冷たい瞳の熱情~年下眼鏡社長は愛を迫る~

冷たい瞳の熱情~年下眼鏡社長は愛を迫る~

「貴方に男として見られていないのは、面白くないですね」

あらすじ

「貴方に男として見られていないのは、面白くないですね」
 不動産会社勤務の皐月をクレーマーから助けてくれたのは、銀の眼鏡の下に冷たい瞳が光る青年、新だった。
 年下にもかかわらず会社を経営し仕事に打ち込む彼に、いつの間にか惹かれていく皐月。
 だが紹介した物件を契約する手続きの最中、激務に疲労していた新は眩暈を起こし倒れてしまう。思わず看病せずにいられなかった皐月は彼を……。

作品情報

作:篠原愛紀
絵:まりきち

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本文お試し読み

■ プロローグ

「何か勘違いしてますよね」
 彼の大きな手が私の手首を掴む。
 彼の射貫くような真っ直ぐな瞳に、息を飲んだ。少しだけ、彼が怖いと思ってしまった瞬間、彼の口が小さく開かれた。
「僕は、貴方の弟ではないので」
 小さい吐息のように零れた言葉と同時に、彼の顔が近づいてくる。
「貴方に男として見られていないのは、面白くないですね」
 銀色の眼鏡のフレームが淡く光る。ストイックな眼鏡の奥の瞳が、情熱的に私を見ている。
「先にお節介と称して、僕の心の中に飛び込んできたのは貴方ですから。僕から逃がすつもりはないです」
 いつもは冷静で落ち着いたトーンの声だったのに、今は違う。
 私の心に絡みついてくるような情熱的な真っ直ぐな声で、私は彼の言葉で胸を熱くさせてしまっていた。
「つまり」
 これ以上聞いていたら、私の心は爆発してしまう。ぎゅうっと目を閉じた私の耳元で彼は、追い打ちをかけるように甘く囁いた。
「僕は貴方を女性として、口説こうとしています」
 こんな展開は、予想外だった。
 ただ私は、お節介で可愛げなんてない、モテない分類だと自覚していたから、驚いて言葉が出ない。
 それ以上に、甘く私の心を震わせる彼の言動全てに、心も体も金縛りがあったように停止してしまっていた。

