った。
「好きって、どういう事だよ」
 肩を掴まれて、後ろの壁に押し付けられる。彼の手の温度を感じて、フローライトの身体は場違いな震えを覚えた。
「そ、それは……っ」
 彼の顔が、近づく。闇色のその目の表面に、慌てふためくフローライトの顔が映っている。
(ち、近すぎるわ――っ)
 動揺して目をぎゅっと閉じたフローライトの首筋に、熱い痛みが走った。
「いっ――!?」
 シグルが、突然フローライトのうなじに噛みついたのだ。
「な、なな、何を……っ」
 彼は歯型のついたその場所に舌を這わせた。痛みと濡れた感触に、フローライトの身体は痺れて力が抜けた。その身体を、シグルがまさぐり始めた。
「や、やめて……!」
 何をされているのか気が付いたフローライトは彼を押しのけようとしたが、手に力が入らない。耳元で、シグルは脅すように囁いた。
「好きって事は、こういう事しても、いいって事だよな?」
「え……」
 彼の息が、フローライトの耳朶に掛かる。それだけでフローライトの身体から、力が抜けていく。
「どうだ? できないって言うのか?」
 フローライトを試すその声に、言葉が出なくなる。息をする事を忘れるほどに、フローライトの頭の中は混乱していた。
(どうしよう、私、わたし、シグルに――!)
 彼の手が、フローライトの胸元を探る。もう片方の手が、スカートの中に入ってくる。
「王子の元婚約者……か。けっこういい体してるじゃないか」
 素肌に彼の手の感触を感じ、かあっと燃やされたように頬が熱くなる。小刻みに震えはじめたフローライトを見て、シグルは手を引いて、ふんと顔をそらした。
「やっぱり嘘か。ま、そりゃあそうだよな。誰の差し金か知らないけど、素人は危ない事はやめて帰るんだな」
 身体を離したシグルに、フローライトは首を振った。
「ち、ちがいます……!」
 フローライトは勇気を出して、立ち上がって彼の肩に手をかけた。ぎゅっと目をつぶる瞬間、彼の驚いた顔がスローモーションのように見えて、フローライトの脳内に焼き付く。
(私、自分から彼に、こんなこと――)
 二人の唇が重なる。柔らかくて、少し冷たい感触。彼が驚いて息を詰めているのが、唇から伝わってくる。死にそうなほどに、自分の心臓が強く鼓動を打っているのを感じる。
 唇を離すと、シグルはまだ少し驚きの残る顔で、フローライトを見ていた。林檎のように真っ赤になりながら、フローライトは告げた。
「さきほどは、驚いてしまっただけで……嫌なわけじゃありません。私、その、こういったことは初めて、なので」
 するとシグルは、唇の片端だけ上げて、笑った。獲物を前にした肉食獣のような、獰猛な笑みだった。
「そうかよ」
 
 粗末なベッドの上で、フローライトはシグルに服を脱がされていた。
「は……なんだこれ、面倒くさい下着……もういい、下だけ脱がす」
 コルセットは彼の手に負えなかったようで、フローライトは胸だけ露出した破廉恥な恰好にさせられてしまった。
「ふーん……えろい恰好だな」
 固いコルセットに押し上げられ盛り上がった乳房に、シグルの手がむにゅりと埋まる。
「すっげぇ……吸い付くような肌じゃん。さすがお貴族様」
「まっ……て」
 彼にそんな場所を見られている。羞恥で湯気が出そうなほど、顔が熱い。まともに目も開けられない。
(こんな……こんなつもりじゃなかったのに!)
「お前、本当に世間知らずだな。男の部屋にのこのこ一人で来ておいて、好きとか言ってさ……こうなるに決まってるだろ」
 シグルが低く笑った。しかし、フローライトはこの状況を全く想定していなかった。
(だってあなた、ジャスパー以外の生き物に興味なかったじゃない……!)
 前回も、フローライトの身体にも顔にも目もくれなかった。それなのにまさか、こうして彼が襲い掛かってくるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
 しかしシグルは何の遠慮もなしに、フローライトの胸をまさぐっている。自分の胸の柔い肉が、彼の手に合わせて形を変えている。
「うぅ……あっ」
 その瞬間、彼の指がきゅっと胸の頂きを抓んだ。ぴりっとした未知の感覚が、フローライトの身体に走る。思わず身体を硬くしたフローライトの身体に、シグルはぎゅっと下半身を押し付けてきた。
「わかるか? これが男のだ」
 固いものが、横になったフローライトの太ももに当たっている。
(シグルの――)
 ぞくっと肌が粟立ってから、かあっと熱くなる。彼のものが触れている太ももから熱が伝染し、全身に広がっていくようだった。
「今からこれをあんたの中に入れて、犯してやる」
 脅すような、少し楽し気なその声の奥には、欲情の熱があった。
 少し怖い。でも、その恐怖以上に、フローライトは彼に信じて欲しいという気持ちの方が強かった。言葉で信じてというよりも、きっと身体を差し出した方が、説得力があるだろう。。
 フローライトの下着の紐を、シグルは解いた。
「一応聞いておくけど、あんた初めて?」
 フローライトはすなおにうなずいた。
「ふーん。じゃあ、選ばせてやるよ」
 何を? フローライトは怖さと期待に震えながら、シグルを見た。
「優しくしてやってもいい――お前がここに来た本当の目的を言うなら」
「えっ……だから、それは、あなたを助けるため……」
「何で俺を助けたいんだっけ?」
 フローライトは再び真っ赤になった。自分の気持ちを、もう一度言えというのか。
「そっ、それは……お慕い、しているから、です……」
 絞り出すようにそう言ったフローライトの足を、シグルはつかんでぐいと開いた。
「きゃっ」
「じゃあ、優しくしてやるよ」
 抵抗するより早く、彼の指がフローライトの足の間のあわいを開いた。
「ひっ……!」
 足を開いたこんな恥ずかしい状態を、シグルに見られている――。それだけで、フローライトはおかしくなりそうなほど恥ずかしかった。しかしシグルは冷静に、ごちゃごちゃしたテーブルの上から瓶を一本取ってそれを開けた。
「そ、れは……?」
「俺の魔力で作った粘液だ」
 瓶からドロリとしたピンク色の粘液がこぼれて、シグルの手指に滴る。
 ――それだけの光景が、なにかひどく淫靡に見えて、フローライトはつっと目をそらした。
「ひゃあっ!?」
 シグルの指先から、今度はフローライトの足の間に、粘液が滴った。いくらか温かくスライムのようなその粘液は、まるで意思を持つように動いた。フローライトの入り口を、粘液が探る。
「ぁ……っい!?」
 入ってくる――。フローライトはそう身構えたが、粘液は入り口の上部の尖った部位へと絡みついた。
「ひいっ!?」
 触れられて初めて、フローライトはそこが熱く疼いていた事に気が付いた。身体の熱源は、その小さな塊だった。
 粘液はぴったりとその場所を覆い、熱を煽るようにぬるぬると動いた。思わず変な声がでて、フローライトはぱっと口を覆った。
「ひぁ、あ、やめっ……」
 それを見て、シグルは満足気だった。
「はは、気持ちよさそうじゃん……」
「ちょっ、と、待っ……あぁっ」
 擦り上げられて、振動されて。粘液の攻撃に耐えるのに必死のフローライトの隙をついて、シグルはその入り口を割り開いてつぷ、と指を挿入した。
「っ……!?」
「うん、濡れまくってる。そんなに俺のスライム良かった? でも……さすがに中はきついな」
「ひあっ、ま、待って、うぅっ」
 ゆっくりと、しかし止まることなく、シグルは指を進めていった。ずぷずぷと彼の指が、自分の中に埋まっていく。その感覚に、フローライトの背筋は震えた。
「あぁ……うぅっ」
 余裕のない息遣いのフローライトを見下ろして、シグルはにやりと笑った。
「すっげぇ締め付け。入れたら気持ちいいだろうな」
 つぷっと一気に指を抜かれる。
「ひぁっ」
 ビクンと震えるフローライトを尻目に、シグルはローブを脱ぎ捨て腰のベルトを外した。
 彼のものが、ぴたりと押し当てられる。次の瞬間。
「あぁっ」
 間髪入れずに、それが押入ってきた。
「んっ……すっげ……」
 容赦なく、彼は奥まで止まらず一息に進みきった。こつん、と奥にそれが当たる感触がした。
「奥まで、入った……でも、ちゃんと馴らしたから、そんな痛くないだろ」
 確かに、粘液のせいか痛みはそう強くない。が、何も入った事のないその場所に押入られているという圧迫感は強かった。
 マットレスに手を突いて、シグルは腰を動かしはじめた。彼の顔が、わずかにしかめられる。先ほどよりも強い衝撃で、彼のものが奥にぶつかる。
「ぁうっ……!」
 フローライトはその行為に身体を強張らせたが、シグルはかまわずに動き続けていた。フローライトの様子など、もう目に入っていないようだ。欲望のままに、ただ動いている。まさに性欲処理。自分の身体を使って、シグルが快感を得ている。けれどその事実に、フローライトの気持ちはむしろ煽られていた。
「――っ」
 声にならないシグルの声。潤んで琥珀色の光が浮かぶ目。揺れるピアス、上気した頬。
(あ……すごい……えっちだ……)
 いつも冷たく無関心な目を向けて来た彼の、快楽に耐える顔。フローライトは抽挿に耐えながら、思わずシグルのその表情に見とれた。
「何……っ」
 見ている事に気がつかれて、シグルが怪訝な眼差しを向ける。その乱れる息に、フローライトの胸はかき回されたように痛んだ。
「気持ちいい、ですか…………っ」
 思わず、心の声がだだ漏れる。すると至近距離のシグルは、なぜか焦ったように顔をそむけた。その耳が心なしか赤い。
「……ああ、悪くないっ」
 やけくそのようにそう言って、再び奥まで彼のものが入ってくる。内壁にぐりぐりと自らのものを押し付けながら、シグルも耳元で聞いた。
「お前は?」
 その声は存外真剣で、フローライトは無意識に彼の背に手をまわしていた。
「好き……です、こうしてディズと……抱き合っているのは」
「っ……そう、かよ」
 奥で、彼のものが、さっきよりも固く熱くなったような気がする。
 シグルからしたら、ただの性欲処理なのかもしれない。けれどフローライトは、それでもいいと思った。
(だって……そうよ、ここまですれば、きっとシグルも、私を信じてくれるはず……)
 一回死にまでした自分に、もう失うものはないのだ。
 ぎゅうっと背中にしがみつきながら、フローライトは抑えきれない声を上げた。
「あっ……ああぁっ……!」
 するとシグルも堪えるように、ぎゅっとマットレスのシーツを握った。
「くっ……出る………っ!」
 その切羽詰まった声を聞きながら、フローライトは一人、心の中で微笑んでいた。

 シグルの朝は遅い。たいていいつも、眠りにつくのが真夜中を過ぎているからだ。
 そんなわけで、その日の朝も太陽が空に昇りきってから、シグルは目を覚ました。そして部屋の隅を見てはっとした。
「お前……居たのか」
 壁際の炉で火を熾していたフローライトが、ふと振り向いた。
「おはようございます、ディズ」
 自分は裸同然だというのに、彼女はすでに髪もまとめ、服もきちんと着ていた。彼女は少し恥ずかし気に目を細めて、シグルを見た。
 シグルは一瞬、この地下室に日の光が差し込んだかのような錯覚を覚えた。
 ――そのくらい、彼女の姿はなぜだか眩しく見えたのだ。
(は、バカバカしい。火にあの髪が反射して、目が眩んだだけだ)
 そう思いながらベッドから身を起こしたシグルに、彼女はペトリ皿を差し出した。
「ごめんなさい、お皿がこれしかなくて――」
 白い無機質な皿の上に、こんがり焼けたバゲットが載っていた。内側はくりぬかれていて、そこに半熟の目玉焼きと、焦げ目のついたベーコンが詰まっている。
「なんだよ、これ」
 すると彼女はきょとんとして言った。
「朝食ですわ。キッチンがないから、簡単なもので悪いけれど」
「……俺に?」
「そうよ」
 当たり前のようにそう言う彼女に、朝いちばんからシグルは調子を狂わせられた。
(なんだよこれ……さっさとトンズラするつもりだったのに)
 この女が昨日語ったおかしな話を信じこむことなどできない。シグルは用心深かった。なぜなら、そうでないと首が飛ぶ環境で生きてきたからだ。
(俺の正体を知っていて……罠を仕掛けてきてるか、逆に利用する気か……)
 もし前者ならさっさと見切りをつけるべきだが、後者なら、場合によってはこちらの利益になる。
(何しろ、ライザー家だ。利用方法は、いくらでもある……)
 財力に、人脈。そしてもしもの時の人質としても使える。
 それらを一瞬で天秤にかけたあと、シグルはバゲットを頬張った。
(俺を安い罠≪ハニートラップ≫にかける気か。まあいいさ。それならこっちもできるところまで、アンタを利用してやるよ)
 しかしフローライトは、バゲットを食べるシグルを見て、目じりを下げた。
「よかった。口に合いそうかしら?」
 シグルを見つめる水色のその目は、思わず目を奪われてしまいそうになるほど、鮮やかな色だった。美しい泉のようなその目が、シグルに直に向けられ、嬉しくてたまらないというように笑みを湛えている。
(や……めろ。そんな目で、見るな)
 シグルは思わず、フローライトから目をそらして食事に集中した。
 バゲットからは、ほんのりバターの香りがする。半熟の卵が焼かれたパン生地にとろりと絡まって、食欲をさらにそそる。まともな食事を摂るのは、久しぶりだった。
「……まぁまぁ、かな」
 あっという間に平らげると、シグルは立ち上がった。フローライトはいそいそとペトリ皿を受け取り、運んでいった。その背中は嬉し気だった。そんな彼女を見て、シグルは心の中で首を振った。
(いいや……だから何だ。そんな事で、騙されないぞ)
 そう思いながら、シグルは彼女と目を合わさず冷たく言った。
「俺はこれから出るから。あんたも家に帰ったら」
 すると彼女は、慌てて駆け寄ってきた。そしてシグルを見上げ、当然のように言った。
「それなら私も、ご一緒しますわ」
「はぁ?」

 シグルの行き先は、フローライトの狙い通り王立魔術学院だった。レンガの立派な門をくぐりながら、フローライトは内心得意だった。
(ふふふ。前もって入学願いを出しておいて、よかったわ)
 やる事リストを作ってすぐ、出来る事はやってしまった。入学願いも、その一つだ。
(まぁ、制服は間に合わなかったけど……)
 フローライトは隣を歩くシグルをちらっと見た。彼も黒いローブを羽織っているだけで、制服ではない。この学院は、制服は強制ではないのだ。
 するとその時、シグルがフローライトを見下ろして鬱陶し気に言った。
「あんたが隣にいると目立って仕方がない。別行動するぞ」
 その声に、フローライトはにこにこ返した。
「あら、そんな目立つかしら」
「当たり前だろう。立場を考えろよ」
「自分がフローライト・ライザーという事はわかっていますわ」
 こともなげに言い切ったフローライトに、シグルははぁとため息をついた。
「普通に考えて、お前みたいな貴族の令嬢が、俺と歩いていたらまずいだろ」
「でも私、もう婚約はしていませんから、男の人と歩いても問題ないはずですわ」
「だから! その話が本当なら、お前は今話題の人物って事だぞ。王子と婚約破棄した女だ、って」
 フローライトは周りを見渡してみた。たしかに、フローライトをちらちら見ている生徒がチラホラいる。
「どう考えても、あんた注目浴びてるだろうが。巻き添え食うの、俺はごめんだからな」
 冷たく言われ、フローライトはしゅんとうつむいた。
「あ……そこまで考えていませんでしたわ。ディズにご迷惑をかけてしまいましたね。ごめんなさい。では私、学院長先生に入学のご挨拶でもしてきますわ」
 素直に謝って目の前から去ったフローライトに、シグルはまたも調子を崩された。
(こいつ、本当にライザー家の令嬢か? 平民ごときに、こんな簡単に謝るなんて……)
 普通貴族は、もっと居丈高にしているものだ。貴族の多いこの学院に潜入して数か月、いや幼いころから、シグルはそれを身に染みて知っていた。
(いや……あの女はなにもかも、おかしいな)
 シグルに謝るどころか、一緒に居る事を許してくれと懇願し、身体まで差し出したのだから。
(どう考えても、おかしい……)
 何か裏があるはずだ。そう思いつつも、昨日彼女に言われた言葉が、胸のどこかに引っ掛かって、離れない。
(『好き』とか……初めて言われたな)
 もちろん、信じてはいないが。シグルはそう思いながら、首を振って踵を返した。
 今日も任務開始だ。

