おじ様官能小説家に甘く愛執注がれて~鎌倉蜜事カフェテラス~

おじ様官能小説家に甘く愛執注がれて~鎌倉蜜事カフェテラス~

「君が抱えてる何もかもを、これから僕が抱いてあげる」

あらすじ

「君が抱えてる何もかもを、これから僕が抱いてあげる」

幼い頃に読んだ未完の物語に憧れて、鎌倉にカフェを開業することを夢見る、元OLの久里子。彼女が出会った官能小説家の光樹は、同じ物語に憧れてカフェ投資を始めた投資家でもあった。

彼は古民家カフェにお誂え向きの空き家を、鎌倉の一等地にある土地ごと譲ってくれると言う。だが彼の出した条件は、新しい官能小説のモデルにするための、半年間の擬似夫婦関係で…

作品情報

作:小野氏ときよ
絵:フォクシーズ大使

配信ストア様一覧

本文お試し読み

◆十月三十一日十七時、夢の夕暮れ

「どうして、しちゃったんですか」
 黄昏の夕紫に浸っていく遠い江ノ島の海を、ぼんやりと眺めていた。背中から私を抱く彼が、私から屹立をゆっくり引き抜くのを、ひどくはっきり感じていた。ぴち、と卑猥な音がしてすぐ、自分のそこから重みのある液体が、ぬるりとひと筋溢れて垂れていった。
「どうしてだと思う」
「質問に質問で返すなって、いつも言うの、光樹さんじゃないですか」
 絶頂の余韻で、まだくらくらする。汗と涙とでにじむ私の目を、彼はまっすぐに見つめていた。
「久里子が思ったことを聞かせて」
「ひどい、としか」
 アカシヤのガーデンテーブルを並べて開店を待ちわびる、私たち以外誰もいない、秋の終わりのカフェテラス。契約通りに私を抱くだけのはずだったのに、彼は避妊具を外したまま私を貫いて、自分の胸の中へ私を押し込めるように強く抱きしめながら、そのまま注ぎ込んでしまった。
 初めてのことだった。背中から抱きしめられて、首筋に甘く歯を立てられて、逃げられなかった私も私だ。何より、この人なら、と思っていないわけでもなかった。
「そうだよね。ごめん」
「ごめん、って」
「もう終わりかって思ったら、今絶対に僕のものにしなきゃ、と思ってしまったんだ」
 普段は飄々と、汗ひとつかかずに私を弄ぶような人なのに、フランネルシャツの前のボタンを、珍しく三つも開けている。五十手前の歳にしては肉の少ない、うっすら骨の浮いた胸板のひやりとした肌触りを頬で感じるのが、少し好きだった。
 それなのに、今日だけはひたすら身勝手に、彼は私の体の奥を穿ち続けた。まるで何かに追い立てられるように怯えて、焦って、私の中を掘り進んで、果てたのだ。
 今もまだ熱に浮かされたような潤んだ目が、私を縛り付けて離さない。
「君が欲しいんだ、久里子。もう、契約だなんだってごまかすことはしない。ずっと君を僕だけに、愛させていて欲しい」
 喉の渇きに少し咳き込みながら、彼は私をまた抱きすくめる。その言葉は私が欲しかった、そのままだ。でも。
「本当に……そうなんですか」
 彼の心がその言葉通りだと、今の私は受け止めることができなかった。
