強引社長と二番手(スー・シェフ)女子~独占契約は厨房(キュイジーヌ)で~

強引社長と二番手(スー・シェフ)女子~独占契約は厨房(キュイジーヌ)で~

これからの三ヶ月できっと、どうしようもないくらい恋に落ちていくのだ――

あらすじ

 これからの三ヶ月できっと、どうしようもないくらい恋に落ちていくのだ――

 コンテストに敗れ続け傷心のフレンチシェフ片倉美雪は、フランスから帰国する飛行機の中で食品メーカー社長の桜庭壮吾と出逢う。

「俺に口説かれてみないか?」

 なし崩しにタクシーに乗せられ、ドレスを着せられ、きらびやかなホテルで一夜を過ごした美雪。
 行くあてのない美雪に、壮吾は三ヶ月の恋人契約を提案するが…。

作品情報

作:桜旗とうか
絵:KISERU

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本文お試し読み

●1

 運命的な出会いが起こるのだとしたら、私の場合はこの瞬間だったのだろう。
 十二月二十九日。パリ発、日本行きの飛行機の中でそれは起こった。
「片倉《かたくら》美雪《みゆき》?」
 隣に座った男性――桜庭《さくらば》壮吾《そうご》から声を掛けられた、その瞬間だ。

 子供の頃から料理は好きだった。
 両親は共働きで、毎日遅くまで仕事をして帰ってくる。夕飯は一人でコンビニ弁当を食べていて、温かい食事は食べられたけれど退屈で、味気なくて、寂しい食事だ。
 それが嫌で、なんとなく料理を作ってみた。いびつなニンジンと、主張の激しいジャガイモ。原型なんてわからなくなったブロッコリーにぼそぼその鶏肉。分厚いタマネギ。ルーを入れるだけの、お手軽なクリームシチューだ。
 初めて作ったそれは、はっきりいって美味しくなかった。それでも両親は私の作る料理を美味しいと言って食べてくれる。ずっと笑顔が溢れていて、それが嬉しかった。それから毎日のように料理をするようになったのだ。
 そうしてフレンチシェフとして生きることを決めたのは、高校に入ってから。高校卒業後は調理師学校に入り、初めて参加したコンテストでは準優勝を取ることができた。幸先のいい結果だと思ったが、私の万年二位歴はここから始まったと言ってもいい。
 それでも、たとえコンテストで優勝できなかったとしても、学校のコネを使ってホテルやレストランといった施設で働きながら修行を続けていくのだろうと、漠然と考えていた。だが、本場の味を知らないままでいいのだろうかと疑問符が浮かび、若気の至りだったのか、両親の反対を押し切って、家出同然にフランスへ渡ったのだ。
 航空券の高さに驚いたが、コツコツと貯めたお金でなんとか足りた。フランス語がおぼつかないが、スマホの翻訳機能でどうにかなる。
 二十歳の私は、本気でそう思っていた。
 だけど、実際はお金が足りなくて部屋を借りることもできず、ホテルの宿泊代にも届かない。言葉もろくにわからなくて、これからどうしようかとそこで初めて途方に暮れた。
 お腹が空いてくる。一人が心細い。言葉も通じない異国の土地で、雨も風もしのげない。早まったかもしれないと思ったが、もう帰ることはできないし、どうにか帰国できたとしても両親に合わせる顔はない。
 俯いてとぼとぼと歩いていると、とてもいい匂いを漂わせる店に巡り会った。シトロネードという、とても可愛らしい名前のレストランだ。店内を覗いてみると、いまの私が入れる店ではなさそうだ。でも食べたいな……なんて入り口でうろうろしていると、コックコートを着た老紳士が声をかけてくれた。
「食べていくかい?」
 日本語だった。
 私はなけなしのお金で、食べられるものをお願いした。代金は受け取ってもらえなかった。
 しばらくして出てきたのはビーフシチューで、その澄み切った味わいに一瞬で惚れた。