「と、言う事は、フローライト様は……反王家組織から当学院を守るために、転入されたと……?」
 おそるおそる言う初老の学院長に、フローライトはうなずいた。
「ええ、そうですわ。この学院で行われている『ギフト魔術』の研究が、反王家組織に狙われているのです」
 すると学長は、目を見開いて持っていた杖を取り落とした。床石にそれが当たってからん、とやけにいい音が響く。
「な、なぜあなた様がそれを……!」
『ギフト魔術』――それは、魔力を持つ者が、持たないものに魔力を分けあたえ、一時的に魔術が使えるようにするものだ。つまり、今までほとんど貴族しか使えなかった魔術が、この方法を使えばすべての人間が使える事になる。画期的な研究だ。しかしそれは同時に、この国の勢力図がひっくり返りかねない危険な研究でもある。
(すべての平民が魔術を使うようになったら――数的に言って、この国の勢力図が逆転してもおかしくないものね)
 実際、本来のストーリーでは、シグルがこの研究を盗み我が物とし、多くの平民を巻き込んで王家に対してクーデターを起こす事になる。
(でも……今回は、絶対そんな事はさせないんだから)
 そのために、フローライトは転入したのだ。ここで学院長を説得し、研究所に入れてもらう許可を得なくてはならない。しかし学院長はじっと唇をかみしめていた。フローライトがこの研究の事を王家に報告し、罰を受ける可能性を考えているのだろう。
「陛下のお耳に、この事は……?」
「いいえ、今の所、ライザー家しか知っておりませんわ」
 それで、この学院をどうするつもりなのだ――。フローライトをねめつける学院長に、フローライトはきっぱりと言った。
「最初にはっきり申しますが、私は研究を止めたり、王家に報告するつもりはございません。もちろん、いつかは報告の必要がありますが、それは学院長の判断にお任せしますわ。ただこの研究が反王家組織の手に早々に渡る事を、防ぎたいだけなのです」
「な、なぜこの研究が狙われているとわかるのです!?」
 動揺を見せる学院長に、フローライトは昨夜シグルにした事とほぼ同じ説明を繰り返した。
「なので……私は通常の魔力がない代わりに、この星占の力を授かったのですわ」
「ほう……長くこの席に座っておりますが、そんな例は初めて聞きますのう」
 確かめるような口調で、慎重に学院長が言った。
「非常に、興味深い。少し見せていただいても、よろしいですかな」
「……え?」
「ご存じありませんか? わしはここの学院長。手を触れれば、その者の持つ『魔力』にどのような個性があり、どの分野で伸ばすべきものなのかが、読み取れるのですよ」
「そ……それはすごいですわ」
「さぁ、フローライト様。お手を」
 そう言われて、フローライトの背中はさあっと冷たくなった。
(どうしよう……私の力なんて、全部うそっぱちなのに……!)
 もしバレたら、今回の計画が台無しだ。断頭台の光景が、フローライトの中によみがえる。
(い、嫌よ――!)
 フローライトはとっさに手をよけようとした。何か言い訳をしなくては。が、一瞬遅かった。学院長の皺のよった手が、フローライトの手を取った。
「む―――これは」
 フローライトの中に、さまざまな思い出の景色が走馬灯のように浮かんだ。役人に切り落とされた髪の感触。牢の中で闇にまぎれて消えたジャスパー。シグルの起こしたクーデターで、魔術の炎を放ちながら王宮に押し寄せる民衆……。
「は、はなしてっ」
 フローライトは思わず、学院長を突き飛ばした。しかし学院長は怒る事もなく、純粋な驚きの瞳でフローライトを見ていた。
「驚きましたな……まるで見て来たかのような、未来の景色……これは、予知魔術に近い」
「……え?」
「ご存じですかな? 非常にまれな魔術です。たとえ魔力を持っていたとしても、このように詳細な未来を見ることのできる人間は千人に一人もいない」
 学院長は、フローライトに向かって頭を下げた。
「フローライト様のおっしゃることを疑って、申し訳ない事をいたしました。あなたは本物の『星占』の力を持つお方のようだ」
 ……どうやら、なんとかなったようだ。学院長の勘違いに首の皮がつながったフローライトは、ほっとしてうなずいた。
「ええ、よくってよ」
「あなたは、この魔術が悪用される未来をご覧になった。そういう事ですね」
 手を取ったたった数秒で、そこまで読み取るとは。フローライトは学院長の力に内心驚いた。
(……長年学院長の座にいるのは、ダテじゃないってことね)
 フローライトは重い表情でうなずいた。
「その通りですわ。それで、転入してきましたの。未来を知る私なら、研究を適切に守る対策が取れると思ったのですわ」
 すると学院長は、最初とは打って変わってきりっとした表情を浮かべ、うなずいた。
「それでは、本日より研究室をよろしくお願いします、フローライト様」

 学院長の部屋を出たあと、フローライトは購買部に向かった。石造りの建物に足を踏み入れ、フローライトはその広さに驚いた。
(まぁ、いろいろあるのね)
 木製の陳列棚には、羊皮紙や羽ペン、インクなど文具品が並んでいた。秤や黒鍋、ペトリ皿など実験用品もあり、重たそうな魔導書や専門書なども並ぶ。フローライトはくすっと笑った。
(このお皿、シグルのお家にあったのと同じだわ。ここで買ったのかしら)
 一番奥のカウンターの後ろには、魔術に使う宝石や薬品など様々な材料が瓶詰されてずらりと並んでいた。カウンターの中にいる白衣の店員に計ってもらい、会計をするシステムのようだ。
「何かご入用ですか」
 ふと店員と目があって声を掛けられので、フローライトはカウンターまで行って用件を告げた。
「ごきげんよう。制服が欲しいのだけれど」
「かしこまりました」
 これからシグルの家で暮らすのだ。かさばるドレスは邪魔になる。それにギフト研究の魔術師たちに少しでもいい印象を持ってもらうためにも、皆と一緒のものを着たほうがいい。フローライトはそのまま購買部の試着室で制服に着替えた。そして鏡を見て、にっこり微笑んだ。
 赤に近い茶色の、ワンピースタイプの制服の上に、ジャケットを羽織るデザインの制服だ。スカートの裾には金色の三本線が入っていて、胸元には真紅のリボン。豪華なドレスではなく制服を着ると、フローライトの悪役令嬢っぽさも若干薄れる気がする。
(うん、可愛いデザイン。エミリエンヌが着ているの、ちょっと羨ましかったのよね)
 フローライトは魔力がなかったので、この学院に今まで通った事はなかった。しかし今回は、この学院でしなければならない事がたくさんある。
(シグルがあの魔術を、絶対に見つけないようにしなくちゃ……)
 本来のストーリーでは、シグルがあの魔術を完成させて、革命を起こす事になっている。だから彼の目に触れないように研究を守って、外に出さないようにしなくてはならない。
 ToDoリストの内容を頭の中でさらいながら、フローライトは購買部から出た。ちょうど昼休みに近い時間だからか、来た時にはなかったワゴンがいくつか入り口の近くに立っていた。
(あら、美味しそう)
 サンドイッチやベーグルなどが並んでいる。街のパン屋さんが、軽食を売りにきているようだ。
(そういえば、これって――)
 名物ベーグル、とかなんとかだった気がする。いつだったかエミリエンヌが食べていた記憶がある。
(これ、使えるかも)
 そう思ったフローライトは、新しい制服の内側からお財布を取り出した。
「ここのベーグル、全部いただいてもよろしいかしら?」
「か、かしこまりました……!」
 売り子さんは驚いていたが、フローライトはワゴンの上に出ていたベーグルをすべて買い占めた。他の学生に影響が出るかと思い、サンドイッチは遠慮しておいた。
「お買い上げ、ありがとうございました……!」
「いえ、こちらこそ」
 恐縮する売り子に軽く目礼して、大きな袋を持ってフローライトはワゴンを後にした。が、入れ違いにやってきた少年が、がっかりした声を出したのが聞こえてきた。
「ええっ、ベーグル、売り切れですか……!?」
 それを聞いたフローライトは、お店の前に戻った。
「もし、あなた」
「は、はい!?」
 振り向いた少年は、フローライトよりも背が低かった。分厚い眼鏡をかけていて、頬にはそばかすが浮いている。その手には、いくばくかのコインが握られていた。フローライトを見て、少し怯えているようだった。
「ベーグルは、先ほど私が全て買ってしまいましたの。ごめんなさいね。よかったら好きなものを差し上げますわ」
 すると少年は、ちらちら当たりを見回してから、ぴしりと固まるような仕草をした。
「……?」
 何事かと思ったフローライトは、少年の視線の先をたどった。すると、広場のベンチに腰かけている大柄の少年が見えた。にやにやしながら、こちらを見ている。
(何かしら?)
 するとその時、彼が立ち上がってこちらへとやってきた。少年は、かたかた震えだした。
(もしかして、仲が悪い――いいえ、いじめられてるのかしら? 焼きそばパン、買ってこい的な?)
 そう察知したフローライトは、じっと大柄の少年を観察した。制服ではなく、自前の服を着ている。そこそこに仕立ての良い上着に、飴色のなめし革の靴。中流貴族のボンボンといったところか。
「おい、俺のベーグルはどうしたんだ」
「ごめんなさい。今日は、手に入らなくて……」
 すると大柄少年は目を吊り上げた。
「俺の家来のくせに、命令を聞けないのか?」
「す、すみません、すみませんっ」
 目の前で交わされるやりとりに、フローライトは割って入った。
「ベーグルは私が買いしめましたわ。なので、こちらをどうぞ」
 フローライトは袋から一つベーグルを出し、ずいっと差し出した。すると大柄少年はぜい肉に埋もれた目でフローライトを見上げた。
「あんた誰? 見ない顔だな」
 フローライトは大げさに顔を反らした。
「あいにくですが、私いそいでおりまして。それに……」
 今更ながら、フローライトは苛々としてきた。貴族であることを嵩にきた、このような居丈高なふるまいを、こんな少年があたり前のようにしている事が。
(もう、おじさんならともかく! こんなやつらばっかりだから、シグルは貴族嫌いになっちゃったのよ!)
 本来の貴族は、自分の権威を嵩にかけて威張ったりなどしない。むしろノブレス・オブリージュの精神で他者を助け施しを行ってこそ、一人前の貴族なのだ。
 しかし、魔力を持たない平民を見下し、馬鹿にする貴族は多い。相手を同じ人間だと思っていないので、馬鹿にしているという意識すらなかったりする。
 フローライトは、苛立ちを微笑みのオブラートでくるみ、もう一つベーグルを差し出した。
「ふくよかでいらっしゃいますし、もう一つお渡ししておきますわね。お礼は結構ですわ。持たざる者に施すことが、私の義務ですから」
 さすがにこの皮肉がわかったのか、大柄な少年は顔を赤くさせた。
「な――なんだと!? 俺を誰だと思っていやがる、この野郎!」
 フローライトは涼しい顔で答えた。
「でも、ご自分で買うお金を、お持ちでないのでしょう? だからこの方に……」
「そんなわけあるかっ。こいつは俺の家来だ!」
「あら、あなたは家来にお昼ご飯を奢ってもらうのかしら?」
 そう言うと、彼はぐぬぬと言葉に詰まった。そして怒鳴り散らした。
「お前、どこの誰だっ。名を名乗れ!」
 フローライトははぁとため息をついた。
「私の顔を知らないという事は……あなたは王宮に伺候する立場ではありませんのね」
 やはり、中流階級の貴族という事だろう。それ自体は悪い事でも何でもない。鼻につくのは、自分より目下の者に対するひどい態度だ。
(少しお薬が必要かしら。でもこんな人相手に、名前を明かしたくもないし――)
 そう思案していると、馬鹿にされていると思ったのか大柄少年が掴みかかってきた。
「俺をコケにしやがって……っ!?」
 しかし大柄少年を、眼鏡の少年が必死で止めた。彼に向かって、こそこそとつぶやく。
「や、やめましょう! この方アレですよ、たしか、第一王子の婚約者様……!」
「は!? な、なんでそんな奴が一人でこんなとこにっ!?」
(こっちまで聞こえてるし、もう婚約者じゃないけどね……)
 名乗る手間が省けてしまった。フローライトは苦笑いしてしまいそうになったが、抑えた。
 絡んだ相手が悪かった事に気が付いた大柄少年は、さっと顔を青くして逃げるように去ってしまった。が、手にはしっかりベーグルを二つもっていた。
(ちゃっかりしてること。ま、ちゃんと食べてくれるなら、それでいいわ)
 食べ物を粗末にすることは許せない。フローライトは前回の牢獄生活で未来の情報だけではなく『もったいない精神』も得ていたのだった。
 ベーグルの袋をかかえなおしたフローライトに、さっと眼鏡の少年が頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます……!」
 フローライトは首を振った。
「何もしていないわ。ベーグルをあげただけよ。あなたもほら、一つどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
 頭を上げない少年に、フローライトはふと思い出して聞いた。
「あなた、ドミノ塔の場所をご存じかしら? そこに向かわないといけないのだけれど、場所がいまひとつわからなくて」
 すると少年はぱっと顔を上げた。
「それなら、ご案内します!」
 本棟のある広場を離れて、フローライトは少年のあとについて歩き始めた。道すがら、少年はあれこれと案内してくれた。臆病ではあるが、明るい性格ではあるらしい。
「あちらの建物が、植物舎です。ガラス張りで、さまざまな植物が育てられています。一号棟は開放されているので、お散歩にもってこいですよ」
「あら、それならいずれ行ってみることにするわ」
「お昼も気持ちいい場所ですが、夜も綺麗でおススメですよ。光照栽培をしていて、植物たちがライトアップされたようになっているんです」
「それは素敵ね」
「はい! でも虫には気を付けて下さいね。夜はけっこう大きな奴も出るから――あ、そちらの建物が図書館です。その奥の建物は実験施設で、さらに少し歩いた先にドミノ塔があります」
 彼の楽しいおしゃべりを、フローライトはただふんふんと聞いていた。
(なるほど……この子のおかげで、この学院の敷地内の事がだいたいつかめたわ)
「でも――ドミノ塔は、辺鄙な所にあるし、倉庫のような場所です。何かご用事があるんですか?」
「ええ、そうね。大した用じゃないのだけれど」
 そう言うと、少年は少し安心したような声になった。
「そうなんですね。用があるならよかったです」
「あまりそこには、人がいないのかしら?」
 少年は明るく首を振った。
「いいえ! たしかにドミノ塔に出入りする人は少ないですが、逆にずっと入りびたる変人たちも居ます。――僕の兄も、その一人なんですが」
 その言葉に、フローライトはくいついた。
「あら、お兄さんがいらっしゃるの?」
(入りびたってる――って事は、この人のお兄さんは、研究室のメンバー!?)
 重大な魔術なので、辺鄙な場所で研究させていると、学院長は言っていたのだ。
(たまたま行きあった子が、研究所メンバーに縁のある子だったなんて……ついてるわね)
 フローライトの思惑を知るはずもなく、彼は無邪気に答えた。
「はい、僕の兄です。一応魔術の成績はいいのですが、どうにも偏屈で……」
「性格がかしら?」
 少年はうなずいたあと、少しためらうように言った。
「ええ。でも……悪い人間ではありません。僕がお金のかかるこの学校に入れたのも、兄さんのおかげですから」
「いいお兄さんなのね」
 相手の情報を聞き出したいフローライトは、聞き役に徹した。
「僕の家は、爵位はかろうじてありますが、貧乏で。ラミー……ええと、さっきの人の家に、借金しているくらいなんです。それでも特待奨学生の兄が推薦してくれたので、なんとか僕も入れたんです」
 それで、先ほどの大柄少年はあんなにも横柄な態度を取っていたのか。フローライトは納得した。
「特待奨学生……お兄さんは、優秀なのね」
「はい、いろんな意味で、変人――えっと、人とは違う兄さんですが、そこだけは長所で」
 少年はピタリと足を止めた。ちょうど目的地に着いたのだ。木々が生い茂る中、一本のドミノを立てたような、平たい建物が立っていた。
「よかったら、僕が中まで案内しますね。変わった建物なので」
「お願いするわ」
 閂を外して、細長いドアを開けると、キィと音がした。ガランとしただだっぴろい部屋に、ガラクタや本が無作為に積まれている。そこここにある大きな窓から光が差し、セピア色の空間に埃が舞っているのが見える。ただ真ん中に何かの大仰な機材があり、そこから鉄の柱が数本上に向かってずっと伸びている。妙な光景だ。
「おーい、兄さん! 僕だよ。昇降機を下ろして!」
 すると、大きな機械が動くような音が鳴り始め、目の前の機材の歯車が重重しく回り始めた。上を見ると、鉄の柱を伝って何か大きなものが下りてきていた。
「驚きました? これに乗らないと、上まで行けないんです」
「なるほど、エレベーターね」
 小さな部屋ほどもあるその昇降機の中に乗り込み、フローライトはうなずいた。
「エレ……なんですか?」
「いいえ、なんでもないの。それにしても、面白い建物ね」
「昔、魔術豆の栽培を行った時に作られた施設だそうですよ。梯子が掛けられないほど茎が空に向かって伸びて伸びて、なのでこの昇降機を作ったとか」
「それで、建物と昇降機だけが残ったのね」
「そうみたいです」
 おしゃべりをしているうちに、昇降機は最上階についた。もともとは青天井だったであろうその天井にはガラスが張られ、さんさんと日の降る明るい研究室となっていた。
「兄さん、お客さんを連れてきましたよ」
 その居心地のよさそうな研究室には、たった二人しか人がいなかった。燃えるような赤毛の長髪の男性と、目を保護するマスクをかぶった緑の髪の人の二人。どちらも、常人にはない雰囲気を漂わせている。フローライトは、その二人には見覚えがあった。直に会うのは初めてだが――
(この二人、攻略対象だったはず)
 赤毛の方がフローライトを見て、にっと笑った。好奇心旺盛な目だ。
「ふぅ~ん、アンタが噂の、婚約破棄令嬢?」
 その失礼な発言に、少年は顔を青くした。
「ちょっ……ちょっと兄さん!」
 フローライトは彼に向かって微笑んだ。
「大丈夫よ。ここまで案内してくれて、ありがとう。そういえばお名前は?」
「あっ、僕、ミケと言います。こっちは兄のカール」
「よろしくね、ミケ。そしてカール」
 フローライトはカールに向き直った。しかしその瞬間、彼の目つきは剣呑なものになった。
「気安く呼ばないでほしいな。まだ俺、アンタの事信用してないし」
 フローライトは穏やかな態度を崩さないまま、うなずいた。
「それも当たり前だと思いますわ。ですが……」
 しかしフローライトの話をさえぎって、カールはずいと距離を詰めてきた。ハシバミ色の、好奇心旺盛な目が少し意地悪気に細められる。弟と同じで、頬にはそばかすが浮いていた。
「おっ、よく見たら、俺好みの美人じゃん。俺と付き合ってくれるなら、信用してもいいけど?」
「な、なにをおっしゃるんです。私は大事なお話をしに来たんですよ」
 フローライトはわずかに眉間に皺をよせて、小さく息をついた。
 赤毛の魔術師『カール』は変人できつい性格。だけど女性に目がなくて、とにかくあいさつ代わりに口説く。そんなキャラクターだった覚えがある。
(でも! 私は遊びにきたわけじゃないのよ)
「とにかく! 話を聞いてくださいませ」
 きっぱりそう言うと、カールは諦めたかのように椅子に座った。
「えー? つまんないのぉ。君と研究の話なんてしたくないよ。もっと面白い話のほうが……」
「それは後ほど」
 フローライトは机の上にどさりとベーグルの袋を置いて、自分も腰かけた。
「本題から入りますね。この研究を――」
「反王家組織・サーペントが狙ってるって? 学院長からさっき聞いたよ」
 カールは机の隅にある鏡を顎でしゃくった。顔を映せば対話のできる魔術具だ。
(なるほど、学院長室と直通なのね) 
「俺は別に、この研究を悪人に売りさばいたりしないぜ。もしそう思われているなら、正直かなり腹が立つね」
 フローライトを軽く睨みながら、カールはそう言った。先ほどは口説いてきたくせに、こんな所はドライだ。
「ええ、それはわかっております。ですがあなたにその気はなくとも、彼らは研究を奪い取る事ができます」
 シグルはカールたちを殺して、まだ途中だった研究を持ち去るのだ。それで、自分で完成せざるをえなくなる。
「はっ、俺がサーペントのしょぼい刺客にやられるって?」
 しかし、カールはちっともフローライトの言う事を信じる気がないようだ。
「そんな起こってもいない杞憂で、俺の研究が制限されるなんてまっぴらごめんだね。いくら美人の頼みでも」
 どう説得すれば、彼は受け入れてくれるだろう。彼が一番大事にしているものは、何だろう。一時考えたあと、フローライトは口を開いた。
「もちろん。あなたは好きに研究してくださって構わない。ただ私は、この研究室のセキュリティ対策を強めたいだけなのです」
「セキュ……なに?」
「ええっと……平たく言えば、泥棒対策ですわ。金庫に宝石をしまうとか、ドアに大きなカギを付けるとか」
 怪訝な顔をする彼の目を、フローライトは射るように見た。
「考えてみてください。この研究室に、サーペントの者が忍び込みます。今の状態ではたやすいですわ。だって私も簡単に入ってこれたんですもの。そしてあなたは昇降機から突き落とされて死ぬ。犯人はこの研究室のすべてを奪って去るわ。そしてまだ途中のギフト魔法の研究を改悪して完成させるの。民を扇動して、貴族を襲わせるために――」
 すべて見てきて、そしてそれを止められなかったフローライトの目には、切実な光が浮かんでいた。
「あなたは、自分が心血を注いでいる研究が、そんな者たちの手に渡って悪用される事が、許せるのですか。本来は人に分け与える善なる魔術が、大量殺人に使われる事が――」
 フローライトは真剣に訴えたが、カールは興味がなさそうにふいと目をそらした。
「ん~、正直、俺の作った研究がどう使われようと、そこはどうでもいいんだよね。魔術に善も悪もない。ハサミと同じだよ。使う人次第で紙も切れるし人も殺せる。そこは、開発者の俺にどうこうできるもんじゃない」
 フローライトは言葉に詰まった。たしかに彼の言う事は、一理ある。
「で、ですがそれでは……」
 カールは再び、フローライトに目線を戻した。冷たく探る目だった。
「……気になるんだよね。学院長は『星占』の力がどうとか言ってたけど――あんたは何で、そんな絵空事の杞憂のために、こんな場所にわざわざ足を運んでいるんだ? 何か他の目的があるはずだ」
 そこでカールは、フローライトを射るように見た。心の底まで見透かしてやる。そんな目線だった。
「……あんたこそ、この研究を狙っているんじゃないか。貴族に不利な事態になる前に、叩き潰そうと」
 カールのハシバミ色の目が、鋭く細められる。フローライトは間髪入れずに否定した。
「ち、違います! 私はただ、この国でクーデターが起こるのを防ぎたいだけで……」
「それだけか? いいや、他に何か動機があるはずだろう。あんたの話す内容は、全部建前の匂いがした。薄っぺらい」
「っ……」
 今度こそ、フローライトは笑みを浮かべる余裕すらなくした。
(動機、って……それは、もちろん……)
 シグルを助けたいからだ。けれど、そんな個人的な事を、初対面のカールに話すのは気が進まない。信じてもらえるかもわからない。
(けど……)
 フローライトは唇を噛んだ。何でもすると、決めたではないか。こうやって人に本心を伝える事から逃げ続けていたから、前回も失敗したのではないか。
 フローライトは、意を決して口を開いた。その顔に建前の笑みはない。
「カールさん。もし、あなたの研究が奪われてしまったら……その事によって、私は近い将来、大事な人を亡くしてしまうのです」
 カールは眉根を寄せた。
「……大事な人? 誰? それ」
 まさか、研究を盗む張本人だとは言えない。フローライトはぐっと動揺をおさめて言った。
「名前は言えませんわ。でも、私はそのためにこうして動いているのです。その人を失う未来を回避するために」
 するとカールは、流し目でちらりとフローライトを見た。
「ふうん……それって男?」
「え? ま、まあそれは……男の方ですが」
 それを聞いて、カールはわざとらしくため息をついた。と同時に、纏っていた鋭い雰囲気が緩んだ。
「なーんだ。すでに男がいたのか。婚約破棄も納得だな」
 フローライトは若干頬を紅くしながら続けた。
「そ、そんな事はどうでもよい事です。私が言いたいのは……」
「いいよ、わかった」
「決してあなたの研究の邪魔は――って、え?」
 あっけにとられたフローライトに、カールは適当にうなずいて見せた。
「わかったって。あんたにそのセキュなんとかを任せるよ」
「よろしいんですの? そんなあっさり……」
 もっと抵抗される事を予想していたフローライトは、拍子抜けした。
「ああ。確かに俺は、研究が完成したあとならどうなろうといいと思っている。けど俺が作り始めたモンを、どっかの別人が勝手に完成させるっていうのは我慢できないね。あの研究を完成させるのは、この俺でないとな」
「な……なるほど」
 カールは改めてにっと笑って、手を差し出した。
「よろしくお願いします、フローライトお嬢様?」
 フローライトは迷いなく、その手を握った。しかし次の瞬間、手を引かれて彼の腕の中にいた。耳元で、間延びした声がする。
「ん~~、抱き心地もいいじゃん」
 フローライトはきっぱり彼を押しやった。
「おやめなさいッ」
 フローライトの眉間に寄った皺を見て、カールななぜか嬉しそうだった。
「お~、いいねいいね。俺、そんな事初めて言われた。怒った顔もかわいいじゃん」
 先ほどミケの言っていた『変人』という言葉の意味が分かったような気がした。
「もっと怒らせたくなるねぇ」
 加えてあまのじゃくでもあるようだ。フローライトはため息をつきたくなるのをこらえて、ベーグルの袋を差し出した。
「これ、一応差し入れですわ。みなさんでお召し上……きゃっ」
 その時目にもとまらぬ速さで、フローライトの手から袋がもぎ取られた。
「ベーグル! ベーグル! いつも食べれないやつだ! やったぁ」
 ずっと座って話を聞いているのかいないのかわからなかったもう一人の魔術師が、小躍りせんばかりに喜んでいた。ちなみに、まだゴーグルをつけたままだ。
「こら、マッドオーブ。全部食うなよ俺にもよこせ」
「やなこった! 全部俺んだい!」
 そう言って、サンルームのように明るい研究室で、二人の追いかけっこが始まった。魔術も混みで、次々と爆発や水鉄砲が飛び交う。
「きゃッ……な、なんなのこの人たち」
 身をかがめながらつぶやくフローライトを、ミケが端から手招きした。
「行きましょう、フローライト様」
 ため息をつきつつ、フローライトはミケの案内で再び昇降機に乗り込んだのだった。
(まったく、とんでもない人たちだったわ……!)