「誓うよ」
「誓ったら誰か保証してくれるんですか」
「言うね」
 私は彼を肘でぐっと押しのける。離したくない、とばかりにまた、長袖の腕が私を捕まえようとしたけれど、私が本気で離れたがっているのを察して、ようやく手を解いた。テーブルナプキンで、濡れた内腿を拭う。おろし立てのカフェエプロンも、脚で挟んだ時に汚れてしまった。
「きっとあなたといれば、ここを私が夢見た素敵なカフェにできると思います。それは本当に、感謝してます。でも」
 まだほのかに疼きの残った自分のお腹に、私はブラウスの上から手を当てる。ついさっきまで、ここに彼の先端が届いていて、熱い迸りを残していった。ほんの数グラム、自分の重さが増えただけのはずなのに、なんだかひどく硬くて重い楔を打ち込まれたような感覚に陥る。
「他の人にも、こんなことをしてきたんですか?」
「違う、するわけない」
「じゃあどうして? 契約違反ですよね、これ」
「だから言ってるじゃないか。僕は君を」
「本当にそれ、私ですか」
 聞き返された光樹さんが、はっと何かを察し言葉を詰まらせた瞬間、私はぐっと胸が苦しくなった。ああ、なんだ。やっぱり、私じゃないんだ。
「そうだ、君だ……久里子。どうしようもないんだ、君しかいないんだ、僕には」
 喉から絞り出すように、彼は私の名を口にする。まるで死を目前にしたかのような、追い詰められた表情で。でも、きっとこの人は別の誰かの名前を、心の中で呼んでいるに違いない。違いないのに、そうであって欲しくはない。吐き出せないこの矛盾を彼が消し去ってくれるまで、私は彼を拒まざるを得なかった。そのはずなのに。
「どうすれば信じてくれる?」
「どうすれば私が信じられると思いますか」
「質問で返さないでくれ。教え……」
 言いかけて、彼は口を噤んだ。出会って今日までの半年と少しの間に、私が素直に言ってあげられる女ではないことを、彼はもう知っているからだ。
「答えてくれないんでしたら、やっぱり契約通り、今日で終わりの方がいいと思います、光樹さん。今のことだけは、なかったことにしますから」
 ブラウスのボタンを直して、背中で彼の視線を断ち切って、ずれてしまったテーブルと椅子の位置を直す。今は彼の顔を見られない、見たくない。
 私が頑ななことを察した彼の、ため息が聴こえた。肩をすんと落とした気配がした。
「しないでくれ、頼むから」
 彼はそう言い残して、テラスから出ていった。ガラスの引き戸がとん、と閉じて、一人残された私を、ひゅ、とつむじ風が包んだ。
 首筋に残っていた汗が冷える。ふる、と体が震えて、身を縮ませる。
 出会った頃には青々としていた源氏山公園の木々は、瞬く間に紅く燃え尽きて、もう見頃も終わる。
 彼の愛執の在り処は、本当に私なのだろうか。
 その問いに私はまだ、自分でそうだと答えてあげることができない。彼を素直に信じることができない。私はひとりまたテーブルに伏して、溢れそうな涙をブラウスの袖で、何度もぎゅっと抑え込んだ。