 修行をさせてほしいと頼み込む私を、その男性がどう見ていたかはわからない。だけど、夜も深くなる頃には諦めた様子で「最善を尽くしなさい」と折れてくれたのだ。
 あとから、その店が一つ星を獲得していると知って慄《おのの》いたことは秘密だ。
 衣食住の面倒は師匠がすべて見てくれて、わずかだが給料ももらえる。これから目一杯技術を盗むぞ、と思っていたのだが、私が任されたのは皿洗い係。そのあとはホールだった。フランス語もままならない私には、これが妥当であることはわかっていたが、料理をできない日々はあまりにつらい。
 厨房に入れてもらえたのは、一年半が過ぎてからだった。厨房で仕事を始めるとき、師匠は言った。「五年で結果を出しなさい。コンテストで一位になることが君の目標だよ」と。シンプルで明確な目標設定だ。
 そして、私は五年間コンテストに参加し続けた。しかし結果は毎回二位止まり。落ちることはなかったが、上がることもない順位に落胆した。私の才能はこの程度なのか、と。
 シトロネードには、師匠を慕って毎年多くの才能豊かな料理人がやってくる。そんな彼らと比較すれば、私は明らかに凡才だ。だから、頑張るしかないと思った。
 レシピをひとつでも多く書き溜めること。
 基本を繰り返すこと。
 女だからと舐められたくなくて、男性と同じように力仕事もして、小麦粉を両肩で担ぐ技術だけは完璧に身についた。
 でも、私は努力さえ届かなかったのだ。
 最後のコンテストでは、食材が足りないという不運に見舞われた。言えば用意をしてもらえただろう。だけど、あるものでなんとかするのも料理人の仕事ではないのか?
 たとえば、いつかの私のように行くあてがなく困った人が店先に来たとき、食材がなくてなにも食べさせてあげられなかったら……。
 つまらないプライドだ。でも、私はそのまま挑戦した。実力があれば乗り切れるはずだと信じたから。しかし、結果はやはり二位。二十四歳の天才に負けたのだ。
 その後の進退は、悩んだ末に情けなく帰国することにした。
 両親の反対を振り切って飛び出したから実家には戻れないけれど、とりあえず帰国の連絡だけ入れて、一般企業で普通に働こう。料理人だった過去を忘れて、一から仕切り直す。それが最善だろう。
 そして、帰国の日程を決めたとき。師匠が餞別にとビジネスクラスの席を用意してくれた。「諦めてはいけないよ」と言葉をもらったけれど、私は料理人に向いていなかったのだろう。二十六歳という年齢もある。いまから新しい仕事先を探したとして、輝かしい実績などない私を雇ってくれる料理施設はないように思う。だから、この経歴を捨てるしかない。
 事務とか営業とか、そういう仕事をするのかな、なんて考えながら、年の瀬の飛行機に乗り込んだ。
 機内で離陸のアナウンスが流れ、それを見届けたあと、長時間に及ぶフライトの暇つぶしに映画でも見ようかとごそごそと準備をしていると、
「片倉美雪?」
 隣の座席に座った男性に声を掛けられた。
「はい……?」
 いきなりフルネームを呼び捨てにされ、どこかで会ったことがあるだろうかとまじまじと男性を見つめる。
「……失礼。片倉美雪さんですよね」
 思わず口を突いて出てしまったらしく、その人は私の名前を言い直して確認する。
「そうですが……どこかでお会いしましたか?」
「いいえ。初めてお目にかかります」
 機内の照明のせいかもしれないが、その人の瞳は鳶色に見えた。黒い髪を緩く後ろに流したスーツ姿。年齢は三十代前半くらいだろうか。上質なスーツを身につけていて、上品そうに見える。でも、目を合わせると、まるで捕食者のような表情を見せていて、鋭い眼光の人だなと思った。
 日本人。しかも、相当端整な容姿をした美男だ。
「桜庭壮吾と言います」
 名刺を私に差し出し、桜庭と名乗った彼を見る。
 エリサフーズ代表取締役社長。なるほど、日本の大手食品メーカーの社長か。