 ミケと別れたあと、フローライトは学院を出て街へと向かった。今日中にやらなければならない事は、まだまだある。いくつかのお店に寄って所用を済ませると、もう空は茜色になっていた。
(すっかり時間がたっちゃったわ……)
 帰り道のその足で、フローライトは街の広場へと足を踏み入れた。噴水を中心に市の開かれているその場所は、さまざまな露店が出ていて賑やかだった。見た事もない色や形の魚や肉、スパイスやベリーが山盛りに積まれたお皿、それに布や花などがたくさん吊るされている露店……。興味深くそれらを眺めながら、フローライトは小麦粉と茶葉を一袋、それに保存の利く塩漬けのハムやクルミ、最後に新鮮な野菜を一束買って帰った。
 シグルは、まともな食事を摂っていない。お節介だと嫌がられるだろうが、食事の世話を焼いてやらないと。そう思いつつ、フローライトはシグルのアパルトマンへと帰った。
「やっぱり鍵、あいてないわね」
 予想通り、中には入れなかった。フローライトは玄関の階段に腰かけ、月が空に上るまでシグルを待ち続けた。
(早く帰ってこないかしら)
 フローライトがこうして待っている事を知ったら、シグルは不快に思うだろうか。ドキドキ半分、不安半分の気持ちで星の輝く夜空を眺めていると、ふと隣で何かがみじろぐ気配がした。
「うるるん」
 懐かしいその声に、フローライトは思わず口をぽかんと開けて、隣にちょこんと座る彼を見つめた。
「ジャ……ジャスパー……!」
 艶々とした漆黒の毛並み。琥珀色の丸い瞳。フローライトはうれしくて、懐かしくて、涙が出そうになった。
「あえてよかったわ……!」
 こらえきれずに口元を覆ったフローライトを、ジャスパーはただただ見上げている。
(そうよね。今のジャスパーからしたら、私は初対面……こんな態度、困惑されてしまうわ)
 そう思ったフローライトはこほんと咳払いをし、居住いを正した。
「初めまして。私はフローライトよ。あなたとは仲良しになりたいわ。よろしくね」
 するとジャスパーは、ちらりとフローライトの持つ買い物袋に目をやった。
「あ……これ?」
「なん」
 それはまるで、『うん』と言っているようだった。フローライトは微笑みながら、先ほど買ったお肉を少しジャスパーのために取り分けた。
「どうぞ。友好の証よ」
 ジャスパーは目を輝かせて、ぺろりとお肉を平らげた。そして、またじいっとフローライトを見上げた。
「もっと、欲しいのかしら?」
「なーん」
「お腹が空いてるのね。いいわ。あげる」
 再び一瞬で、お肉はジャスパーのお腹へと収まった。
「うるるるるん」
「も、もう、しょうがないわね」
 苦笑しつつ、フローライトは求められるがままにお肉をあげた。そして、ついに最後の一切れも。
「いいわ! もう、可愛いからあげちゃう!」
 賢いジャスパーに、また会えたのだ。そう思えば、このくらい喜んでしてあげたくなる。
(次は人間用と、ジャスパー用のお肉を買っておかないとね)
 全部たいらげて満足したのか、ジャスパーはフローライトの膝に飛び乗って丸くなった。顎をなでてやると、ぐるるるる、と喉を鳴らす声がした。
(ああ、可愛い。この重みに、癒されるわ。まったく、世間はなんで、影猫たちの可愛さに気が付かないのかしら)
 ジャスパーの寝顔を眺めていたその時、路地へとシグルが帰ってきた。目の前に立つ彼に、フローライトは少し困った顔で言った。
「ごめんなさい、今どきますわ。ジャスパー、お家に入るから降りてくださらない?」
 フローライトがそう声をかけると、ジャスパーはぱちりと目を開けて嬉しそうに主人のもとへと駆け寄った。
「うるるるん!」
「お前……居ないと思ったらこんなとこに」
 足元に頭をこすりつけるジャスパーを見て、シグルは恨めし気に言った。そしてフローライトを見てため息をついた。
「それであんたは、なんでここにいるわけ」
「あら、それはディズをそばでお助けするためですわ。昨日お伝えしたでしょう?」
 シグルは最大にめんどくさいという顔をした。
「あんたまさか……ずっとここに居すわる気?」
「ディズの邪魔にならないように、気を付けますわ。何かあったら何でもいってちょうだい。だから、一緒に居てもいいでしょう?」
 フローライトは必死に彼をかき口説いた。
「冗談じゃないね。帰ってくれ。話ならもう、昨日聞いただろ」
 フローライトの頭に、ふっと前回の記憶が浮かんだ。そう、このシグルの台詞は、前も聞いたのだ。推し故に強く出られなかったフローライトは彼のその言葉を受け入れて、これ以上踏み込む事ができなかった。
 怖かったのだ。彼に疑われるのが。嫌われるのが。
(その結果が――利用されて、二人とも処刑エンド)
 だから今回は多少強引でも、無理やり押し切ってみせる。フローライトはキッと顔を上げて、首を振った。もう対策は取ってある。鞄の中から、フローライトは小さな鍵を取り出した。
「おい、なんでそれ」
 自分のものを取られたと思ったのか、彼はフローライトの鍵を取り戻そうとした。しかしフローライトはさっと手を上げて、それを防いだ。
「これは私の鍵よ。実は今日、周旋屋に行って、この上の階を借りてきたの」
 魔術師ディズ・マイヤー氏が借りているのは地下室だけ。なので空き家になっていた上の階を借りる事ができたのだ。相当古い物件らしく、いろんな周旋屋をあちこちたらいまわしにされたが……。
「この建物、屋上もあるのよね。星を見るのにぴったりだし、あなたと近くで暮らせるし――だから、上の階全部借り切っちゃったわ」
「は、はぁ!?」
「だからここは今日から、私の家でもありますの」
 澄ましてそう答えるフローライトにシグルはカっとなった。
「ふざけんなよっ! そんな強引に……ここは俺のねぐらだっ」
 フローライトはうなずいた。
「ええ、そうですわ。だから勝手に入らないで、お帰りをお待ちしていましたの」
 あくまで一歩も引かないフローライトに、シグルはとうとうため息をついた。
「……わかったよ。勝手にしやがれ」
 ドアを開けて、彼は一人地下へと下りていった。ジャスパーはフローライトをちらちら振り返りながら、一緒に下りていった。
(よし、とりあえずこれで……同居生活を送れるわ)
 誰よりも側で、彼を見守るのだ。その動向をチェックし、その都度手を打っていくのだ。
(だから……とにかく、もっと親しくならないと)
 フローライトはそう考えながら、地下ではなく二階へ向かった。昔風のアパルトマンで、最低限の家具調度が置いてあった。おそらく前の持ち主のものだろう。ランプを灯し、埃避けの麻布を取り払う。
(なんだか……小金持ちの後家さんのお部屋、って感じ)
 絨毯もソファも、シックなラベンダー色で統一されていた。奥のベッドも同様だった。窓を開けて空気を入れ替えたあと、フローライトは制服を脱いで、ベッドにどさりと横になった。
(ああ……さすがに今日は、ちょっと疲れたかも)
 学院に行って、学院長とカールを説得して、この部屋を借りて。結構な仕事量だった。
(シグル……怒っているかしら。あとで、話しにいかなくちゃ……)
 そう思いつつ、フローライトはふっと目を閉じた。少しだけ、休憩しよう。
 ――いくらか経ったのか。フローライトはお腹の上の重みで、目を覚ました。
「うなん」
「あら、ジャスパー」
 ジャスパーが我が物顔で、フローライトの上でくつろいでいた。疲れていたはずなのに、フローライトは思わず笑って、彼の頭を撫でた。
「ふふ、もふもふしてる……」
 彼はごろんと横たわり、撫でてくれと言わんばかりに腹を見せた。温かいお腹を撫でながら、フローライトの疲れた気持ちが癒されていく、そんな気がした。
(影猫の毛皮ってすごいわ。なにかこう、アロマ? 人の心を落ち着かせる物質が出ているに違いないわ……)
 するとその時突然、バタンとドアが開いた。
「おい、ジャスパーっ。呼んだらこいっ」
「きゃっ」
 フローライトは慌てて身体を起こした。ジャスパーは仕方なしというようにフローライトから下りた。
「何やってんだあんた、その恰好……っ」
 シグルは顔をしかめながらも、目をそらさずフローライトの下着姿をしっかり見ていた。
「ち、ちがいますわ。横になっていたら、ジャスパーがのってきて……」
 フローライトは慌ててラベンダー色のシーツを巻きつけて身体を隠しながら、言い訳をした。
「というか、なんでジャスパーの名前、知ってるんだ」
「それは……」 
 シグルとフローライトは一瞬、見つめあった。フローライトは自分がみっともない恰好である事も忘れて、にっこり笑った。
「ジャスパーが教えてくれましたの。私たち、お話できるんですわ」
 シグルははぁとため息をついた。
「なんだそれ。ジャスパー、行くぞ」
 ベッドの上で丸くなっているジャスパーを、シグルは無理やり引きはがした。
「うるるるん!」
「おい、言う事聞けって……」
 しかし、ジャスパーは動かない。
「……ここがふかふかだから、居心地がいいのかもしれませんわ。無理やり連れていかなくても」
「はぁ。くそ。いつのまにこんな」
 ジャスパーとフローライトを交互に見て、シグルはうんざりした声を出した。フローライトはジャスパーを撫でながら言った。
「とてもお利口さんですね。彼は。私の事をもう覚えてくれたみたい」
 シグルが不満そうにじいっとフローライトを見たので、話題を変えてみる事にする。
「そう言えばシグルは、今日学院のどちらに居たんですの?」
「あんたこそ」
「……学院長先生にご挨拶してから、星占について調べておりましたわ」
「ふうん。じゃ、明日の俺の運勢は? 死ぬわけ?」
 その投げやりな聞き方に、思わずフローライトは吹き出しそうになった。
「そんな事ありませんわ。私のみたところ、明日は平穏に済みそうです。ラッキーパーソンは金髪の令嬢ですわ」
「あっそ」
 彼は肩をすくめてちらりとフローライトを見た。そして、眉をひそめた。
「お前もしかしてそれ、誘ってんの?」
「えっ……ち、違います、この恰好はいきなりディズが入ってきたからですわっ」
「ふうーん」
「あ、あちらを向いていてくださいっ。服を着ますから……っ」
 するとシグルは目を眇めて笑った。
「もう昨日見たのに、恥ずかしいわけ?」
 その意地悪な笑みに、なぜかぞくっと身体が震える。
 怖くて震えているんじゃない。むしろ――その逆だ。
 しかし真っ赤になってしまったフローライトに、シグルはくすっと笑って背を向けた。
「別に出てくからいいよ」
 そう言って、シグルは一人で出て行った。フローライトは真っ赤になりながら、あわてて服を着た。
(そういえば、私たちは昨日、あんなことをしてしまったわけで……)
 思い出すと、さらに頬が熱くなる。しかし今夜は、シグルにその気はないようだった。
 安心したような、ほんの少し残念なような――不思議な気持ちで、フローライトはその日眠りについたのだった。