◆三月一日二十時半、きっかけ

「カフェ専門の投資家さんがいるよ。鎌倉には」
 西武新宿駅近くのバーの、小さな異業種交流会で、藤沢先輩は私にそんな話をしてくれた。木暮久里子(こぐれくりこ)、と自分の名前だけ書いたカードを首から下げて、壁際で盛り上がる人たちを遠巻きに眺めていたその時だった。
「そんな人いるんですか」
「若宮大路とか由比ヶ浜とか片瀬江ノ島とか。その人の出資でお店開いた知り合い、結構いるよ」
「いいところばっかりじゃないですか。そんな資産家なんですか」
 こういう場は初めてで、それでもせっかくなのだからいろんな人と話そうと、濃いめのソルティードッグで人見知りを抑え込もうとはした。でも誰も彼もが、私がカフェ開店の話を少し口にするや否や、ビジョンやらビジネスやら、ありがたい熱弁をふるって下さった。ご高説を右から左に通すのにも疲れてしまって、結局は自分をここに誘ってくれた、職場の元先輩の彼女と話すばかりだ。
「私は横浜って決めてたから出資してもらえなかったけど、鎌倉に店を持ちたいなら、久里子ちゃんも会ってみたら」
 そういう彼女は一昨年、一緒に勤めていた旅行代理店を寿退職し、横浜の新興住宅地域の近くで自分のカフェを開いた。ご主人とのスイートホームを兼ねた、テラスつきの素敵なログハウスだ。さすがに彼女一人の貯金だけでは実現できず、二人の蓄えと地元の信金からの融資を受けて、晴れて夢を叶えたのだという。
 一緒に働いている頃から、彼女の仕事や振る舞いは地に足がついていた。頼もしい人だと今も尊敬している、そんな先輩が言うのだ。鎌倉でのカフェ開業専門の投資家だなんて、今の私にとってひどく都合のいい存在のことも、微塵も疑う気にもならない。
「どんな人ですか」
「エロ小説家」
「え……えっ?」
「新幹線のホームの売店とか、結構あるでしょ。官能小説ってやつ。人妻の媚肉がどうとか、義妹がどうとか、みたいな」
「あ、あったような気もしますけど」
「あれで食べてるって言ってたけど、ペンネームは教えてもらえなかったわね。あ、待って」
 藤沢先輩はスマートフォンを取り出して、すいすいと操作する。すぐに私のスマートフォンからぴぃん、とメッセージの着信音が鳴って、名刺アプリのスクリーンショットらしき画像を送ってくれた。
「……仰木光樹(おうぎみつき)さん、ですか」
 今時珍しい、白地に縦書きの明朝体の、素っ気ない名刺。屋号は「キャンドルライト」、肩書きは代表。あとは名前と住所と、電話番号の代わりにメールアドレスだけ。
「五十かちょい前くらいの、なんかいかにも出版関係です~みたいなおじさん。まあまあいい人だよ。鎌倉でカフェやりたい知り合いがいたら紹介してって言ってたから、私からって言って、連絡してみたら」
「ありがとうございます! やっぱりすごいなあ、藤沢先輩」
「んふ。久々聞いたわね、それ」
 職場でもさんざん私が言っていたフレーズに、藤沢先輩はくすぐったそうにはにかむ。始めての異業種交流会唯一にして最大の収穫は結局、旧知の仲の彼女から得られたものだった。異業種交流なんて必要なかった、なんて思ったけれど、それでもこのつきあいがきっかけで話が進んだのかもしれないのだから、この場には感謝しなければならない。
「でも一応気をつけなよ、木暮さん」
「気をつけるって、詐欺とかですか」
「それもだけど。だって」
 先輩は一度視線を天井に逃がして、ちょっとの間言葉を選ぶ。それから。
「鎌倉でカフェやってるのって、若い女の子、結構多いじゃない」
 何故だか私の足から顔までを目でなぞり上げて、くす、と笑った。