 この企業のことは知っている。『すべての人に笑顔を届けるために』という、優しい経営理念を掲げていて、感銘を受けたからだ。それが事実なら素晴らしい企業なのだろうと思った。
「どうして私の名前を?」
 疑問をそのまま口にすると、桜庭さんは一冊の雑誌を私に寄越す。それは、先日発行された料理誌。コンテストの結果も掲載されていて、ああ、とうなだれた。
「顔写真付きで載ってたやつですよね、それ」
「惜しかったですね。また二位だった」
 ……また? まあ、いいか。
「二位は惜しくないです。優勝ができなければ意味がないので」
「それは厳しい。立派な成績だと思いますが」
 そこそこの成績でいいなら誇れた順位。でも私は、優勝しなければいけなかったのだ。
「これが最後のチャンスでした」
 ぽつりと呟いた私に、桜庭さんは前を向いた。
「まだ若いようにお見受けしますが。チャンスなどこれからいくらでも……」
「師匠に、五年で結果を出せと言われたので」
「……そうでしたか」
「結果を、出せませんでした」
 桜庭さんが頬杖をついて頷く。
「五年もやって、一度も優勝できなかった……」
 人のいるところでは泣かないようにしてきた。弱音なんて吐きたくなかったし、コンテストの結果は私の実力の証明だ。悔しかったけれど、泣いたら負けると思った。
 女だから、と言われたくもなかったから平気な顔を取り繕っていたけれど、一人になったとき、涙が溢れてしまう。悔しくて唇を噛み、泣きながらお皿を洗うことも珍しくなかった。
「もっと……師匠の元で修行をしていたかったの……っ」
 それなのに、ぼろぼろと涙が零れた。みっともないと思いながらも泣くことをやめられない。
 来年も続くと思っていた。
 一生の仕事になると信じていた。
 だけど私は、師匠から教わった技術を手放さなければならない。この世界で生きていくことは、もうきっとできないだろうから。
「……君の師匠は、君を大切にして、愛していたんだろうな」
 消えてしまいそうなほど小さな声だったのに、その言葉がはっきりと耳に届いた。
 歪む視界のまま桜庭さんを見る。ハンカチが差し出され、それを受け取った。
「なんで……そう思うの……?」
 声が震えて恥ずかしかったけれど、問いかけずにはいられない。
「君の将来をちゃんと考えてくれているからこその時限だ。コンテストで二位を取れるほどの腕があるなら、十年でも、十五年でも傍に置いておけばいい」
「……うん」
「でも、君の師匠はそうしなかった。君の人生をちゃんと考えてくれたんだと思う。躓いたとき、やり直せるだけの時間。あるいはそこから這い上がるチャンスを与えたんだろう。君はちゃんと努力ができる人だ。それなら、ここから先は君次第でどうにでもなるんじゃないのか?」
 たった五年。だけど、長い五年だった。
 シトロネードの修行は厳しい。それでも温かい店で居心地が良くて、ずっとそこにいたいと思っていた。それはもしかしたら、シトロネードという看板に甘えたかっただけなのかもしれない。
「うん……っ」
 いい歳をして泣く私を、桜庭さんはなにを言うでもなく見つめ、そっと手を握ってくれた。その温かさに、張り詰めていた心がほどけていくような気がした。
「君は、いつも拗ねた顔をしているな」
 私の手元から雑誌を取り返し、コンテスト結果の掲載されたページを開く。そこには、ろくに笑わない見慣れた顔があった。
「そういう人かと思ったが、案外感情豊かじゃないか」
「知ってるみたいなこと言う……」
 ぐすっと鼻を啜ると、彼は端整な笑顔を向けてくる。
「いまは好きなだけ泣けばいい。疲れたら眠って、起きたら俺の話し相手になってくれ」
「うん……そうする。ハンカチ、ありがとう」
 言われるまま、気が済むまで泣いて、眠った。その間、桜庭さんはずっと私の手を握っていてくれた。