■ 一、夏と恋の始まり。

 夏の始まりを強く感じた日だった。
 冷房の効いたオフィスから外に出ると、むわっとした熱気と肌をじりじりと焼く太陽が襲ってくる。蝉の音までセットで、私に不快感を与えてくる。
 夏は嫌いではないはずが、一度、冷房の中の快適さを知ってしまえば、一歩も動きたくないわけで。
 営業の社員が出払い、予約のお客様まで時間がある今が一番幸せな時間だ。
 今日の報告書と広告に載せるラインナップの確認、メールや電話の問い合わせを見ながら予約リストを作るぐらいで、時間に余裕がある。
 女性のお客様の案内は原則女性スタッフと決まっているのだけど、今日の予約リストには女性がいないので私は事務に専念出来る予定だ。
「紀南《きなん》さん、今手が空いてますか?」
 事務所にパタパタと駆けこんできたのは、新卒の入社一年目の可愛い後輩、末継美真理《すえつぐみまり》。
 頑張って泣くのを堪えていたのだろう目が真っ赤なウサギのようになっていた。
 お茶の葉やお菓子の補充の買い出しをお願いしていた彼女が裏からではなく、事務所の正面から帰ってきたことにも驚いた。
「大丈夫ですよ。どうされました?」
「クレームです。借りたテナントの騒音がーってすっごい剣幕で怒っていて」
「電話?」
「事務所に来てるんですう」
 なるほど。事務所内を見ると、ほぼ出払っていて対応できるのが私だけ。
 あと数十分待てば誰か戻ってくると思うけど、待たせてもいい結果にならないことは分かっている。
「分かった。私が対応するから、お茶頼むね」
「すいません。おねがいしますう」
 末継さんが、慌てて扱けそうになりながら、給湯室へ走っていく。
 重いため息を吐きながら、大きく深呼吸をした。
『神山商事不動産』
 お堅い名前まんま賃貸や管理が主だけれど都内に数店舗事務所を抱えている不動産屋。ビルのテナントやオフィス街のカフェ、バーなどのテナント管理もしている。
 私の叔父が本社で務めているツテで、事務所で働いていて主に電話の対応やデータの管理をしている。
 カフェやオフィスのテナント案内は、広い上に家賃が高額なのでお客様も慎重に決めるので、時間がかかるがこちらも優秀な営業スタッフで相手が安心、信用してくれるよう誠心誠意をこめて対応していると思う。
 ので、騒音苦情は初めてのことだった。
「遅くなってすいません。お話をお伺いします、紀南皐月《きなんさつき》と申します」
 頭を下げつつ待たせていたお客様の方へ駆けよる。
 お客様は、中年の男性で不機嫌そうに手を組んでふんぞり返って座っていた。ギラギラしたネックレスや光沢あるシャツ。こちらを侮蔑した、こき下ろすような視線に緊張が走る。
 急いで目の前のパソコンに自分のIDを打ち込み、立ち上げる。
「責任者はあんたか。管理人と直接話がしたいが、繋がらねえんだよ」
「今確認しますので、お住まいの住所と建物名を教えていただけますでしょうか」
「あー、あっこ。あのぼろい建物」
「お名前を――」
「木下政文」
 足を組み替えながら不機嫌そうなため息を吐く声が聞こえてくる。
 これはかなりお怒りではないだろうか。
 名前と住所を入力すると、データが出てきた。三日前にテナントを借りている方だ。ビリヤードバーの経営で、テナントを案内したのはベテランの男性。とにかく安いテナント希望で、こちらを借りる時にも値下げをかなり強く交渉されている。
「確認が取れました。それでどのような騒音でお悩みなんでしょうか」
「下の階の騒音だよ。こちらはビリヤードしつつお酒を飲む静かなバーを目指してんの。下の階にクラブがあって、爆音の振動がうるせえんだよ。この家賃で違うテナントに変えてもらう。そちら側の通達ミスだろ」
 私は実際にこのビルを見たことはない。壁がどれぐらい薄いのかもわからないけれど、このビルで騒音クレームはこれが初めて。それに、備考欄に『上下のテナント、騒音説明済』って書いてる。説明された上で、説明したスタッフがいないか確認してから事務所に怒鳴り込んできたのではないかなと邪推してしまう。
「すみません、お茶をお持ち致しました。あとこれ祖品です」
 末継さんがナイスタイミングでお茶と、祖品のシャンプーセットを持ってきた。