◆三月四日十三時、出会い

 三角屋根の鎌倉駅西口の、小さなタクシーロータリーからは、平日の穏やかな昼下がりも、外国人観光客を乗せた人力車が軽快に駆け出していく。
 若宮大路や小町通りにつながる東口の、いわゆる観光地的なにぎやかさと対照的に、西口のあたりはひっそりと静かなものだ。一見するとその景色は、どこにでもある郊外の町のそれと変わらないが、源氏山を背負った御成町の住宅街や、長谷へと伸びていく細い街道を歩いていくと、現代とかつての時代の合間にたたずむ古都らしい空気感がゆっくりと楽しめて、私は好きだった。
 藤沢先輩に紹紹介されたその人にメールで連絡を取ってみると、鎌倉商工会議所の隣にある瓦屋根のカフェで、十三時に待ち合わせることになった。
 ゆったりとしたフランネルシャツに、短く刈り込んで整えた白髪頭。銀の丸い眼鏡の下に、切れ長の目元に浅い皺を寄せて、テーブルに立てた小さなタブレットとじっと睨めっこしている。
 官能小説家で、資産家。藤沢先輩からもらったキーワードだけで勝手に思い描いていた、ブランドのスーツをギラギラギトギトさせた金持ちおじさんのイメージは、そのひと目で消し飛んだ。職場に何人かいたくたびれたおっさんでもなく、紳士というほど近寄り難いわけではない、なんというか、まともなおじさん。ひと目でそんな第一印象を私に植え付けたその人が、仰木光樹さんだった。
「お世話になります、木暮久里子と申します」
「くりちゃんね。仰木です、どうぞよろしく」
 力の抜けた笑顔で私の名刺を受け取ったその人は、ものの一秒で私をそう呼んだ。見た目以上に、良くも悪くもフレンドリーな人。馴れ馴れしさに絆されないよう、私はつい身を強張らせてしまったけれど、そんな緊張に気づきもせず、その人は線の細い頬骨を上げて、人懐こく微笑んだ。
「ありがとうございます、お忙しい中」
「ううん、忙しかないよ。ちょうどこの店、そろそろ冷やかしに行かなきゃなーって思ってたところ。ココアでいい?」
「ココアですか」
 急な質問に面食らって、私はそっくりそのまま聞き返してしまった。そして、
「うん。いずみちゃん、ココア二つ」
 仰木さんは返事も待たず、この席へ通してくれた店長らしき女性をそう呼んで、注文を決めてしまった。マイペースな人だな、と思いながら、私は促されるまま向かいの椅子に腰を落ち着けた。
「お好きなんですか、ココア」
「うん。僕の好きないい塩梅の甘さで淹れてくれるから、重宝してるよ」
「この人、コーヒー飲んでくれないんですよ、喫茶店なのに」
 店長の女性、いずみさんはそう言いながらも、まんざらでない顔だ。
「でも、ココア飲む人多いでしょ」
「不思議とね、そうなんですよ」
「不思議じゃないよ。向かいでも隣でも散々コーヒーなんか飲んでるんだろうから、ちょっと違うの用意してやったほうが喜ぶんだよ」
 他のテーブルを見回すと、確かに揃いの名札を首から下げた人が多い。向かいの区役所や隣の商工会議所の職員さんたちが通う、憩いの場なのだろう。
「ひょっとして、ここも仰木さんが」
「そ。もう五年くらいやってる?」
 おかげさまで。と小さく頭を下げた店長さんは、カウンターでご主人からピザを受け取って、山側のテラス席へ運んでいった。
 仰木さんはその様子を、嬉しそうに目を細めて見守っている。眼鏡をちょんと乗せた鼻の線が綺麗で、私は何となくその横顔に、じっと見入ってしまっていた。
「藤沢るみちゃんの紹介だっけだっけ。あの子のお店は順調?」
「あ、はい、順調みたいです。会うたびに、面白いお客さんの話ばっかりで」
「そっか。あの子ならどこでやっても上手くやれそうだよね。よろしく言っといてよ」
 藤沢先輩のことを褒められて、あ、いい人だ。なんてあっさり思ってしまう。
「で、君は鎌倉(ここ)でお店やりたいの」
「はい」
 本題だ。私は椅子に座り直し、背筋を正す。
「予算は?」
「一千万はありますけど、少しまだ不安があって」
 隠すことなくそう言うと、仰木さんは目を丸くして驚いた。
「貯めたね。まだ君、三十もいってないだろう」
「いってますよ、三十二です。ずっと実家にいさせてもらえたので」
「あ、そう。若く見えるね。結婚は」
「特にまだ予定は」
「そう。あ、ごめんね。立ち入ったこと聞いちゃって」
「いえ。藤沢先輩みたいに夫婦二人でっていうのも、いいなって思ってましたから」
 なるほどね。頷いた仰木さんは、ふっと画面が光ったタブレットに視線を落とす。メールかメッセージが来たのだろう。「ちょっとごめんね」と言って、画面のキーボードをたかたかと叩いてから、また横のボタンを押して画面をスリープに落とす。すると、何秒もしないでまた画面が点いて、またたかたかと一言二言返す。