【二、お前の事なんて信じない】

 うっすらと朝焼けの美しい時間に、フローライトは目覚めた。二階のこの部屋の奥には、地下よりも良い設備の小さなキチネットがついていた。昨夜の材料の残りで小さなガレットを焼き、丁寧にハーブティを淹れた。ガレットの焼き上がる香ばしい匂いと、エルダーフラワーの甘く爽やかな香りがキチネットから立ちのぼる。
(ふふ、朝にガレットを焼く悪役令嬢なんて)
 その似合わない響きに、フローライトはひとり笑いを漏らした。けれどフローライトはキッチンに立つ事が好きだった。美味しい食べ物も、美味しい飲み物も好きだったからだ。
(もちろん、家のシェフに作ってもらうのも好きだけれど……こうして素人ながら、自分で一から全部作るのも、なかなか楽しいわ)
 そして、作り上げたそれを食べさせる人が今はいるのだ。
(喜んで食べてくれてるかは、わからないけど)
 フローライトはそう思いながら、朝食をもって地下に向かった。コンコンとノックすると、しばらく間があいて、寝起きのシグルが顔を出した。
「何の用?」
「朝食ですわ」
 寝起きでまだ頭が回っていないのか、シグルは素直にフローライトを入れた。ごちゃごちゃした机の上にどうにか隙間を見つけ、お皿を並べる。しゅたっとジャスパーがそのすぐそばに下り立ったので、フローライトは満面の笑みで彼にもお皿を差し出した。
「ほら、これがジャスパーの分よ。どうぞ」
 ジャスパーはふんふんと匂いを嗅いだあと、ガレットに食いついた。それを見たシグルはぽつんとつぶやいた。
「わざわざ影猫用に作ったわけ?」
「あら、いけなかったかしら」
「そうじゃないけど」
 どさりと椅子に座って、シグルは素直にガレットを食べ始めた。
「中身、野菜ばっかだな」
「ごめんなさいね。お肉、昨日ジャスパーに全部あげちゃって」
「別に文句言ったわけじゃない」
「?」
 お茶のカップ越しに、フローライトはシグルを見た。するとシグルは、目をそらしてぐいっとお茶を飲んだ。
「ディズ、明日は何が食べたいかしら?」
 にこやかにそう聞いたフローライトに、シグルは呆れたように言った。
「あんたもたいがい、物好きだな」
「あら、なぜかしら」
「貴族のお嬢様のくせに、毎朝手料理を男にふるまうなんて」
 その言い方が少し引っ掛かったフローライトは、訂正した。
「男じゃなくて、あなたに、ね。ディズ以外に朝食を出した事なんてないわ」
 ガレットを切り分けながら、フローライトは穏やかな顔で言った。
「ディズも忙しいから、学院では一緒に居れない時もあるでしょうけど……こうして朝食くらいは一緒に食べたいと思ったの。もちろんジャスパーもね」
 ジャスパーがしっぽをピンと立てた。しかしシグルは不機嫌そうに言った。
「はぁ。お嬢様の仰せのままに、ってか」
 食べ終わったシグルは立ち上がった。だがため息をつきながらも、シグルはフローライトの登校の準備ができるのを、待ってくれていた。
「ごめんなさいね。待たせてしまって」
 今日は制服に合わせて、キッチリと髪を結い上げたのだ。その姿をちらりと見て、シグルは言った。
「あんたに逆らったら、また何されるかわからないからな」
「あら……そんな事ないですわ」
「よく言うよ。家も使い魔も乗っ取っといて」
 他愛ない言い合いをしながら、二人は歩いて学院へと向かったのであった。

『いいか、教室では、俺たちは他人だからな!』
 同居を譲歩したのだからこちらは譲らない、とばかりにシグルに念を押されたので、フローライトは仕方なく、校門をくぐった後は他人のふりをした。少し後ろを歩く彼をちらりと振り返ると、そのたびにシグルは慌てて目をそらす。
(ふふっ、シグルったら)
 浮き立つ胸を抑えながら、フローライトは真面目な表情を浮かべ、講義へと出席した。
(入学した以上、必修の講義は、受けないわけにはいかないのよね)
 生徒の多くは、必修の講義を受けつつ自分の入る研究室を探し、独自の魔術の研究に入っていくのだが、フローライトはすでにカールの研究室に入った事になっている。けれど、それだけでは心もとない。なぜならカールの研究室は、それ自体が秘密にされているからだ。
(一応、他の研究室を探している……って事にしましょ)
 それこそ、すでに必修を終えているシグルと同じ所に行くのがいいかもしれない。昼間はただの研究員同士で、夜は実は恋人――。そんな妄想に緩む頬を、あわてて引き締める。
(だ、ダメよ。ここは教室。誰が見ているのかわからないんだから。それにぜんぜん恋人って感じじゃないし。なれるかもわからないし!)
 一回身体の関係を持ったものの――それだけだ。相変わらずシグルは素っ気ない。フローライトの事をどう思っているか、聞くのはちょっと怖い。
(多分、鬱陶しいって思われてるんでしょうね)
 けれど、一緒に住む事を結果的に許してくれたし、フローライトの作った朝食も食べてくれたし、少しは……仲良くなれているはずだ。
(うん。諦めないで、ぐいぐいガンガンいってみなくちゃ)
 前回は踏み込めなかった部分に、踏み込めている。そんな手ごたえがたしかにあるのだ。フローライトが距離を詰めた時のシグルの反応を見ると。
(素っ気ないし、意地悪な時もあるけれど――でも、なんだろう)
 フローライトが振り向くたび。彼に『好きだ』と伝えるたび。斜に構えた彼の表情が、少し崩れる気がするのだ。
 もっと彼の、そんな表情を見たい。素の表情。嬉しい表情。心を開いた人にしか見せない顔を――。
 ぽわんとそんな事を考えている間に、講義は終わってしまった。
(あ、結局何の内容だったのか、聞けなかったわ)
 少ししゅんとしたフローライトは、教室から出ようと筆記具をまとめはじめた。
「あの……フローライト様」
 その時、フローライトの席の横に誰かがやってきた。ふと見上げると、そこにはエミリエンヌとブライアン王子が立っていた。フローライトはさっとシグルの事から頭を切り替え、二人に会釈した。
「あら、ごきげんよう」
 一体、何の用だろう。
(そういえば、彼女もこの学校に通っているんだったわ。でもブライアン王子は違ったはず。何で……?)
 他の生徒たちが、ちらちらブライアンを見ている。とりあえず挨拶を……と思ったフローライトだったが、ブライアンは固い表情で告げた。
「君に話がある。一緒に来てくれ」
 連れてこられた部屋は、学院長室の隣の応接室だった。バタンとエミリエンヌがドアを閉め、ブライアンはソファに座った。エミリエンヌはあたり前のようにその隣に座り、怯えてビクビクとフローライトを見ている。
「二日ぶりでございますわね、殿下。それにエミリエンヌさんも」
 社交的に話しかけたフローライトに、ブライアンは眉をひそめた。
「殿下、か……」
「あら、何か?」
 もうブライアンの婚約者ではないのだから、名前ではなく殿下と呼ぶのは当たり前の事だ。
「いや。何でもない。それより君に聞きたい。フローライト、魔力のない君がなぜ、いきなりこの学院に転入を? もしかして、俺のエミリエンヌを……」
 ああ、そういう事か。聡明な王子であったブライアンも、熱愛中の恋人の事となると盲目になるらしい。フローライトはわずかに苦笑してから、落ち着きはらって言った。
「いいえ。先日婚約破棄の際に、お二人の幸せを願っておりますと言ったはずですが?」
「そ、そんなの口だけでは何とも言えるだろう! 俺にあれほど執着していたお前が、そう簡単に――」
 しゃあしゃあとそう言うブライアンに、フローライトは内心ため息をついた。
(そう言えば、そういう設定だったわね。でもごめんなさいね。今の私はすべてシグル中心に回っているのよ)
「殿下、私いやしくも、行った婚約破棄を蒸し返すようなつもりはございませんわ。この学院には、別の目的があって来ましたの」
「それは?」
 エミリエンヌもいる。問題ない範囲で、フローライトは答えた。
「反王家組織の者が、ここの研究を狙っているという情報を掴んだからですわ。このまま野放しにしておいては大変な事になります」
「……それは本当か」
「ええ。殿下のお耳にも入っていませんか。最近彼らの動きが活発化していると」
「ああ。だが……なぜわざわざ君が」
 フローライトは軽く咳払いをした。
「それは、私の親しい人がその件にかかわっているからですわ。力になりたくて」
 彼の事を他人に話している、と思うとフローライトは少しドキドキした。そんな様子を、ブライアンは眉間に皺を寄せて見ていた。
「その親しい人、とは?」
「その通りの意味でございますわ。私の大事な……人です」
 少し話し過ぎてしまったかなと思ったフローライトは、かぶせるように続けた。
「とにかく、お二人をどうこうという気持ちは小指の爪の甘皮ほどもございませんわ。むしろ、応援いたしております。何かあったら、私にどうぞ頼ってくださいな。相談になら乗りますわ」
「く……君に頼るなんてことは……っ」
「そうですわね。むしろこの件では、私の方が殿下に相談させていただきたいと思っておりますわ」
「反王家組織の事か」
「はい。有事の際には是非、お力を貸していただければと思います」
「ま、まぁ……そういう事なら、わかった。とりあえず下がっていいぞ」
 そう言われて、フローライトは一礼をして部屋を出た。
(んもう、シグルが研究室に行ってしまう前に、探してこっそり一緒にランチにしようと思ったのにっ)
 ベーグルももう、売り切れているかもしれない。ぷりぷりしながら歩くフローライトの後ろから、その時引き留める声がした。
「あのっ……」
 もう! と思いながらも、フローライトは笑顔で振り向いた。
「どうかしまして? エミリエンヌさん」
 彼女は怯えながらも、必死にフローライトを見ていた。
「ご、ごめんなさい。フローライト様には、謝りたくて……」
「あら、そんな必要ないのよ」
 フローライトはそう言って終わらせようとしたが、彼女はつづけた。
「私のせいで、フローライト様の婚約が破棄されてしまって……本当に、申し訳ありません」
 エミリエンヌは心の底から純粋に、そう言っているようだった。
(そうそう、こんな性格の主人公だったわね)
 天使のように純粋で清らかな性格ゆえに、人の心の裏を読むような事はできない。自分に寄せられる好意や嫌悪にも、鈍感だ。天然と言い換えてもいい。
 ならばここは、少し悪役令嬢らしい返しをするべきだろう。
「謝らないでちょうだい!」
 その言葉に、エミリエンヌはびくっと肩をすくませた。怯えたその目をしっかり見て、フローライトは言い切った。
「婚約者がいても、あなたは殿下と結婚したいと思うくらい好きになった。そして実際、あなたが婚約者の座を勝ち取った。そうでしょう? ならその選択に対して、謝る事なんてないわ。むしろ堂々としているべきよ!」
「で、でもそれではフローライト様が……」
「あなたが怯えてしおらしくしていれば、私が喜ぶと思ったの? そんな事はないわ。どうぞ思いっきり幸せを謳歌してちょうだい。それにね……」
 エミリエンヌが一番気になっているであろうことを、フローライトは言った。
「私は殿下に未練は、これっぽちもないの。実は今……好きな人と一緒に、暮らしているから」
 少し声をひそめて、正直にフローライトは打ち明けた。エミリエンヌは目を丸くした。
「フローライト様は、別に好きな方が、いらっしゃったのですか……!?」
「別というか……殿下とは、政略結婚ですから。でもええ、そうよ。私の心を占めるのは、その人だけなの」
 エミリエンヌはおそるおそる聞いた。
「貴族の方ですか? それとも、騎士……? ど、どんな方、なんですか……?」
 なんて言えばいいだろう。シグルの顔が思い浮かぶ。フローライトはうっすら頬を染めながらも真剣に答えた。
「どちらでもないわ。でも……とても……そうね、放っておけない人よ。冷たくされても、追いかけたくなってしまうの」
「フローライト様ほどの人に、冷たく……? 一体どんな美男子なんでしょう」
 純粋な目で見つめられながらそう言われると、さすがに少しこそばゆい。フローライトはくすっと照れ笑いをした。
「ふふ……そうね。絶世の美男子なの。私にとってはね」
「ブライアン様より、ですか?」
「あら、私にとっては、といったでしょう? あなたの目には、殿下が一番の殿方に映っているのでしょうから」
 するとエミリエンヌは、真ん丸なその目をキラキラと輝かせた。
「ええ、そうなんです。ブライアン様は、あんな身分のお方なのに、平民の私にもとてもお優しくて……」
 恋する乙女パワー全開のエミリエンヌを、フローライトはほほえましい気持ちで見た。
「いつか二人のなれそめも聞いてみたいものね」
「えっ……そんな。でも私も、フローライト様の恋のお話、聞いてみたいです」
「それなら今度、ゆっくりお茶でも飲みましょう」
「はい、是非……!」
 まるで子犬のように嬉しそうにする彼女と別れて、フローライトは広場の時計を見た。
(あ……もうすぐ昼休み、終わっちゃうじゃない)
 シグルの姿はどこにもない。フローライトも諦めて、カールの研究室へと向かったのだった。