「承知いたしました。では担当と管理人にまずは確認させます。他のテナントを探し直したいとのことですが、そのままの希望額では難しいですね。交渉は致しますが」
「そっちの不備なのにか」
「はい。申し訳ありません」
 備考欄に要注意人物の旨を入力しながら、自分でも驚くほど冷たい声が出た。普段事務だからつい作り笑顔を忘れてしまう。
「あんなあ、姉ちゃん。誰しもおっさんが若い女に優しいと思ったら大間違いじゃねえかな」
「そうですね。では担当の者が帰ってくるまで待たれますか。折り返し電話させましょうか」
「おい、その生意気な態度を――」
 怒鳴られそうになった瞬間、正面の自動ドアが鳴った。
 一瞬、パソコンの時刻を確認すると予約されている五分前の来店だと察せられた。
「おい! 聞いてるのか!」
 来店されたお客様に気を取られたのが気にくわないのか、更に怒らせてしまった。
「すみません」
「――木下さん?」
 低く落ち着いた声。来店されたお客様がこちらへ向かってくる。
 ここは会社経営や起業したいお客様が多いので、年齢層が高い。なので若い人が来るのは珍しい。
 此方に向かってくる人は、まだ二十代だろう若い男性だ。彫刻に掘られそうな整った顔に、銀のフレームの眼鏡、ハイブランドのスーツ。
 この暑い中、汗も掻かず涼しそうな無表情の顔。思わず見とれてしまいそうな美形に、一瞬時が止まったように感じた。
 こんな場面ではなかったら、じっくり観察したいぐらいの格好良い、眼鏡の似合う男性だ。
 彼は木下様をじっくり見つめると、木下様がたじろくのが分かった。
 表情は変わらないけど、冷たく見下ろされているように私からは見えた。
「……木下さん、また起業されるんですね。その際はまたこちらにご相談ください」
「お、お、あ、おお」
 急に声のトーンが下がった木下さまは、しどろもどろになって視線を彷徨わせた。
 この若い男性は、木下さまの知り合いなのだろうけど、女性や若い人に偉そうな態度を取っていた木下さまが急に態度が変わったことが不思議だ。
「私は今から予約していたんですが、木下さんはもう少し掛かりそうですか?」
「あーいや、おい、どうなんだ」
 私へ助けを求めるように視線を向けてくるので、パソコンの画面を確認しながら、時間を確認する。
「担当の者がいつ帰るか分からず、帰ってから確認してお電話させていただく形でも大丈夫でしょうか」
「あ、ああ。それでかまわん」
「ご足労いただきましたのに、対応できずすみません」
「もういい。ただし、すぐに連絡してこい」
 木下様は立ち上がると、若い男性に挨拶もなく逃げるように出て行ってしまった。
 一体、何だったんだろう。
 嵐が過ぎてしまったオフィスは、しぃんと静まりかえったようだ。
「すみません。時間より早く来てしまいました」
 男性が腕時計を見ようと腕を動かした。
 仄かに香る香水まで上品で、話し方も丁寧で、第一印象もとても素敵だった。
「いえ。担当の者が来るまで、私が対応致しますね。少々お待ちください」
 席を立って、奥の給湯室へ行くと末継さんが肩を震わせていた。
「怖かった? ごめんね。上手くフォローできなくて」
 末継さんは縋るように私の方を見ると、何度も横に首を振った。
「私が怒らせちゃったんです。早口で喋るから分からないですぅって言って対応から逃げちゃったんで」
 四月に入ってずっと事務仕事しかしていない新人さんだ。クレームを言う方は、怒りの矛先を此方に向ける方が多いので、怒鳴られることは多々あるが末継さんは初めて。怖かったに違いない。
「大丈夫。気にしないで良いからね。あのお客様のお陰だし。末継さんは落ち着くまでここに居て良いからね」
 氷の入ったウーロン茶を用意すると、待ってくださっているお客様の元へ戻った。
「先ほどはありがとうございました」
 お礼を言うのが遅くなってしまったけど、お客様は怒っている様子はないものの顔色一つ変えない。
 彫刻に掘られたような整った顔は、眉一つ動かないので、本物の彫刻なのではと錯覚してしまうほど。
 けれど、その整った顔が私を射貫くように真っ直ぐ見つめてきた。
 ほんの二、三秒だったと思うけれど、私も息を飲むほど彼の目を真っ直ぐ見つめてしまった。
 切れ長の瞳は少しつり上がっていて、睨まれると怖そうだけど、少し伏し目がちに視線を逸らした瞬間、色気を纏わせて息をするのも忘れて見惚れてしまった。