「もう。ごめんね、鬱陶しくて」
と、すまなそうに肩をすくめた仰木さんは、タブレットのカバーを閉じて裏返してしまう。
「いいえ。お忙しいところ、私こそ」
 そう返しながら私は、さてどう切り出せばいいものかと、まだ言葉をまとめあぐねていた。
 およそ必要な額とその内訳は考えてあったから、その通り、あと一千万円お願いできませんか、と率直に切り出してみるべきか。それとも、いくらくらいがお願いするのに適当なのか、姿勢だけでも話を伺ってみたほうがいいのだろうか。何しろ、仕事で旅行プランを探す見込み客から予算を聞き出すのとは、比べ物にならない額の話だ。
 もう少しタブレットの相手をしていてくれないかな、と思いかけたところで、
「で、あといくらいりそうって考えてる?」
 なんと仰木さんのほうから、話を本題に進めてくれた。
「あと一千万はあったほうが、と思ってます」
 へえ、と仰木さんは目を丸くした。
「居抜きで小さく始めるなら、鎌倉(ここ)でも一千万で何とかならないわけじゃないけど。結構大きなお店考えてる?」
「ええ。どうせならずっと長くやっていきたいので、自宅も兼ねられるような物件を探したいなって」
「終の住処って感じ? まだ早いんじゃないの」
 仰木さんは眼鏡のつるを持ち上げて、興味ありげな目で私をじろりと見つめた。私は曖昧に笑って、その質問に答える気がないことを意思表示した。それをすぐに察してくれた仰木さんは、ふふ、と何故か楽しそうに笑って、眼鏡の位置を戻した。
 ちょうどその間を見計らったように、ココアが二つテーブルに届いた。どうぞ、と仰木さんに言われるまま、湯気を吹いて唇をつける。何年振りかも思い出せない、きめの細かなショコラの甘さが、舌をなめらかに包む。
「ほんとに美味しいですね、ここのココア」
「でしょ。店開ける時に僕、言ったんだよ。ココアメインの喫茶店にしなさいって」
 それはさすがにどうだろう、と思いながらも、二口、三口とココアが進んでしまう。チョコレートスタンド形式のお店は、鎌倉にまだなかっただろうか。とはいえ、お役人さんが通う立地のお店としては、少し新鮮さが過ぎる気もするけれど。
「銀行ほどじゃないけどね。どんな風にやっていくつもりでいるのか、ちょっと聞かせてはもらってるし、ちょっと言いたいことある時は言わせてもらってる」
「もちろん、ぜひご助言頂ければと」
「そうね。でもここはいいけど、僕がお手伝いしたお店も、半分くらいは閑古鳥が居着いちゃってね。さっさと店閉めて、挨拶もなしに鎌倉を出ていっちゃった。こことか、もう半分くらいは順調に続いてて、貸したぶん以上にしっかり返してくれてるから、まあとんとんじゃないかな」
「畳んじゃったお店、だいたい仰木さんの言うこと聞かない子たちのところばっかりじゃないですか」
 店長のいずみさんは通りすがりに、というよりわざわざ私たちのテーブルに立ち寄って、そう言い残していく。きっと私の事が気になるのだろう。これから彼の出資を受けようとする後輩でもあり、場合によっては商売敵にだってなり得るのだから。
「ふふ、どうだろうね」
 含み笑いを挟んでから仰木さんは、
「で、なんで鎌倉なのかな」
 私の顔をまっすぐに見て、問いかけてきた。
 正念場だ。もう一口ココアを喉に通してから、頭の中に用意しておいた説明を始めようとした。
 でも、そこへ。
「あ、将来性とか収益性とか、そういうのいいからね。インバウンド需要がとか市の財政改革計画を見込んでとか、それ本気で考えてるならそもそもカフェなんてやらなくていいんだから」
 仰木さんはさらりとそう言って、私の頭の中の御託をあっさり吹き飛ばしてしまったのだ。
 豆鉄砲を食らった鳩の顔が、仰木さんの眼鏡に映っていて、私は、
「そうですね……ふふ、そうですよね」
 と、込み上げるまま笑って、そう言うしかなくなってしまったのだ。
「でしょ?」
「ええ」
 仰木さんはなんの意地悪のつもりもなく、ただ本気でそう言っただけみたいだった。それでも、上っ面の説明でどうにかしようとした自分の浅はかさに気付かされて、可笑しくなってしまった。何してるんだろう。ついこの間、交流会で自分がうんざりしたばかりなのに。
 少しの間、ふふ、と奇妙に笑いあう時間が続いた。看破した側とされた側の、あざやかなワンサイド・ゲーム。ひとしきり笑った後で私は、正直に言うしかないや、と思った。
 そして。
「あの、笑わないでもらえますか」
「くりちゃんだって笑ってるじゃない」