 フローライトがすたすた廊下を歩いてきたので、シグルはさっと別の教室に身を隠した。
(王子なんかが出てくるから、何かと思ってつけてきたら……)
 王位継承権第一位で、現王の唯一の息子であるブライアンは、サーペントにとって重要なターゲットだった。なにしろ彼を殺せば、この王家は混乱し、ぐらつく事必須だからだ。
 しかし彼はフローライトを連れ出したあと、応接室に籠ってしまった。なんとか盗み聞きしようと耳を済ませたり隣の教室に回ってみたりしたが、強力な防音魔術が施されており、打つ手がなかった。
(王子と一緒に居た女の仕業か。もしかしてあれが、フローライトの言っていた未来の王后、『エミリエンヌ』……?)
 中で一体、どんな事が話し合われているのか。じりじりしながら待っていると、フローライトはため息をついて出てきた。少し怒っているような、残念そうな顔だ。しかし後ろから追ってきた女に声をかけられ、瞬時に完璧な笑顔に変わる。
(ふうん……大した変わり身の早さだな)
 どんな話をするのかと聞き耳を立てていたら、何の事はない、エミリエンヌが謝り始めただけだった。
(は……婚約者を取って、申し訳ありません、ってか)
 その態度を見て、なぜかシグルの方が苛立ちを感じた。王子の婚約者の座を横取りし、寵愛も未来の王后の座も手に入れておきながら、取ったあとにごめんなさいとは。
(そんなの、あんたのケーキたべちゃってごめんなさい、美味しかったわ、って言うようなもんだろ。その上で、自分が悪者になりたくないんだな、あの女は)
 そしてシグルはフローライトの反応が気になった。怒るのか。それとも冷たくあしらうのか。しかしフローライトは、毅然とした態度で彼女の謝罪を拒否し、その上で相手の幸せに寄り添う言葉をかけていた。
(へぇ……上手いな)
 受け入れられない事はしっかり拒絶し、しかし相手の事そのものは柔らかく受け入れる。フローライトのその対応に、シグルは思わずうなった。
(これが貴族流の社交の妙……ってやつなのかもな)
 見た目も口当たりも美しく優しく、しかしその奥には鋭い棘が隠されている。そうやって口舌を用い、貴族たちは戦いを繰り広げてきたのだろう。
(だけど……フローライトの言葉は、聞いていても苛々しないな)
 なぜだろう。そう思った矢先、フローライトとエミリエンヌの話が妙な方向に向かい始めた。
(おい……好きな人と一緒に暮らしてるって、もしかして俺の事……か?)
 同居を開始してからまだ一日目だが。女子二名の会話を盗み聞きしながら、シグルは心臓がうるさく鳴るのを感じた。
(どんな方……って、おい、やめろよ。俺の名前をそいつの前で、出すなよ……!)
 するとフローライトは恥じらう仕草を見せながら、あれこれ話し始めた。
(だーーっ、やめろっ、何が『放っておけない』だ!)
 自分をまるで幼児のように言うのはやめてほしい。シグルの顔は熱くなった。フローライトの話は続く。絶世の美男子、の下りでシグルは思わず耳をふさぎそうになった。
(や、やめろ―――っ!)
 けれどなぜか、塞げない。何らかの禁断症状のように、フローライトたちの話を盗み聞くのがやめられない。
 そして二人が別れ、フローライトが再び歩き始めたところで、はっと我に返ったのだった。
 すんでのところで姿をくらまし、シグルは人気のない教室で一人ため息をついた。
(はぁ……ったく、何アホなこと言ってるんだ、あの身勝手令嬢は)
 呆れているはずなのに、先ほどのフローライトの言葉が耳から離れない。
『――私の心を占めるのは、その人だけなの』
『――冷たくされても、追いかけたくなってしまうの』
『――絶世の美男子なの。私にとってはね』
 思い出すだけで、どんどん顔が熱くなる。汗が噴き出そうなほどに。
 誰もいないのに、隠すように顔に手で覆い、シグルは悪態をついた。
「くっそ……」
 こんな所で、思わぬ爆弾を喰らってしまった。
(あいつの『好き』なんて……信じてない……っ。ない、けど)
 自分以外の人に、真剣なまなざしで、フローライトがあんなことを言っているなんて。
(いやでも……待てよ)
 フローライトは本当に、王子にはもう興味がないようだった。だとしたら、鬱陶しいエミリエンヌの誤解を解くために、あえて『他に好きな人がいる』と強調したかったのかもしれない。
(きっとそうだ。そういう策略なんだ。何を勘違いしてるんだ、俺は)
 シグルは無意識に脇腹に手をやった。この下に、サーペントの団員である証の刺青がある。魔術で刻まれたそれは、目には見えない。しかしサーペントに何かあるとその刺青は熱を持つ。だからどんな時でも、団員はその場所を意識しているのだ。
(俺みたいなのを……好きになるやつなんて、いるはずないんだから)
 深く息をつくと、冷え冷えとしたいつもの気持ちが身体の中に広がる。実の親にも捨てられた自分だ。シグルは、何の価値もない人間なのだ。そんなシグルを拾って使ってくれているのが、サーペントだ。
(そうだ。俺は『持っている奴』が大嫌いだ。金でも、家族でも、魔力でも、なんでも――)
 幸せそうに道を歩いている奴らをみると、わざとぶつかって財布の一つもスリたくなる。金が唸っていそうな屋敷を見ると、火をつけて何もかも奪いたくなる。
(俺はそういう人間だし、サーペントはそんな連中の集まりだ)
 今更どうして、あんな令嬢の甘っちょろい言葉などにほだされるものか。シグルは冷え切ったため息をついたあと、立ち上がった。
 今日は仕事があるのだ。早く出発しなければ。