「……いえ。木下さんの性格は、私の方がよく知っていますので」
「お知り合いなんですね」
「銀行員時代の担当です」
 銀行員。
 なるほど。品がいいし丁寧な物腰で、ハイスペックなのが窺える人だから、納得できてしまう。
 テナントやオフィスを探しに来る人が多いので、この方も起業されるのかもしれない。
 若いのに凄いなあ。
「お話中すみません。紀南さん」
 まだ目が少し赤い末継さんが、私の方へやってくる。
「担当の神田が、少し遅れるそうなんです。先に条件を聞いてもらってくださいって」
「分かりました」
 目の前の、眼鏡の男性の方へ視線を向ける。
 そして首から提げていたネームプレートをもう一度持ち上げた。
「担当の神田が来るまで、お話をさせていただきます。紀南皐月です。ご遠慮無くご相談ください」
 深々と一礼すると、目の前の彼も頭を下げてくれた。
「久下新《くげあらた》です。よろしくお願い致します」
 久下新さんかあ。礼儀正しい人だな。クールでストイックそうだ。
 お話を進めていくうちに、意外と彼は自分のことを話してくれた。
 銀行員で去年までニューヨーク支社勤務だったこと。そこで日本には輸入されていない海外の個人クリエイターの雑貨やブランドなどを友人に頼まれて買い付けしているうちに、意外と困ってる人が多いことを知ったらしい。
 それで今、海外の個人ブランドを纏めて日本で購入できるように、海外のクリエイターと提携して販売する輸入雑貨の通信販売会社『ALLEGURA』を立ち上げたらしい。
 話を聞いているうちに彼のハイスペックすぎる行動に驚いたのだけど、一番驚いたのは年齢だ。
 まだ彼は二十七歳らしい。
 私より二歳も年下で、こんな風に活動するなんて、尊敬を飛び越えて別次元の人に思えてしまう。
 弟と同じ歳のはずだけど、弟より百万倍はしっかりしている。
「ご相談内容をまとめて、担当にお伝え致しますね。それと、これは私の個人的な意見なんですが」
 久下さんの希望リストを印刷して、テーブルの上に広げた。
「通信販売ってことは配送作業がありますよね。この通りに運送会社があるので、自分で持って行くのも取りに来てもらうのもスムーズだと思います。持ち込みの場合割引があるんですよね」
 フリマアプリを使っている友達が、運送会社の近くに住んでいて、持ち込んだら安くなるって言っていた。
 すると彼の目元がフッと優しく緩んだような気がした。
「ありがとうございます。取引予定の運送会社が近いならそれはそれで助かります」
 今までずっと淡々と条件や希望を話していたから緊張していたけど、ちょっとだけ空気が緩くなった。
 目の前の彼が完璧すぎて、大きな壁があったように感じたのにそれが私一人の勘違いのような。もしかしたら話しやすい人なのかな。
「紀南、ありがとう」
 お客様と飛び込んできたのは、私の二つ上の先輩営業スタッフの神田さんだ。
 今、お客様と車から降りてこれから契約の話をするようだ。
 かなり時間を押していて、先輩にしては珍しい。
「いえ。もし忙しいようでしたら他のスタッフに頼みましょうか」
「久下は大学の後輩なんだ。融通効くし、ちょっと待ってて」
 末継さんが帰ってきたお客様にお茶を運ぶのを確認し、私も席を立つ。
 お昼休憩から戻ってくるスタッフに、久下さんの案内を頼もうかとリストを確認していたら、神田さんが給湯室へひょこっと顔を出した。
「俺の代わりに、二件案内してもらえるか」
 え。
 もう私は休憩中に食べる、趣味期限間近のお菓子の仕分けに手を伸ばそうとしていた。気分の切り替えを止められて焦ってしまう。
 ウチは原則、男性のお客様には男性社員が同行するのが決まりだ。
 まあ久下さんのように丁寧でマナーもいいお客様なら、末継さんでも問題ないぐらいだけど。
「じゃあ、久下にそう伝えてくる。今度、駅前のスコーン、代わりに並んでやるからよろしくな」
 私と末継さんが、休憩中に並ぼうとして一時間待ち、その後完売を繰り返していて、全く買えていない幻のスコーン。そこまで記憶しているなんて、さすが営業。
 そこまでしなくても久下さんが私で良ければ、私も引き受ける。
 久下さんも了承してくださり、その後、二件のテナントを二人で見に行くことになった。