 
「桜庭さんはこの年の瀬にどうしてフランスに?」
「仕事。食材の買い付けだよ。使いたい食材は自分の目で見て買うのが一番いい」
 なるほど、と相槌を打つ。
 結局、私はあれからしっかり眠り、目が覚めるとそろそろ日本に到着する頃だった。
 桜庭さんと話し始めたのは少し前だ。
「じゃあ、これからまだ仕事なの?」
 この時期なら会社も休みに入っているだろうに、大変だなぁなんて思っていると、桜庭さんは首を傾げた。
「どうしようかなとは思ってる」
「……桜庭さんって、仕事ばっかりしてそう。見た感じだけど」
「そうでもない。むしろ君のほうが仕事をしていそうだが」
「んー。まあ、それなり?」
 毎日朝から晩まで厨房に立ち、休みの日も勉強会や仕込みの手伝いのために店に行く。家に帰っても料理ばかりしていたから、それを仕事だというのならそのとおりだろう。
「そんなに仕事ばかりしてたら疲れるだろ」
「好きだから苦にならないわ。それに、休んだら不安だもの」
 でも、もう料理をしなくていい。不安に駆り立てられることもない。
 朝はゆっくり眠れる。たっぷりとスープの入った大きな鍋を持つこともなければ、食材を担いで厨房を走り回る必要もない。深爪の進んだ、荒れた手だってケアをして綺麗にして、ネイルをすることも許される。ヘアアレンジを楽しんで、スカートを穿いたりするのだ。
 これからの未来は楽しいはず。……なのに。
 ぼろぼろと涙が溢れてくる。
「……情けないなぁ……」
 桜庭さんから借りたハンカチは、もうぐっしょり濡れていてあんまり役に立たなくなっている。
「いろいろと考えすぎなんじゃないか」
「これからいっぱいオシャレして、二時間しか眠れない日々ともお別れできるはずなのに、すごく寂しい……」
「だから、考えすぎなんだよ、君は」
 飛行機が着陸態勢に入り、緩やかに降下していく。
 その間も格好悪く泣いていたけれど、考えすぎ……かなぁ。
 ほどなくして飛行機は無事に地上へ降り立ち、乗客がぞろぞろと降り始める。私も人の流れに紛れようかと思って座席を立ったが、桜庭さんが動かない。じっと雑誌を見て、そして私を見上げた。
「少し時間、いいか?」
「うん……いいけど、ここで?」
「いや、降りてから」
 そう言って手荷物をまとめたあと、桜庭さんが私の手を引く。
 大きな手に、かさついた自分の手が包まれることがなんだか恥ずかしくて引こうとすると、力を込められるどころか、指を絡めて繋がれてしまった。
「ちょ、ちょっと、桜庭さん……!」
「ホテルに宿泊するつもりだから、そこで話そう」
「どこでもいいけど、手!」
「……君が逃げようとするからだ」
「してない!」
 でも手を引っ込めようとしたのは事実だ。それが桜庭さんは気に入らなかったのだろう。
 後ろから彼の横顔を見上げる。
 イケメン、なんて言葉ではとても足りない美男だ。こんな男性なら女性が放っておかない。たとえ彼に恋人がいてもアプローチしたくなるだろう。
 女性の扱いには慣れてそうよね。
 そして私は男性に免疫がない。周りに男性は多くいたけれど、恋愛感情なんて生まれるはずもなくて、恋をしたことは一度もなかった。
 さすがにちょっとドキドキするな、なんて思いながら桜庭さんに引き摺られるように飛行機を降りてコンコースまで出る。そこで彼は電話をかけ始めた。
 そういえば、社長なら秘書が同行していそうなものだけれど……。
 チラチラと桜庭さんを見ていると、彼が視線に気づいたのか、私を見て手招きする。なんだろうと思って近づくと、腕を腰に回され、そのままぎゅっと抱きしめられた。
「!?」
「美雪。今日はどこかに泊まるのか?」
「え? えっ? 呼び捨て!?」
「そこはいいから。宿泊先」
「ホテルを予約してるけど……」
「どこだ?」
 わけもわからず宿泊予定のホテルを伝えると、桜庭さんは電話口にそれを告げる。そして。
「そこをキャンセルしておいてくれ。明日は迎えを頼む。今日は帰っていい」
「ちょっ……」
 相手の応答が聞こえないのでなんとも言えないが、人が予約したホテルを勝手にキャンセルされたことだけはわかった。
 通話を終え、彼が私を見下ろす。
「悪い。秘書が会社で待機してたから帰るように伝えた」
「それじゃなくて。私の予約したホテルをキャンセルしないで!」
「どうせ使わない」
「使うってば! それより手! 離して。近い!」
 パシパシと桜庭さんの手を叩いて抗議したが、意に介さず彼は私をさらに引き寄せた。
「時間、いいんだよな。場所もどこでもいいと」
「いいって言ったけど、そういうことじゃなくない?」
「そういうことだよ。とりあえず行こう」
 ほとんど力任せに歩かされ、空港の傍でタクシーに乗せられる。なんだか嫌な予感しかしないが、だからといって間違いが起こるわけでもないだろう。
 相手は私だしね。
「ホテルクローシェへ」