 サーペントの末端の団員が行う仕事は、チンピラのそれと変わりはない。金でも物でもなんでも、役に立ちそうなものを奪って上納する。上納するものが上等になれば、階級が上がって重要な仕事を任されるようになる。そういう仕組みだ。
 シグルは平民でありながら、わずかに魔力を有していた。おそらくこの力がなければ、サーペントにすら拾ってはもらえなかっただろう。
(親も俺自身も気が付かなかった俺の『魔力』を見抜いたボスの目は本物だ)
 以来、シグルは必死に魔術を学び、少ない魔力を鍛え、磨いてきた。最初はサーペントの命ずるままに盗みや恐喝を行ってきたが、年を経るに従い貴族の邸宅に忍び込んで貴重な魔術具を奪ったり、こうして学院に潜入して情報を探るなど、上級の仕事を任せてもらえるようになってきた。ボスもシグルに目をかけ、魔力を補うようにと力のやどった宝石をふんだんに渡し、援助をしてくれた。
(俺は組織の役に立つんだ。そして俺を捨てた奴らを、俺を蔑んだ奴らを――いつか見下ろして笑ってやるんだ)
 それがシグルのモチベーションの全てだった。たどりついたサーペントの会合の場所――廃墟の地下蔵へと下りながら、シグルの気持ちは高ぶっていた。
(今日の『報告会』では――いいネタが上がったと自慢できる)
 殲滅目標・ブライアン第一王子の元婚約者と、繋がりができたと。これは大きな収穫になる。
 じめじめした壁の黒ずんだレンガを奥へと押し込むと、その中から取っ手が現れる。シグルはそれを掴み、ぐいと横に引いた。すると、さらに地下に続く階段が現れた。この先は塗りつぶしたような暗闇だが、灯りなどなくても、シグルはこの階段を難なく下りられる。何度も通った道だからだ。
(あ……前に誰か居るな)
 湿った暗闇の中、階段の下のほうからぼんやりと蝋燭の光が見え、シグルはぴたりと足を止めた。どんな場合でも、用心に越したことはない。
 するとその人物が、声をかけてきた。
「その息のしかたは……シグルだな?」
 笑いを含んだ低い声。同じ団員の、ラムダのものだ。紫の髪の、いつもちゃらちゃらしている男。シグルは忌々しく思いながら返事をした。
「おい、さっさと進めよ。狭いんだから」
「はいはい、言われなくても行きますよっと」
 こんな調子で、軽薄な性質の男だった。しかし彼は、元・貴族なのだ。
(この男は、馬鹿だ。恵まれた生まれのくせに、サーペントに入るなんて)
 なのでシグルは、ラムダの事を信用してはいなかった。しかしラムダは階段を下りながら呑気に話しかけてくる。彼はシグルを見つけると、いつも積極的に絡んでくるのだ。笑みを浮かべながらも油断ならない光が浮かんだその目が、シグルは苦手だった。
「シグルはどう? さいきん良い収穫あった?」
「あんたに言う義理はないね」
「いいじゃーんどうせ後で一緒に報告聞くんだからさぁ」
「ならそれまで待ってろよ」
「はぁ。シグルって冷たいな。俺たち、もう長い仲なのに。そろそろ仲良くしてくれたっていいだろ」
 たしかに、ボスがラムダを入れてから結構たつ。ラムダは貴族。だから同じ魔力持ちとして、ボスはシグルにラムダを紹介した。その時から、ラムダはなぜかシグルに執着しているのだった。
「……俺は誰ともなれ合う気はない」
 仕事上、協力した方が都合がいい事もあるだろうが、シグルは気が進まなかった。ラムダは表面上は陽気な男だが、その内面に何か黒いものがうずまいている。深くかかわれば、きっと面倒な事になる。本能的に、それを悟っていたからだ。
「ひゅー、かっこいいじゃん、さすがシグル」
 しかしラムダは茶化すように口笛を吹いた。相手にするのもバカバカしい。いっそ後ろから蹴とばしてやろうか。そう思いながら、シグルはもくもくと曲がりくねった階段を下りていった。
 最後のアーチをくぐると、天井の高い地下空間に出る。両脇の壁には骸骨≪カタコンベ≫がぎっしりと積み上げられ、床には墓標が点在している。その光景は、まるで地下に息づく、暗い森のようだった。
 サーペントの団員が密かに集まるこの空間は、大昔の地下墳墓なのだった。
 シグルは墓石のひとつにもたれて無言で待った。『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ――』何百年も前の碑文が刻まれている。その文字を後ろ手でなぞりながら、シグルは嗤った。
(俺はそんな死に方だけはごめんだね)
 もし自分が墓石に刻むとすれば『死なばもろとも』だ。憎い者すべてを巻き込んで、一矢むくいて死んでやる。
(まぁ、俺の墓なんて作られないだろうけどな)
 その時、すべての墓の脇の燭台に、蝋燭の火が灯った。カタコンベたちの壁が、床が、天井が、おどろおどろしく橙色に照らされる。
(ボスだ)
 黒衣に仮面をつけたボスがゆっくり歩いてきて、各団員の前で立ち止まる。いつも通り、報告会の開始だ。
 先ほどとは打って変わって神妙にひざまずいたラムダが、ボスへと成果を告げる。
「またお会いできてうれしいです、ボス。先月ご命じになられた魔術師貴族のプシュケ家の金庫についてですが……」
 他の団員も一同、それに聞き耳を済ませている。どうやらラムダは、世襲貴族の金庫に貴重な魔術具が秘匿されている事を突き止めているらしい。
 次々と団員が、成果を報告している。これだけの情報を、金を手に入れた、ターゲットを暗殺した――等。
 そして、シグルの番が来た。
「息災でなによりです、ボス。引き続き魔術学院で潜入捜査に当たっていますが、先日俺は……」
 第一王子・ブライアンの元婚約者・フローライト・ライザーを懐柔する事に成功しました。いつでも寝首を掻ける状況にあります――。そう言うつもりだったのに、とっさに言葉が出てこない。突然黙ってしまったシグルを、ボスが怪訝そうに見る。
「どうした?」
「……申し訳ありません。続けます。先日、『先進魔術研究室』への潜入を果たしました。ここは文字通り、新しい魔術の研究・開発を行っているラボで、革命に利用できそうな魔術を奪い取る事が期待できます」
 ボスは重重しくうなずいた。
「それは良い情報だ、シグル。引き続き励んでくれ」
「おっしゃる通りに」
 すべての報告を終えたあと、ボスはいつもように締めくくった。
「諸君らの仕事には、いつもながら驚かされる。このまますべての計画がつつがなく進行すれば、この国が我々のものになる日も、そう遠くないだろう……皆、一層己の任務に励むよう期待している!」
 ボスの去ったあと、シグルはわらわらと他の団員に絡まれた。
「おい、さっきのだんまりは何だよ?」
「いい身分だな。大した成果もないのに、偉そうに」
「『先進魔術研究室』だって? ハハッ」
 下品な笑い声が上がる。不快に思ったシグルは、その場を去ろうと背を向けた。しかし団員の一人、屈強な身体を持つジョゼに肩を掴んで引き戻された。
「おいおい無視かよ。少しばかり魔力があるからって、お高くとまってるなぁ?」
 大きな手が、シグルの肩を痛いほどに握りしめる。武闘派の団員とはいつもそりが合わない。そして魔力を武器にするシグルは、彼らからすれば弱いくせにいきがっていて生意気に見えるのだろう。
「離してくれ」
 冷静にシグルが言うと、ますます彼らは色めきたった。
「生意気だな。おい、鬱陶しいそのフード、取ってみろよ」
 ぐいっと肩を引かれ、どすんと背中を壁に押し付けられた。衝撃で、ガラガラと髑髏が床に落ちる。太い指が、うつむくシグルの顎にかかる。無理やり上を向かせられ、シグルは目の前のジョゼから目をそらした。
「へぇ。よく見りゃ優男なんだな、お前。いっつもこれかぶってるからわからなかったぜ」
「離せ」
 シグルは簡潔にそう言ったが、相手はにやにやと笑っただけだった。
「お前、前から気に食わなかったんだよな。拳ひとつでのし上がった俺たちを差し置いてボスに可愛がられてよ」
 ジョゼの拳が降り上げられたその時。男の背後から、間の抜けた声がした。
「おいおいやめとけよ。今シグルが傷ついたら――ボスはどう思うかな?」
「あ?」
「顔に傷がついちゃ、学院生活に支障が出るだろ。ボスお望みの新魔術が手に入る日が、遠のくぜ」
 その言葉に、ジョゼは言葉に詰まって拳を下げた。
「ちっ。覚えてろよ」
 彼らが去ったのを見て、ラムダが近づいてきた。
「大丈夫かい、シグル」
「……俺に構うな」
「あれ? 助けてあげたのに、お礼の一つもなし?」
「自力でどうにでもできた。助けなんて必要ない」
「……シグルは損な性格してるね。あいつだって俺だって、その気次第では懐柔できるのに」
「興味ない。じゃあな」
 去るシグルの背中に、ラムダは笑い声でつぶやいた。
「……協力する気がないのなら、俺と君はいつかやり合うことになるかもね?」
 笑っているものの、その声にはぞっとするような響きがあった。
 そう、おそらくラムダは、さきほどの男たちよりもよほど冷酷な人間だ。笑いながら人を殺せるタイプの奴。
 そんな酷薄さが、へらへらとした笑いの裏に見え隠れしている。
「ごめんごめん、なんでもない。ねぇ、待ってよシグル」
 シグルはひきとめるその言葉を無視して先へと行った。
(……誰も信用なんて、できない)
 地上に戻ったシグルは、空を見上げた。すでに夜半を過ぎたその空の、星々のきらめきが眩しい。
(けっこう長い事、地下にいたからな)
 目をこすってから、シグルは歩きだした。せっかく良い報告ができたというのに、シグルの胸の内は冴えず、重苦しい。まるで、消化不良の黒い気持ちが詰まっているようだ。
(――俺が憎いのは『持っている奴』だ。サーペントはそんな奴らの集まりのはずなのに。『持ってない奴』同士でも……争いが発生する)
 弱い者は、さらに弱い者から奪おうとする。そんな人間の醜い本能に、嫌気がさす。
(もし――王政を倒して、サーペントの国を作ったとしても、自分たちは変わらないんじゃないか……)
 そんな考えがふと頭をよぎって、シグルは歩くのが億劫になってきた。
 目をそらしたくなる。なにもかもから。
「くそ……っ、て、なんだ?」
 シグルの影から、ジャスパーがぬうんと出てきて道の端へと走った。そこで、何か黒い影がうずくまって震えていた。シグルの目はそれに吸い寄せられた。
「ああ……お前、影猫か」
 傷ついた影猫が、捨てられたゴミの影で震えていた。石でも投げられたのだろうか。身体から血を流していた。
「……暴れるなよ」
 シグルはそう言いながら、影猫をローブの内側に抱き上げた。影猫はびくっと震えたが、力も残っていないのか大して抵抗しなかった。
「俺がなんとかしてやるから」
 どくん、どくん。腕の中で、弱弱しい鼓動を感じる。歩いているうちに、心臓が止まってしまわないか心配だ。人間が血を流して倒れていようと素通りするが、影猫だけは見捨てる事ができない。ジャスパーと出会ってから、シグルはそうなってしまった。
(だってお前らは……何も悪くないもんな)
 悪さなどしない。ただ影にまぎれる力が不気味だというだけで、忌み嫌われ、石を投げられる。たとえ影猫が無抵抗であっても、だ。
(ああ、人間はなんてクソなんだろう。影猫より、人間のほうが、よっぽど不気味で忌み嫌われるべき存在だ)
 その中にはもちろん、シグル自身も含められる。
 だからこそ、シグルは影猫だけは助けるのだ。自分を始めとした人間は醜い本性を持ち価値がない。けれど影猫は、違うから。
「っ……と、少しここに居ろよ」
 自室にたどりつき、ベッドの上にそっと傷ついた影猫を横たえる。ジャスパーが心配そうにそのそばに寄り添った。シグルは机の上を漁って、治療薬を探した。
(たしか血止めの魔法薬が、このあたりに……あ)
 しかし、目的の瓶は空だった。この間任務で怪我をした時に使い切って、補充を作るのを忘れていたのだ。
(くそっ、血止め薬は作るのに丸一日はかかる。それじゃ間に合わない……)
 何か他のものはないかと、シグルは物が積まれた机の上をひっかきまわした。
(ちがう、これじゃない。これもちがう。ああ、どこにあるんだ……!)
 ドサリと本の山が崩れ、ガラス類が落ちてパシャンと派手に割れる。
「くそ……っ」
 声に出して悪態をついたその時、たったったっと何者かが階段を下りてくる音がした。
「ディズ!? どうかしたの」
 ドアを開けて飛び込んできたのは、案の定フローライトだった。
「出てってくれ。今取り込み中だ」
 顔も見ずにそう言うシグルを、じっとフローライトは観察し、そしてベッドの上に目線を映した。
「あれ、影猫ちゃんが二匹……って、大変!」
 フローライトはベッドに駆け寄り、怪我をしている影猫を見て顔を歪めた。
「可哀想に……なんてこと。とりあえず止血しないと」
 フローライトは寝間着の裾を裂いて、怪我をした影猫の胴体に巻きつけ縛った。
「おい、勝手な事するな」
 シグルは慌てて机からベッドへと向かった。
「でも、血を止めないとダメよ」
「だから今、その薬を探してるんだよ」
「どこにあるの? 私も手伝います」
「いや……いい。血止めは切らしてて……別のを、探してるから」
 フローライトはひどい有様の机を見て、首をかしげた。
「探して見つかりますの? それ……」
 シグルはぐっと詰まった。フローライトはガウンを脱いで、傷ついた影猫を包んで抱き上げた。
「お医者様に見ていただきましょう」
「は? 何いってんだお前。夜中だぞ」
「私が頼めば皆起きますわ」
「それに、影猫を診てくれる医者なんて……」
「ですから、私が頼めば診てくれますわ。時間がないから行きましょう」
 フローライトは寝間着のまま路地へと飛び出した。腕の中に振動を与えないように気を付けながら、小走りで広場まで出る。夜間も営業している居酒屋の前に、粗末な馬車が繋いであるのをめざとく見つけ、フローライトは酒場内に踏み込んだ。
「私はフローライト・ライザー! 誰か急ぎ馬車を出してちょうだい。報酬ははずみますわ!」
 傲然と顔を上げ、顎をそびやかしてフローライトはそう叫んだ。人を威圧する声。従わせてしまうその雰囲気。ここが居酒屋であろうと、寝間着であろうと、そんな事は関係ない。
(う~ん、『悪役令嬢』っぽいわ)
 一度こういう台詞を言ってみたかったフローライトは少し得意だったが、そんな事はおくびも出さずシグルと馬車に乗りこみ、医者の屋敷へと急いだ。
「こんな診察は初めてですよ……」
 たたき起こされた医者はあくびを噛み殺しながら言った。 
「ええ、急なことでごめんなさいね。この子の怪我を、見てほしいんですの」
 医師は巻きつけられた布を切って、傷口を見た。
「ああ……こりゃ痛そうだ。どれ、ちょっと消毒しましょう」
 医師は傷を洗ったあと軟膏を塗りこみ、新しい包帯をぴしっと巻いた。
「痛みをやわらげる薬を塗っておきました。傷口がくっつくまで、しばらくは柔らかい餌をあげて、安静にさせた方がよいですな」
「その軟膏、いただけませんか?」
「ええ、もちろん」
「この子の怪我の原因は、わかりそうですの?」
「見たところ、尖った石でも投げられたのでしょうな。当たり所が悪くて、裂けてしまったと」
「まぁ、ひどい。どこの誰かしら」
 憤るフローライトに、医師は渋い顔をしていた。
「ですがフローライト様。こんな事は日常茶飯事ですよ。虐待された影猫をいちいち病院に持ち込んでいけば、貴女様が寝る暇もなくなりますぞ」
 その言葉に、フローライトは眉をわずかにひそめた。
「あら、それなら影猫を虐待する人が捕まればいいんですわ。そしたら私が病院に駆け込む必要もなくなります」
 憮然とそう言い放ったフローライトに、医師は苦笑した。
「そういった人が減れば、いいのですがね……」
 治療を終えた影猫は、少し落ち着いたのか帰りの馬車で眠りに落ちた。フローライトは自分のベッドに影猫を運び、シグルに言った。
「今夜は私がこの子の面倒を見ますわ。ディズは帰りも遅かったし、どうぞもうお休みになって」
 そんなフローライトを、シグルは表情の伺えない目でじっと見た。
「……どうかしまして?」
「なんで……医者になんて」
「あら、いけませんでした? たしかに医師の影猫に対する姿勢は残念でしたが……でもひとまず治療は受けられましたし」
「そうじゃなくて……」
 シグルは言葉を探して、しかしため息をついて諦めた。
「わかった。とりあえずそいつは置いていく」
「おやすみなさい、ディズ」
 シグルはわずかにうなずいて、部屋を後にした。自分のねぐらに下り、一人考える。
(俺はあいつに、何を聞きたかったんだろう……)
 この深夜のフローライトの行動力には驚かされた。まさか見知らぬ人間の馬車を出させて、医者の所まで強引に連れていくとは。フローライトはその最中、ずっと必死の形相をしていた。
(貴族のくせに、あいつはなんで……見ず知らずの影猫なんかを、あんな必死になって助けたんだ?)
 シグルの疑問はそれだった。
(そもそも何であいつは、ジャスパーを可愛がってなんかいるんだ? お上品なやつらほど、影猫の事をゴミを漁る不吉な害獣とか言って嫌っているのに)
 しかしジャスパーをお腹に載せて撫でていたフローライトの笑みは、ふにゃふにゃで本当に幸せそうだった。そこに偽りは感じられなかった。
(普通、令嬢は血を出した獣なんて見るのも嫌だと思うはずなのに)
 それどころか、フローライトは今日ためらいなく自分の服を裂いて手当をし、夜中に寝間着のまま医者の元へ走っていた。打つ手なしだったシグルの代わりに、あの影猫を見事助けたのだ。
(何で……?)
 もしかして、フローライト・ライザーという人間は。
(俺が今まで見て来た他の人間とは違う……のか?)
 シグルに向けられる、彼女の慈愛に満ちたまなざし。あの鮮やかに潤んだ水色の目で微笑まれると、シグルはいつも目をそらしてしまう。そんなまなざしを受ける事なんて、生まれて初めてで。けれど不思議と、またその色を見たくなってしまうのだ。晴れやかな空の色にも、清らかな泉のようにも見える、稀なる美しい水色を。
 見たいけど、見られない。その葛藤を繰り返すたびに、シグルの胸はなぜか締め付けられたように痛くなる。
(くそ……あいつは、俺を嵌めにきたかもしれないやつ、なのに……!)
 金色の髪に、澄んだ水色の目――。聖堂の女神のような微笑みを浮かべる彼女は、本当に女神のごとき心を持った人間なのではないか。彼女と女神の像が、ふっと頭の中で重なる。しかし。
(嘘だ。そんな人間、いるはずがないんだ。人間は皆自分勝手で醜い存在のはず、なのに……)
 なぜ彼女だけがそうでないと言い切れるんだろう。フローライトだって、シグルやサーペントの連中のように、醜い心をもっているはずなのに。
(だって、人間なんだから!)
 しかし、そう思い込もうとすればするほど、彼女の今までの姿が頭の中によみがえる。
 買った肉を、自分の分までジャスパーに与えてしまっていた彼女。自分に屈辱を与えたエミリエンヌですら、怯えさせないようにと優しく接していた彼女。
(……あいつは、フローライトは、本当に)
 自分より弱い者に、自然と手を差し伸べる事の出来る人間なのかもしれない。
 奪わずに、与える人間なのかもしれない。
 そう思うと、ぐらりとシグルの中で、何かが揺らいだ。サーペント、ボス、胸の中にずっとある黒い怨念の塊。それらにぴしっと亀裂が入ったような。
 けれどシグルは、それを無視した。そうしないと、自分の何かが駄目になってしまいような気がしたから。
(あいつがいくら影猫を助けようと、馬鹿みたいにお人よしだろうと――)
 自分の事を『好き』というあの言葉だけは、信じるもんか。
 そう結論をつけて、シグルはごろんとマットレスに横になった。ジャスパーは、その背中にそっとよりそって、小さく鳴いた。
「にに」
 それは、まるで彼を咎めるような響きを持っていた。

 夜中に苦しそうにしていたので、フローライトは幾度か起きて影猫の看病をした。身体をさすり、軟膏を塗りなおし、水を飲ませる。
(尖った石なんて。そんな事をする人間がいるなんて)
 しかも、それが日常茶飯事だなんて。この状況に、フローライトは憤っていた。
(たしかに医師の言う通り、私が一匹一匹こうやって助けていたって、傷つける人が減らなきゃ話にならない)
 先ほど口走ったように、そんな人間を罰するような法律でも作ればいいんだろうか。
(でも……そんな事お父様に言っても、相手にされないでしょうね……)
 どうすれば、影猫を傷つける人がいなくなるだろう。どうすれば、影猫が安心して暮らせる世界になるのだろう……
 そんな事を考えながら、フローライトはしばらく影猫の看病に専念した。毎日熱心にお世話をし続けた結果、影猫の傷はだんだんと治り、フローライトに懐くようになった。
「おはよう、影猫ちゃん」
 朝起きて一番に、フローライトはお魚のスープを作る。魚の切り身をほぐしてすりつぶし、小鍋でことこと煮立てる。
「はい、どうぞ。朝食よ」
 すると影猫はふんふんと匂いをかいだあと、いきおいよくお皿を舐め始める。そしてぺろりと舌を出して、あっという間に空になったお皿をじいっと眺めるのだ。その仕草が、何とも言えずに可愛らしい。
「ふふ、お替りをもってくるわ」
 二杯目の魚スープをものすごい勢いで食べる様子を見て、フローライトは思った。
(傷はだいぶ良くなったけれど、この子は出て行くそぶりを見せない……と、いう事は)
 もしかして、しばらくはフローライトの側に居てくれる気なのかもしれない。とすれば、そろそろ名前をつけてあげても、いいんじゃないだろうか。
(フィッシュ……ていうのはちょっとアレだから……)
「ツナはどうかしら。うん、あなたの事、とりあえずツナって呼ぶ事にするわ」
 フローライトは上機嫌で、ツナがスープを平らげる様子を見守りつつ、人間の朝食も用意した。
「ディズ? 起きてる? 朝食ができましてよ。ツナと一緒にいただきましょう?」
 ツナの看病を始めてから、二人は朝食をフローライトの部屋でとるようになった。フローライトがこうして呼ぶと、シグルはしぶしぶといった体で上がってくる。が、きちんと朝食を食べてはくれるのだ。
「は? ツナ?」
 怪訝そうに階下から顔を出したシグルに、フローライトはうなずいた。
「ええ。とりあえずの名前」
 シグルはげんなりした顔になった。
「あんた、ネーミングセンスないんだな……」
「ええっ、どういう事? どうやらこの子は魚が好きみたいなのよ。可愛い名前だと思うのだけど……」
 すると、シグルは上がってきて横になっているツナに近づき、その目を覗き込んだ。
「黄色い目か……なら、琥珀≪アンバー≫とか」
「石の名前ね。なるほど……」
 たしかにツナの目は、橙色の黄色の間のようなとろりとした光沢を放っていた。
 少し思案したあと、フローライトはうなずいた。
「ちょっと悔しいけれど……そちらの方が、素敵かもしれませんわ」
「そりゃそうだろ」
 シグルは当たり前のように言った。
「そういえば、ジャスパーも宝石の名前だったかしら」
「ああ。碧玉だ。こいつの目は、青緑だから」
「たしかに、影猫ちゃんの目は宝石みたいに綺麗ですね。宝石の名前っていうのはぴったりですわ」
 ツナ……改め、アンバーの瞳を見つめながら、うっとりとフローライトは言った。そんな彼女に、シグルのまなざしが注がれる。
「……お前の名前も蛍石≪フローライト≫だな」
「えっ? あっ、たしかに」
 パチリを瞬きするフローライトの目元に、シグルの手が伸びる。
「フローライトは確かに、澄んだ水色のものが多い」
 突然触れられて、フローライトの身体は驚きに強張った。しかしシグルは退かずにつぶやいた。
「ああ、お前の目、よく見ると紫も混ざってるな。まさにフローライトだ」
 空の色でも、泉の色でもなかった。彼女の目は、宝石だったのだ。そう気が付いたシグルは、くすっと笑った。
「ディズ、さん……ち、近いです……」
 あまりの至近距離。彼の白い瞼には黒い睫毛が凛と反り、その頬に影を落としている様子までが良く見える。そのひそやかな息遣いや、薬品が入り混じった彼の匂い――。
 フローライトは真っ赤になって蚊の鳴くような声で言うのがせいぜいだった。
「なに? こんな事で、びびってんの?」
「ご、ごめんなさい……」
 真っ赤になりながら言うフローライトに、シグルははっとした顔をした。しかし次の瞬間、彼の指はすっとフローライトの頬から離れた。
「悪かったな」
 シグルはそう言って、フローライトから顔を離した。そのままテーブルの上のサンドイッチを掴んで、出ていった。
「これ、もらうからな」
 階段からその声が聞こえ、フローライトは慌てて返事をした。
「あ、はいっ、どうぞ! そちらはディズの分ですから……!」
 彼が去り、フローライトは熱い頬に両手をあてた。
(な、なに? 今の……っ)
 シグルが、あんな近くでフローライトの目を覗き込むなんて。
(そ、それに、『悪かったな』って……私に、謝罪、を……)
 彼は笑っていた。少し苦い笑いだったが、馬鹿にする笑みではない。ちょっと切ないけれど、優しい笑みだった。
(ど、どうしよう……心臓が、バクバクしてっ)
 今まであまりに塩対応だったので、いきなりこんな事をされると、推しの供給過多で息が切れる。心臓が、バクバク言う。
(ああもう。ちょっと、落ちつかないと……!)
 目を閉じて念じるフローライトの姿を、アンバーが興味深げに見つめていた。