 * * *

 内見はスムーズに案内することができた。
 彼は海外から大量に輸入するので、倉庫代わりになるテナントを探しているようで、倉庫にもなりそこで梱包作業や在庫管理できることを重視していた。
 輸入する品は、雑貨系やコスメが主なので大きくはないのが唯一の救いらしい。
 真剣に中を見て回る横顔に、何度か見惚れてしまいそうになって首を振る。仕事中だ。
彼は、起業する未来ある若い人。浮ついた心で、彼のスタートを台無しにしてはいけない。
 彼の質問に、私もタブレットを取り出したり管理人に確認の電話をしたり対応した。

 その後、見目麗しい久下さんとの同行は緊張はしつつも、滞りなく進行できたと思う。
「ありがとうございました」
 問題なく案内し終え、事務所に戻ることになった。一応、久下さんの質問や疑問点等には対応できたと思う。
 表情が変わらないから、内心どう思っているのかが分からないから、満足できたか分からないことだけが心配だったけど。
 でも、もう一つ気になることがある。
「久下様、もしかしてですが、体調悪いでしょうか?」
「僕がですか?」
 一瞬目が大きく見開く。
 この様子では、本人は気付いていなさそう。
 最初は普通だったんだけど、段々と顔色が悪くなって影が見えた。
 ただの寝不足とかだったらいいんだけど、素人の私では分からない。
「はい。顔色がよくありません。ちょっと待ってくださいね」
 事務所に戻って、席で待ってもらう間に栄養ドリンクとお茶と間食用のお菓子を紙袋に渡した。
 本人は受け取って良いのか戸惑っている様子で、視線をさ迷わせたあと、座ったまま私を見上げた。
 吸い込まれそうな真っ直ぐな瞳。
 けれどこの真夏のせいか、顔色が悪く感じる。覇気が感じられない。疲れてそうって言うのが近いのかな。
 もう少し早く気付けば、連れ回さなかったのに。隠しているわけではなさそうだけど、無自覚だったのか、弱さを見せない感じは損でしかない。
「自分でも気付いていないだけかもしれないです。忙しい時って一番自分を疎かにしてしまうから気をつけてください」
 また三日後に予約だけして帰って行ったけど、渡した紙袋を自分の目線まで持ち上げで感慨深そうにしていたのが印象深かった。

「今日のお客様、イケメンで素敵な人でしたよね」
 久下さんが帰ったあと、落ち込んでいた末継さんもうっとりしていた。
「あの銀のフレームがストイックで、うちのギラギラガツガツした営業社員と違って落ち着いてましたよね」
「社員云々は抜きにしても、私も弟と同い年には見えなかったな」
 弟が甘え上手というか末っ子長男みたいな、立ち回りが器用で要領も良い。
 だからこそ、久下さんみたいに寡黙で自分で何でも出来そうな人は損しているように見えるな。
「ふふ」
 隣の席に座った末継さんが、私の顔を覗き込んだあと、笑った。
「なに?」
「いえ。紀南さんって面倒見いいから。さっきの人、素敵でしたよねって話してるのに、別のこと心配してそう」
「え、わかるの?」
 素敵は素敵だけど、違うことを考えてたのは確かだ、
「はい。そんなふうにお姉さんみたいにしっかりしている紀南さんって私好きです」
 可愛く微笑んじゃって。
 末継さんも甘え上手で、年上にも可愛がられるタイプだと思う。
「回りに気を使えて、後輩の面倒がいいし尊敬していますよ」
「もう。上手いんだから」
 性分だと前向きに考えておくことにしておく。
 弟に甘えられてきたから、それが長所になったのなら良かった。