「いえ、そうじゃなくて。きっと笑われちゃうような理由だから、誰にも言ったことないんですけど」
 仰木さんは微笑んで、
「聞かせて」
 と言った。この人になら小馬鹿にされても仕方ないや。そう思ったのと同時に、きっと馬鹿にはしない人だ、と安心も覚えてしまったのだ。
 ココアのマグの暖かさを、両手から胸に伝えながら。
「学生の頃に、『夢の夕暮れ』って本を読んだんです」
 私がそう言うと、ぴく、と仰木さんのまぶたが動いた。
「……あったね。『夢の夕暮れ』」
「ええ、ドラマにも映画にもなって。ヒロインも偶然同じ名前で、すごく思い入れあって。ご存知なら、もうおわかりですよね」
「ああいうのか。なるほどね」
 仰木さんは言葉少なにそう言うと、目を伏せて、頭の後ろを小さく掻いた。
「大好きなんです。今でも続き、出ないかなって思ってて。作者さん、もう書いてないみたいなんですけれど」
 私が言うと、仰木さんは何故だか肩を揺らしてふふ、と笑った。
「いや、ごめんね。現実的な子なのかな、って思ってたところに、夢みたいな話が出てきてさ。ごめんね、馬鹿にしてるわけじゃないんだけど、面白くて」
「でも、仰木さんのところにも、結構来たんじゃないですか。私の歳くらいで、あの本読んで、鎌倉でカフェやりたいって思った人」
「思っててもなかなか言えないんじゃないかな、そんな乙女みたいなこと」
 乙女、という言葉選びも、馬鹿にされた感じはしなくて、
「そうかもしれませんね」
 素直にそう肯定できた。
「お店のイメージもあんな感じかい。鎌倉高校前の、高台の」
「いえ、海辺は何かと維持費が大変らしいので、もうすこし奥まったところで静かにやっていきたいなって。サーフィンや観光の人よりも、地元の人に使ってもらえるような」
「そこは意外と堅実なんだ。ま、この若さで普通のOLさんで、しっかり一千万貯蓄できるならそうか」
「『夢の夕暮れ』のあの人は、わりと場当たり的に動く人でしたけどね」
「そうだっけ。覚えてないや」
 私もまた笑いながら、『夢の夕暮れ』を知っている人に出会えて、途端に緊張が解けている自分に気づいた。
「僕のところに来る人、みんな揃って将来性がどうのとかインバウンドがどうのって、頑張ってプレゼンしてくるわけよ。もういいのにね、そんなの。普段は黙って聞いてあげてるけど」
「私もそのつもりだったんですけど、仰木さんに全部吹っ飛ばされちゃいました」
「だと思ったよ。でも、素直に教えてくれた。その……」
 話し始めてから初めて、仰木さんはココアを手に取る。
 そして、白とチョコレートブラウンの泡を眩しげに見つめながら、
「あこがれに生きる女の子ってこう、ときめくじゃない。君みたいにさ」
 そう言って、恥ずかしそうにはにかんだ。まるで、初めての恋を告白する、少年みたいな顔で。
 二人してココアをちびちびとすするだけの、静かな時間が少しあってから。
「ひとついい物件があるよ。古民家カフェなんて興味ある?」
 唐突に切り出した仰木さんは、タブレットをひょいと手にして、いくつか来ていた着信通知をスワイプで取り払ってから、おもむろに地図アプリを立ち上げた。
「いいと思います。どんなのでしょう」
「源氏山の西側、街から少し登ったところでね。華やかな通りじゃないが、ここらへんの人が使う生活道路沿いに、空き家を持ってるんだ」
「ハイキングコースに続いてるあたりですか」
「そうそう。そこ、あげるよ」
 にこ、と笑う仰木さんに、私は再び目を丸くさせられた。
「え、あげる? え、あの、譲渡って意味で、ですか?」
「そ」
「敷金礼金、家賃もなし。ちょっと古いから、内装とか設備整えるのだけ、ちょっと多めに初期費用見といたほうがいいけど。運転資金はだいぶ抑えられるでしょ」
 仰木さんは画面の上で、細くて長い指をすいすいと動かす。観光客と地元住民らしき人が行き交う、大きめの民家の間を走る路地の写真をアップにする。
「あ、あの。ただでもらうなんて」
「ダメ? ただじゃ気が引ける?」
「引けるっていうか、急になんでそんな」
 仰木さんのあまりに唐突な言葉に、綺麗さっぱり片付けられたはずの頭の中がまたごちゃごちゃと散らかってしまう。譲渡? 寄付? 税金とかどうなるの?
 考えもしなかったさまざまな疑問や想像が、頭の中でぐるぐると巡る。でも、それもまた仰木さんの次の一言で、真っ白に消し飛んでしまったのだ。
「そ。じゃ、僕と結婚しよう」
「……は?」

――つづきは本編で!

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