「それでは、私はここで。今日もお互い、学業に励みましょうね」
 登校後、校門をくぐると、フローライトはいつもそう言って本棟へと消える。必修の講義を受けにいくからだ。とっくの昔にそれを終了しているシグルは、なんとなく立ち尽くして彼女の背中を見送った。
(必修か……あいつは、どこの研究室に入る気なんだろう)
 あまりそう言った話を、聞いていない。というかフローライトはあまり自分の事を話さない。いつもシグルや、ジャスパーの事ばかりだ。シグルの前ではいつも、フローライトは笑顔、笑顔、そしてたまに、無防備な表情。
 さきほど目を覗き込んだら、フローライトは顔を真っ赤にして後ずさった。シグルの方から近づくと、彼女はいつもそんな反応をする。
(他の事は強引な女なのに、なんというか男女の事には奥手なんだよな)
 貴族の令嬢らしいといえば、らしい反応なのだろう。下町の女しか知らないシグルからしたら、新鮮すぎてどう接すればいいのかわからない。
(いや、それもおかしいな……。だって最初は何の遠慮もなく、抱いたじゃないか)
 それこそ、蓮っ葉な女を抱くように、何の特別な感情もなく。それがシグルのいつもの行為だった。しかし。
(一つ屋根の下に住んでもう半月……俺はあいつに、手を出さないでいる)
 正直、彼女を前に何度も欲は沸いた。下着姿で、ジャスパーを撫でていた時。そしてさっき、顔を真っ赤にして『近いです……』とうつむいた時。
 ぐらっときた。うっかり、押し倒しそうになった。けれどシグルの中の何かが、その衝動にブレーキを掛けた。
 彼女を抱きたいけど、抱きたくない。
 あの水色の目が、熱っぽく潤んで自分を見上げるところを、見たくない。
 桃色の柔らかな唇が、自分の名前を呼び、切なく啼く声を聞きたくない。
 この世界で何よりもなめらかな白い肌が、その行為によってしっとりと濡れる様を、知りたくない。
 もし、また見てしまったら。聞いてしまったら。肌が触れてしまったら。
(俺は、本当に……あいつの、ことを)
 信じてしまうかもしれない。彼女が自分を『好き』だという言葉を。
 けれど、そんな事になってしまったら、待っているのは地獄だ。
(俺は……俺はサーペントの団員。あいつの、敵だ)
 シグルには、サーペントしかない。どんなに暗く汚い場所でも、あそこがシグルの生きる場所なのだ。
 だから、フローライトに本気になった瞬間、組織に対しての裏切りが発生する事になる。もし、今フローライトとシグルが暮らしている事がボスに知られれば、フローライトを殺せと命令するかもしれないのだ。
 そして、この事を報告しなかったシグルにも当然咎めがあるだろう。
(くそっ。何で俺は、あの時ボスの報告するのをためらったんだ――)
 あの時、頭によぎった。もしボスにフローライトを殺せと言われたらどうしようかと。
 今の自分に、彼女を殺せるだろうか。あの柔らかな胸に、短剣を突き刺せるだろうか。飲み物に毒を入れて、それを彼女が飲むのを、冷静に見つめていられるだろうか――。
 そう想像すると、どっどっどっと心臓がいやに早く鼓動を打った。背中に冷たい汗が伝う。
 今考えてみても、それは、恐怖だった。
(どうして……どうして、俺は)
 フローライトを殺す事に、恐怖を感じているんだ。シグルはごくりと喉を鳴らした。
(こんな事、何てことない。俺の気持ち一つで、どうにでもなる事なのに――)
 少ない魔力で魔術を鍛える事に比べれば、自分の気持ちをコントロールする事など、ささいな事のはずなのに。今までシグルは、どんな辛い事が起こっても、窮地に立たされた時も、常に感情を抑えて冷静に対処して、ここまで来たのに。
 なのに今、それができずに、シグルは立ち尽くしている。
 自分の任務に反して、フローライトの事を報告できず嘘をついてしまった。
 その事が、恐ろしかった。
(俺はいつの間に……こんな、事に)
 ぎゅっと胸を掴む。シグルはフローライトに向かって怒鳴りたい気持ちだった。
(ふざけるな。返せ……元の冷静な俺を!)
 シグルはきっと顔を上げた。ちょうどフローライトが誰かとしゃべりながら、本棟の玄関をくぐった所だった。シグルははっとした。一体フローライトは、誰としゃべっているんだろう。
(あいつは……俺が居ない時、どんな顔をしているんだろう)
 もしかして、シグル以外の人間にも、あの麗しいまなざしを向けているのだろうか。聖堂の女神のような微笑みを浮かべているのだろうか。
 この学院は、当然男も多い。もしシグルの知らない場所で、どこかの貴族の男が、フローライトに気が付いてしまったらどうしよう。いや、気がつかないわけがない。輝くような金髪に、優しく賢い物腰。加えて大貴族。目をつけられない方がおかしい。
 シグルは自分でも無意識のまま、本棟の大教室へと足を向けていたのだった。
(フローライトは……あぁ、いた。あそこだ)
 教室の一番後ろ、教壇の教授が豆粒くらいに小さく見える端の席に滑り込み、シグルは一瞬でフローライトを見つけた。真ん中よりやや後ろの席に、女子生徒に囲まれて座っている。
(隣にいるのは……あぁ、たしかエミリなんとか)
 あれ以来二人は仲よくやっているのか、周りの女子生徒も交え、時折何かしゃべったり、くすくす笑ったりしていた。それを見て、シグルは人知れず安堵していた。
(なんだ……周り、女ばっかりじゃないか)
 わざわざ見にきた自分がバカバカしくなり、シグルは出て行こうとした。しかし、なぜか席から立つ事ができない。
 ――ずっと、彼女をこうして見ていたい。
 二人きりだと、こうはいかない。シグルがじっと彼女を見ていると、フローライトに気がつかれてしまう。目が合って、フローライトはうれしそうに笑う。だからシグルはあまりフローライトを見ないようにしていた。しかしこうして彼女に気づかれないまま、後ろから観察していれば、いくらでも彼女を眺めている事ができるのだ。
 真面目にノートを取る横顔。友人になにかささやかれて、くすっと笑う顔。そして、問題を解こうと眉をぎゅっと寄せる表情。すべての彼女の顔が、頭の中に刻印されていく。
 それは、幸福な時間だった。シグルはただただじいっと講義中、彼女の方を見つめていた。
(結局、気づかれなかったな……)
 フローライトは大教室をでて、女子生徒らと別れた。一人でいったいどこへ行くのだろう。シグルは気になって、尾行を続行した。
 すると、フローライトは学院長室に消えた。ドアに耳を付けてみたが、さして何も聞こえない。すると、ドアが開いた。シグルはさっとその裏に隠れた。
(挨拶でもして、出てきたってとこか――)
 シグルはそう思って廊下を見渡したが、しかしフローライトはどこにもいなかった。
(どこへ行った?)
 もしかして、まだ学院長室の中だろうか。シグルはとりあえずじっと待つことにした。しかしいつまでたってもフローライトは出てこない。
(おかしい。もしかしてあいつは、学院長と何か、『特別な関係』が……?)
 中で何が起こっているんだろう。しかし学院長室なだけあって、魔術で盗聴も盗撮もできない。シグルはかっとなって、思わずドアを蹴破りそうになった――が、その寸前で我慢した。
(落ち着け。見間違いかもしれない。さっき出て行ったんだ。そうに違いない)
 深呼吸をし、むりやり気持ちを切り替える。この場所を離れた方がいい。シグルはとりあえず、隣の塔にある図書館に向かった。静かで誰にも干渉されないこの場所は、自分を落ち着け、今日の行動を立て直すにはちょうどいい空間だ。
 しかし。あろうことかその図書館の棚の間に、フローライトがいた。しかもあのブライアン王子と一緒だった。
(な……んだと!?)
 シグルは奥の棚越しに、彼らににじりよった。しかしちょうどその時、会話は終わったようだった。フローライトは『このあと、エミリエンヌとお茶の予定がある』と一礼して王子の前を去ったのだ。取り残されたブライアン王子は、少し不満気な顔をしていた。
(なんだよ、こいつ。フローライトとは婚約破棄したくせに、なれなれしくこんな所で引き留めようとして)
 しかしまぁ、フローライトはこれから女友達とお茶か。それなら、いいだろう。なぜかシグルはそう思い、ほっとして先に家に帰る事にしたのだった。
 
 今日も一緒に、シグルと登校した。フローライトは束の間の幸福を味わったあと、校門で名残惜しく思いながらシグルと別れた。
(ええっと、今日の講義は出ないとね)
 必修の講義だけは、きちんと出て単位をもらう予定だった。
(でないとあの令嬢、何しにここにきてるわけ? って怪しまれちゃうもの)
 ここ数週間で仲良くなった、エミリエンヌ含める女子生徒たちと、一緒に授業を受ける。問題を教えあったり、時折他愛のないおしゃべりをしたり。そんな風に過ごしていると、授業もあっという間に終わる。
「それでは皆さんごきげんよう。また明日ね」
 フローライトは教室を出て、彼女らと別れた。自分の日課の本番は、ここからだ。フローライトは学院長室へ向かった。
「おはようございます、先生。今日はアレを研究室に運びますわ。いつものをお願いします」
 すると学院長は少し心配気に言った。
「でも、これは重い。おひとりで運ぶのは……」
「あら大丈夫ですわ。台車つきですもの」
「そうかね。では、いつもの術を掛けますぞ」
 学院長が、フローライトの頭の上に手をかざす。とろりと冷たい液体が滴るような感覚が全身に広がり、フローライトと荷物は透明になった。
 初日以来、フローライトはこうして『姿かくし』の術を掛けてもらった状態でドミノ塔に出入りしていた。これも秘密を守るためだ。
「本当に、一人で大丈夫ですか。私がお手伝いを……」
「いいえ、学院長先生が動いたら目立ってしまいますわ。私の事なら、大丈夫です」
 休み休み、台車を引きつつドミノ塔へと向かう。透明だけれど実体はあるから、人にぶつかったりしないよう気をつけて進まなければならない。
 そしてやっとの事で、ドミノ塔の昇降機に台車と一緒に乗り込む。研究室に着いた昇降機を見て、まっさきにマッドオーブが近づいてきた。
「フローラ! フローラだよね? 今日はベーグルじゃなくてドーナツ!?」
「おー、今日も凝りもせず、この辺鄙な場所に」
 マッドオーブのはしゃぐ声と、からかうようなカールの声。この研究室の一員となっていくらか経ち、フローライトと研究員二人は、それなりに打ち解けて来た。カールはなんだかんだいいつつフローライトの言葉を聞いてくれるし、マッドオーブはフローライトを見ると、いつも何かお菓子をねだる。
「ちょっと、先に姿かくしを解くのを手伝ってちょうだい!」
 フローライトは呼吸を乱してそう叫んだ。魔力を持たないものが魔術を掛けられると、結構消耗するものなのだ。
「しょうがないなぁ。よいしょ、っと」
 マッドオーブがフローライトに手をかざすと、ふっとフローライトの姿と大荷物が研究所に出現した。
(ああ、何度もしてもらっているけど、慣れないわ! 自分の全身が透明になっちゃうなんて)
「フローラ、それなに?」
 フローライトの足元にある大荷物を見て、二人は首を傾げた。
「これは金庫よ。私と学院長とで探してやっと見つけ出したの。マッド、今日はベーグルは買えなかったからこれをどうぞ」
「やった! やっぱドーナツッ!」
 紙袋を開けて、マッドは嬉しそうにかぶりついた。カールは金庫をしげしげと見ていた。
「こんな金庫に入れても、盗まれる時は盗まれると思うけどねぇ」
 バカにしたようにそう言う彼に、フローライトはフフフと笑って扉を開けた。
「見て、この中」
「いっぱい穴が開いてんな?」
「そう。間違った暗証番号を入れたり、無理やりこじ開けられると、この穴から王水が流れ出して中を満たすのよ」
 王水は、金をも溶かす強力な水溶液だと、御用聞きの商人は得意げに説明していた。
「それですべて溶けるってわけか……なるほどね」
「そう。だからそこらじゅうに散乱しているあなたの研究メモ。それに実験物! 毎回ちゃんと、この中にしまってちょうだい」
 フローライトは机の上のフラスコを指さした。薄緑に輝くその液体には、カールの魔力が宿っている。これを飲めば、一時的の他の人にも魔力が使える――。しかしこれはまだ未完成で、例えばマッドオーブが飲めば魔力が増えるが、フローライトが飲んでも魔術を使えるようにはならなかった。これだとシグルがよく使っている宝石と効用はそう変わらない。しかし、画期的な発明であることはたしかだ。
 カールはフローライトの言葉を受けて、めんどくさそうに頭を掻いた。
「別にいいんじゃないか? これを悪用しようとしたところで、また大した事はできないんだし」
「そんな事言って、ただめんどくさいだけでしょう」
「はぁ~。そうだよ。今までだってフローラ、あんたの言う事を聞いてめんどくさい事やってきたんだ。昇降機もドアの出入りさえも制限かかってさぁ」
 フローライトはまっさきに学院長に掛け合って、入り口と昇降機を、認めたものしか足を踏み入れられないよう魔術を施させたのだった。
「大人しくそれ守ってるんだから、いいだろー?」
 その言葉に、フローライトは腕をくんで首を振った。
「だめよ。というか、このくらいで根を上げてもらっては困るわ。一番守りを強化すべきなのは、この建物でも実験物でもなくて、あなたなんだから。私はあなたにボディガードをつけたいくらいの気持ちでいるのよ」
「うへぇ、勘弁してくれぇ」
 何か怪しい事がなかったか、彼が無事でいるか確認するためにも、フローライトは毎日研究室に顔を出して二人の安否を確認しているのだ。だが正直、それだけでは心もとない。
「だっていきなり後ろから刺されたらどうするの。カールもマッドも、戦闘は素人なんだから。私はそれが心配なのよ」
 ぷりぷりしながらそう説得するフローライトの頬に、ふとカールの手がかかる。
「そんな心配するなよ。俺がそんな簡単にやられるように見えるか?」
 蠱惑的なハシバミ色の目が、フローライトを見つめて悪戯に微笑む。スチルシーンばりの色気のある仕草だったが、フローライトはほだされる事なくその手をよけた。
「あのね、私にその手はきかなくてよ」
 エミリエンヌじゃないんだから。フローライトははぁとため息をついた。
「とにかく、金庫は使ってちょうだい。それに、あなたたち自身も用心してね」
 マッドオーブとカール、二人の目を見てフローライトは告げた。
「うん! フローラ、またきてね!」
「はいはい、お嬢様の仰せのままに」
 フローライトは少し肩をすくめて、もうひとつ持っていた紙袋をカールに渡した。
「これ、カールの分のサンドイッチよ」
「お、サンキュ」
「それじゃあ、帰りの『姿かくし』をお願いしてもいいかしら」
「了解。半刻で消えるように設定しとくから」
「ええ」
 フローライトの頭の上に、カールが手をかざす。そこから冷たい液体がしたたり落ちるような感触がしたあと、フローライトの姿は来た時と同じように見えなくなった。
「ありがとう。そうそう、ランチだけじゃなくて、ちゃんと夕食もとるのよ!」
 そう言いながら、フローライトは昇降機に乗り込んでドミノ塔を後にした。ドミノ塔自体のセキュリティは、この金庫を入れた事で最高レベルになった。これで万が一、留守に研究を盗まれる、といった事はなくなるだろう。しかし。
(多分その位で、シグル……いえ、サーペントは諦めないわ)
 彼らの動向を、もっと詳しく知っておきたい。今日はこれから、その一手を打つ。
(確か本編では、『ボス』の顔は出ていなかったわ……)
 ヒロイン側がサーペントに勝つ正ルートでも、ボスの記述は『シグルの処刑を受けて自らの館から逃げ出すも、兵士に斬られて斃れた』という一言だけだった。
 なので、フローライトはこの一文のみから、サーペントの黒幕像について推理をしていた。
(まず、サーペントは反王家組織。となれば、王家や貴族は外れる。けれど、館を持つほどには裕福な人物……)
 となると、著名な魔術師か商人など、疑わしい人間は絞られてくる。フローライトは忙しい学生生活の合間に、その人々をリストアップしていった。結果、怪しい人物が数名浮かび上がってきた。
(その中でも特に怪しいのは、この人。リントン商会のボス、ゴーティス・リントン)
 彼は一代でこの商会を立ち上げ、今、この国で一番儲かっている男と呼ばれている。
(彼が成り上がった時期と、サーペントの活動が確認された時期がほぼ一緒なのと、彼は平民で、しかも孤児院出身。貴族を恨む素地はある)
 そしてフローライトの疑惑に決定打を打ったのは、彼の趣味が『魔術宝石の収集』だったことだった。彼のコレクションはそうそうたるものだった。ピジョン・ブラッド、サン・ドロップ、それに天使の涙と呼ばれる巨大なオパール。
(平民で構成されるサーペントの中では少ない魔術師のシグルの部屋には、たくさんの宝石があった……)
 粗末な地下室に、高価な宝石が散らばっている。どう考えても不釣り合いだ。宝石は魔力を補う事にしばしば使われるが、それにしたってシグルの持っている宝石はあまりにも桁違いだった。フローライトが幾度か目を奪われた深い青色のピアスは、大きさ、色ともに美しく、どう見ても市場に出回らない特注品だった。
(とても、シグル個人に用意できるようなものじゃないわ)
 お金持ちのボス・ゴーティスにふんだんに与えられたという事ならば、説明がつく。
 それに、シグル自身も影猫たちに宝石の名前をつけたりと、宝石に思い入れのようなものがあるのが見てとれた。フローライトは、最早確信していた。
(ゴーティス・リントンがおそらくサーペントのボス。なんとかして彼に近づいて、反王家活動の裏を取りたい――!)
 今のフローライトの計画は、いつどこで失敗し穴が開くかわからない。そういったとき、相手の情報がこちらにあれば、一歩先んずる事ができる。
(彼は表向きは活動を秘密にしている。だから、裏が取れれば、彼を脅迫する事だってできる。それに、逆に私が貴族社会に疑われた時も、彼の活動を報告すれば、潔白は証明される)
 彼の秘密を握る事は、いわば窮地に陥った際に使えるジョーカー・カードを持つことになるのだ。フローライトはドミノ塔から本棟に向かいながら、一枚のカードを鞄から差し出した。それは、この学院の魔術宝石研究室の、研究発表会の案内だった。
(魔術宝石好きなら、きっとこの発表会に顔を出すはず……)
 フローライトは『姿隠し』が解けた後、会場に入りあたりを見回した。調べた所、ゴーティスは禿頭の大男だった。該当する人物を後ろの席の方に発見したフローライトは、したりとばかりに彼のそばの空いた席に腰かけた。
「失礼いたしますわ」
 男はちらりとフローライトを見て、軽く会釈した。その手には、巨大なオパールの指輪が嵌っていた。
(これは、『天使の涙』……! 間違いない、この人がゴーティス・リントン!)
 フローライトは内心の驚きを押し隠しながら、そのオパールに見入ってしまった、という素振りをした。案の定、フローライトの視線に気が付いてゴーティスがこちらを見た。
「あら……申し訳ありません。ぶしつけに見てしまって」
 フローライトは恥じらう素振りをし、相手の出方を待った。するとゴーティスは余裕ある笑みを浮かべた。
「構いませんよ。宝石は、見られてなんぼのものですからね」
「失礼ですが、こちらは『天使の涙』ですよね? とても美しいわ」
「ええ、その通りです。お嬢さん、もしかして宝石にお詳しいのですか?」
「いいえ、実は最近勉強し始めたばかりで……今日も初めて、こちらの研究会に顔を出したんですの。魔術も使えなくて。まったくの初心者ですわ」
「それは私もですよ。ご覧の通り、平民なのでね。私は魔力を持っていない。だけれどこれらの宝石が魔術によってどう変わり、何に使われるのか――考えるのが楽しくてね。こうして集めているんですよ」
「あら、ではその美しい天使の涙も、いつかは魔術に変わってしまうのですね」
「ここぞというときに取っておこうと決めているのです。いずれ砕けて、その身を魔術に変える。そんな未来があるからこそ、宝石は一層美しく輝く。だから私は、いずれ使う事を前提に、コレクションしているのです」
 フローライトは初心な令嬢を装い、無邪気に感心する顔を作った。
「まぁ……それはとても素敵な考えですわね。私も、よくよく覚えておきたいと思います」
「ええ。どんな財宝でも、使った方が有意義ですからね。貯めておくと、たちまち腐りだして腐臭を放ち、周囲にまで影響が及ぶ」
 微笑みながらも、その笑みはどこか危険だった。フローライトの背中はひやっとした。
(貴族がため込んでいるから――この国は腐っている、と言いたいのかもしれない)
 しかしフローライトはそんな様子をおくびにも出さず、思案深い顔つきを装った。
「たしかに、宝石を自分のものとため込むより、なくなる前提で持っている方が、潔くて良いかもしれませんわね」
「おや、本当に、そう思われますか?」 
「ええ。どんなものでも、ずっと自分のものにしておこうと思うと、何かと難しいものですわ。それよりも、ぱっと誰かの役に立つような事に使ってしまう方が、清々しいですわ」
 こればかりは、フローライトは嘘ではなく本当に思う事を言った。その言葉に、男は軽く頭を下げた。
「あなたは素敵なお考えをお持ちだ。私の名はゴーティス・リントン。あなたの名前を聞かせてはもらいませんか」
「私はフローライト・ライザーと申しますわ」
 すると彼は目を丸くした。
「おお、そんな尊い方が、私の隣にお座りになっていたとは。軽々しい口をきいて、大変失礼いたしました」
「あら、おやめください、そんな。私はまだまだ若輩者ですわ。それより、ゴーティスさんのお話をもっと聞かせていただきたいです」
「それならば、今度是非私めの館に起こしください。毎月、ちょっとしたパーティを開いているんですよ……」
「それは是非、お邪魔させていただきたいですわ」
 にこにこ微笑みながら、フローライトは内心ガッツポーズをしていた。