 * * *

 それから数日が過ぎ、その日は今年一番の猛暑だとニュースで報道されていた。
 前日に神田さんが約束通り、行列店のスコーンを差し入れしてくれたので、今日は私が何か差し入れしようとコンビニに寄ってから来た。
 栄養ドリンクではなく、栄養補給食品とアイス、飲み物と色々と悩むうちに沢山買い込んでしまった。
 まあ、欲しいものを冷蔵庫から各自取ってもらおう。
「神田さん、昨日はとっても美味しいスコーンありがとうございました」
 出勤してすぐに飛び込んできたのは、末継さんのおっとりした可愛らしい声。
 よく見ると、ラッピングされた飴とお菓子の詰め合わせ。メッセージカードに一言お礼が添えている。
 可愛いお礼だ。片や私は、コンビニの袋に入れた大量の栄養補強食品と飲み物。唯一スイーツに判定してくれるのであれば、チョコアイスぐらい。
「おはようございます」
 挨拶もそこそこに給湯室に逃げ込み、隠すように冷蔵庫の奥に差し入れを仕舞う。
 休憩中に、冷蔵庫にメッセージを貼り付けておく程度にしておこう。
 こんなところが末継さんと違って全く女性らしくもなくモテない部分だよね。
 もっと可愛いクッキーや飴を用意しておけばよかった。
 よくよく考えても、昔から恋愛対象に見られることがほぼなかった。
 女性らしさの欠片もないということだ。
 うちの社員だって末継さんには優しく指導するけど、私には最初からどんどん仕事を任せてしごかれた記憶が思い出された。期待されていたのだと都合よく解釈しておこう。
 末継さんみたいにマスカラ要らずの長い睫毛でもなく、スタイルも良いわけではない。声が可愛いわけでもないしね。
「紀南、今日も久下をよろしくな」
「えっ」
 神田さんがキーケースを指先で回しながら私の方へやってくる。
 そして冷蔵庫に一度視線を向けてから、私の方を見る。
 可愛いお礼と比べられたくなくて、冷蔵庫を何故か背に隠してしまった。
「久下が書類を持ってくるから、受け取って不備が無いかだけ確認してくれる?」
「神田さんは?」
「俺は午前中に本社。本社でしか閲覧できない資料があって、確認。はやく戻ってこれたら俺が受け取るけど、まあ無理かな」
 神田さんは営業成績も良いから、本社に行けばきっとランチまで、戻ってこなさそう。本人も分かっているのか申し訳なさそうだ。
「わかりました。暑いので気をつけてください」
「ああ。悪いな」
 朝の朝礼後に神田さんは本社へ向かい、私はいつも通りに予約や問い合わせメールの処理に取りかかった。
 外の気温は三十三度を超え、ビルの森のようなオフィス街にも関わらず、オフィスの中にまで聞こえてくる大きな蝉の声に、嫌でも夏を感じさせられる。
 こんな暑い日は出掛ける気も起きないのか、予約も少ない。
 私も手持ち無沙汰でテーブルを拭いたり、ドアを殺菌したりと時間を潰していた。
「こんちには」
 正面の自動ドアが開くと同時に、スーツ姿の久下さんが入ってきた。
 相変わらず顔色は悪そうだったけど、この炎天下の中、汗一つ掻いていないことに違和感を覚えた。スーツなのに汗をかかないって普通なのかな。
「おはよう、いやこんにちはですかね」
 十時を過ぎていたので迷って声をかけると、彼が微かに微笑んだ気がしたが、覇気が感じられなかった。
「ここに座ってください。神田から話を聞いております」
「はい。お願いしま……」
 ふらり。
 椅子に気絶するかのように座ったので、驚いて立ち上がってしまった。
「大丈夫ですか?」
「すみません。立ちくらみかな。書類です」
 絶対に大丈夫な様子ではない。先日よりも体調が悪い気がして不安で胸が騒ぐ。
 鞄から封筒を取り出そうとするが、それよりも顔色の悪さに、鳥肌が立ちそうだ。
「少々お待ちください」
 急いで店長の方へ行き、事情を説明した。
 すると店長が、久下さんと何か会話したあと、私の方へ戻ってきた。
「確かに具合が悪そうだ。ここで倒れられても、帰宅中に倒れても心配だ。一番近くの病院まで送ってあげてくれないか」
「いいんですか」
 私の方ではそうしたかったけど、仕事中にそこまでしていいのか悩んでいた。
「君の性格なら、放っておけないだろう。お客様に何かあっても大変だし。もし誰か身内の方を呼べそうだったら、交代して戻ってきなさい」
 店長の温情に甘え、彼の書類を神田さんのデスクに置くと、彼の鞄を持った。
「久下さん、お車で来ましたか?」
「いえ、今日はタクシーです」
「ではお車で送りますので、同行お願いしますね」
 半ば強制的に立ち上がらせると、倒れないように背中を支えながら車へ向かった。そして病院に電話しながら、彼を車に乗せたのだった。

(――つづきは本編で!)

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