 研究発表が終わり、フローライトは図書室に寄って魔術宝石の資料をいくつか借りた。不自然でない程度に、魔術宝石の知識を身に着けておかなければならない。時間はあまりないが、とにかく覚えなくては。すると、本棚の影から思いもしなかった人物がぬっとあらわれた。
「フローライト」
「あら、殿下? こんな所でどうされたんですか」
「……生徒ではないが、俺も時々出入りする事にしたんだ。必要な魔術を身に着けるために」
「あら、そうでしたの」
「しかし君は、なかなか学院内で見かけないな。いったいどこで何をしているんだ。そんなに忙しいのか」
 フローライトは声をひそめた。
「あら、私の目的が何かは、この前お伝えしたではありませんか」
「ああ。だが君は一体、具体的に何をしているんだ。教えてくれないか」
 そう言うブライアンの目は、存外に真剣だった。エミリエンヌにのぼせ上っているとはいえ、彼はこの国の第一王子。反王家組織の動向が、気になるのかもしれない。
「もちろん、すべて殿下と陛下にはご報告いたします。しかるべき時がきましたら」
「今ではダメなのか。ここが良くないなら、また貴賓室に移動しよう――」
 フローライトはきっぱりと首を振った。
「いいえ。今はお伝えできないのです。後ろ暗い事をしているからではなくて、お伝えすれば、それだけリスクが増えますので」
「リスク?」
「ええ。秘密は、知る人が増えれば増えるほど守る事が難しくなるものです。それに殿下はただでさえ重たいお立場。私の事にかかわれば、さらに危険にさらすことになってしまいますわ」
「俺は危険など――」
「いけませんわ。とにかく、もう少しお待ちくださいませ。きっとお話しますから」
 そう言って、フローライトは一歩引いてお辞儀した。
「私、もう失礼させていただきますわ。これからエミリエンヌさんとお茶を飲む約束をしておりますの」
 するとブライアンは、虚を突かれたように顔を引いた。
「よかったら、殿下も来られます?」
「い、いや、いい。引き留めて悪かった」
「とんでもありませんわ。では」
 図書館を出た時、ちょうど午後三時の鐘が鳴った。終業の時間だ。
(金庫をはこんで、彼らの様子を見て、研究会でゴーティスをマークして……)
 そして今日の最後の『予定』が、エミリエンヌとのお茶だ。フローライトは学院を出て、彼女が指定したカフェへと向かった。
「ええと、ここ……?」
 街の大通りから一歩入った通りには、民家の塀が立ち並ぶ。そのセージグリーンの塀の続く目立たない場所に、看板が出ていた。その名も『シークレット・ガーデン』。
(あの子が言っていたのは、たしかにここのはず……よね)
 蔦の絡みついた門扉を開けて、フローライトは中に入った。そして息を飲んだ。
(あ、ここはゲームの中でも出てきてた……あのカフェね!)
 門の狭い道を通った先には、花の咲き乱れる庭、そしてその奥にケーキ屋さんが佇んでいたのだ。庭に広げられたカフェ席の、水色のパラソルに覚えがある。あっけにとられていると、そのパラソルの下から声がした。
「フローライトさん、こっちですよ!」
 水色のパラソルとお揃いのようなパステルカラーのリボンを髪に結んだエミリエンヌが、嬉しそうに手招きをしていた。
「お待たせしてしまったかしら。ごめんなさいね、エミリエンヌさん」
 フローライトは軽く一礼し、ターコイズブルーのクッションが置かれた白い椅子に腰かけた。
「素敵なカフェね。よくいらっしゃるの?」
「はい、そうなんです。フローライトさんは、紅茶はお好きですか?」
「ええ、もちろん紅茶は大好きよ」
 エミリエンヌは嬉々としてメニューを広げ、フローライトに紅茶のお薦めを教えてくれた。すぐに黒いワンピースに白いエプロンのウエイトレスが、茶器と茶菓を運んできた。サーブされた深い紅色の紅茶には、薔薇の花びらが浮いていた。口に含むと、香ばしい茶葉と薔薇の香りが溶け合って、やさしく喉へと落ちていく。
「……美味しいわね」
「ここのローズ・ダージリンは是非フローライトさんに召し上がっていただきたくて……! こちらの白桃とフレッシュクリームのタルトもとっても美味しいんですよ!」
 心からの善意で彼女が語っている事がわかったので、フローライトは微笑んでお礼を言った。
「ありがとう。久々に、ゆっくり自分のためだけに紅茶を飲んだ気がするわ」
「いつもお忙しそうですものね。講義が終わったあとは、いつも早足でどこかへと向かっていらっしゃるもの。もしかして、文化祭関係ですか?」
 そういえば、そろそろ文化祭だと学院の誰かが言っていた。
「私は転入して間もないし、文化祭の事はよくわからないのだけど……少しはしたない事をしていましたわね。今後はもう少しゆっくりと歩くようにいたしましょう」
「いえいえ、そんな! いつも凛としていてかっこいいなぁ、って思っていたんです。学院の文化祭はとっても盛り上がるんですよぉ。私も今年は、ブライアン様をお誘いしようと思っていて」
 ぽっと頬を染めながら、彼女は言った。どうやら二人の仲はつつがなく進行しているようだ。
「それは素敵ね。仲が良いのはなによりよ」
 にっこりとそう言ったフローライトに、エミリエンヌは無邪気に聞いた。
「フローライトさんは? 例の彼とは、上手くいっているんですかっ?」
「そ、そうねぇ……」
 フローライトの目線が宙を泳ぐ。同居生活を始めて半月以上経った。最初の事よりは、シグルの態度は柔らかくはなったと思う。
 けれどそれは、カチコチのレンガが、木材に変わったくらいの変化でしかなかった。
(引き続き、警戒はされているし……なんというか、心を開いてくれている感じはない、ような……)
 しかし、一つだけわかった事がある。アンバーを助けたあの日、彼の態度は少し変わったのだ。木材並みに固いけど、フローライトが一緒に居ても、嫌がったり怒ったりはしないようになった。ときどき冗談を言って、フローライトをからかいさえする。
(あ、あんな風に、目を覗き込んだりして……っ)
 しかし、それ以上の事はなにもない。現状、一緒に登校し、食事を摂るだけの仲と言っていい。エミリエンヌとブライアンのように、恋人とはとてもじゃないが言えない。
(けれど、前みたいに私を嫌がらなくなっただけ、進歩……よね?)
 うぬぬと考えこむフローライトを、エミリエンヌが心配そうにのぞき込んだ。
「どうかしましたか?」
「い、いえいえ! 何でもないのよ」
「もしかして……何かお悩みになっているとか?」
「そんな事ないわ。悩みなんてないのよ」
「でも……無理なさっているんじゃないかって、思います。私でよかったら、話すだけでも……!」
 うるうるとした目で見つめてくる彼女は、ただただ純真だ。しかしシグルの事を言うわけにもいかない。フローライトが話をそらそうとしたその時、パラソルの影からにゅんとアンバーが飛び出して机に乗った。
「きゃあ!」
 エミリエンヌが驚いて、可憐な悲鳴を上げた。フローライトは慌ててアンバーを抱きとった。
「ごめんなさい、驚かせて。私の猫なの」
「え……で、でもこれって、影猫……!」
 恐れるその目を見て、フローライトは少し悲しくなった。
(心優しいこの子すら、影猫の事を嫌っているのね……)
 アンバーを撫でながら、フローライトは説明した。
「ええ、そうよ。でもね、影猫は皆が言うほど、悪い生き物じゃないのよ。むしろ、人間の役に立つ賢い生き物なの」
「そう……なんですか?」
「ええ。どんなペットよりも、賢いわ。ひっそりとしていて、とても静かだし。それに可愛いのよ。なんで皆が嫌っているのか、わからないわ……」
 フローライトの膝を抜け出して、アンバーはテーブルの上の空いたスペースにちょんと座った。看病のかいあって怪我は完治し、今はこうして常にそばにいるようになったアンバーを、フローライトはとても可愛く思っていた。
「エミリエンヌさんも、怖いと……そうお思いになる?」
 頭を撫でると、アンバーはごろんとテーブルに横になった。パラソルの下でまどろむその姿は、まさに絵になる姿だった。エミリエンヌの視線が、じっとアンバーに注がれる。
「いいえ……こうして近くでちゃんと見ると、たしかにそんな怖い生き物には、思えない気がします」
「でしょう?」
「私も撫でてみて、いいですか?」
「もちろん」
 エミリエンヌはおそるおそる、アンバーの顎を撫でた。するとその手に、アンバーがちょんと前足をのっけた。
「わ……ふわっふわ……」
 エミリエンヌの顔が、思わずほころぶ。その時、アンバーが一声鳴いた。
「うにゃーん」
 エミリエンヌのアンバーを見る目は、先ほどとは変わっていた。目を見開いて、唇はわなわな震えている。そう、これはフローライトもよくする表情だ。
「か、か、かわいい~~~~ッッ」
「そうでしょう、そうでしょう」
「こ、こんなに可愛いんですね、影猫って……! 知らなかった。恥ずかしいです」
「いいえ、無理もないわ。害獣として広められてしまっているもの。この子もね、最初は人間にいじめられて怪我をしていたの」
「そんな……! なんて可哀想に」
 アンバーを撫でながら憤るエミリエンヌを見て、フローライトはぽつりとつぶやいた。
「私の悩みは、強いて言えばそれかもしれないわ」
「アンバーが怪我していた事、ですか?」
「そう。影猫を傷つける人がいなくなればいいのだけど。どうすればいいかしらね……」
「……皆、影猫が可愛いって事を知ってくれれば、傷つける人も減りますかねぇ?」
 頬杖をついて、二人はため息をついた。その時フローライトは、ピンときた。
「そうだ、さっきあなたがおっしゃってた、文化祭……」
 そう言われて、エミリエンヌもはっとした。
「そっか、大勢の人が来る文化祭で、影猫の催しをすれば……!」
 フローライトはうなずいた。
「アイディアをありがとう、エミリエンヌさん……!」
「いいえ、私の方こそ……! お手伝いさせて、いただきますわ!」
 二人の視線が、がっちり合わさった。初めて、二人は同じ気持ちであった。

(――つづきは本編で!)

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