 桜庭さんが行き先を伝え、ぎょっとした。
 ホテルクローシェといえば、国内屈指の高級ホテルだ。あいにく私は訪れたことのない場所だが、レストランが特にハイレベルで評判がいいと聞く。
「桜庭さん……クローシェに泊まるの?」
「ああ。それが?」
 経済力が違いすぎる。今日は特別に奮発して、という雰囲気ではなさそうだし、海外への出張回数だって彼の言葉を思い返すに、少なくはないはずだ。
 いつものホテルなのだとしたら目を剥くし、宿泊代を経費にしているとしても、それができるエリサフーズってなに?
「……どうして私はホテルクローシェに連れられてるの?」
「ゆっくり君と話したいから」
「カフェとか、あるじゃない!」
「部屋に行く必要はない。ホテルのカフェで話せばいい」
 そうだけど。じゃあ逆にホテルに行かなくてもいいんじゃない?
 なんて言葉が声にならなかったのは、桜庭さんがぐいと身体を近づけてきたからだ。
「でも俺は、君をゆっくり慰めてやりたい。心も、身体も」
「は、はい……?」
 ぐいぐいと身体を押し返しても、全然びくともしない。男性ってこんなに力が強いものだっけ、と思考が混乱していく。
「泣き腫らした目、色っぽくていいな」
「な、なに言って……」
「俺は君の顔がかなり好みなんだ」
「そ、そそそれはどうも……!」
 もっとクールに切り返せればいいのに、つっかえてしまうあたりに経験の浅さがにじみ出てしまう。
「美雪。俺に口説かれてみないか?」
「くっ、くどっ……い、いやいやいや。冗談でしょ……」
「冗談で口説くほど暇じゃない」
 この人ならそもそも相手に困っていないはずだ。私に声を掛ける意味がない。だから本気にするはずもない。が……。
 え、なにこれ……?
 頭が真っ白になって、桜庭さんを見上げた。すると、彼の顔が近づいてきて、唇を塞がれる。
「んっ……!」
 温かくて柔らかい感触に心臓が早さを増した。血が逆流してくるようでくらくらする。
 舌を差し入れられると呼吸を奪われ、ねっとりと絡められると怖いくらいに気持ちよかった。
 唇が離れるときには呼吸が上がっていて、慣れていないと言っているようで恥ずかしい。なにか言い訳をしなくてはと、ろくに働かない頭で考えた。
「……さっき初めて会ったばっかりよ……?」
「それが?」
 この人、ワンナイトを楽しめるタイプか。
「私は、さっき会ったばかりの人とそういう関係にはなれないの」
「そういう関係?」
 にやりと口の端を持ち上げられ、完全に遊ばれているとわかる。でもここでカッとなって言い返したら、彼の思うつぼだろう。
 冷静に、事実を淡々と告げよう。遊び慣れているならむしろ好都合だ。
「私、この歳でなんだけど男性経験がないの。だから、遊びの恋とか全然できない。せっかく誘ってもらってなんだけど――」
「だから、それが?」
 あ、あれ。
 処女って面倒くさいから嫌われるんじゃないの? しかもなかなかの年齢よ? 料理ばっかりしてきた、色気ゼロ女だけど? 
「だ、だから……」
「男を知らないのも、遊びの恋ができないのも、君が真剣に料理と向き合ってきたからだろう。それがマイナスの要素になると思っているなら大間違いだ」
「ならないの……?」
 それしか知らないから、魅力なんてかけらもないと思っていたけれど。
「むしろ、それだけ情熱を注げる人の心を奪ってみたい。君の深い愛情が俺だけに向けられたらと考えると燃える」
「初めては面倒くさいとか……言うじゃない」
「面倒くさがるような男だと思われてるのか。……さすがに心外だが」
「知らないわよ! 恋愛なんてろくにしたことないんだから仕方ないでしょ!」
 だいたい、タクシーの中でなにを暴露しているのやら。
 恥ずかしくて両手で顔を覆うと、桜庭さんは私の肩を引き寄せて抱きしめた。
「君は余計なことを考えなくていい」
 付き合ってもいないのに、こんな誘いに応じていいものだろうか。まして、確実にワンナイトになる。そりゃあ名刺はもらったけど、そこに連絡をする勇気なんてない。でも、こんな機会もそうあるものではないとも思うし、いい歳をして恥じらうのも痛々しいか。
 もう一つだけ、断れる可能性はあるし。
「で、でもね。こんな格好でホテルクローシェには入れないと思うの」
 黒のダウンコートにカーキ色のハイネックセーター。ジーンズにスニーカー。機能重視で服を選ぶ癖がついていて、帰国するだけだしこれでいいと思った。
 色っぽい話をするにも、高級ホテルへ入るにも相応しいとはいえないだろう。
「別に入れなくはないが」
「桜庭さんが恥をかくでしょ」
「……まあ、連れの女性を着飾らせられないと思われるのも癪だな。……運転手さん。行き先を変えてもらっていいですか」
 違う! そうじゃない!
「さ、桜庭さん……」
「俺の趣味でかまわないか? 似合いそうな店を知ってる」
「そういう話じゃ……」
 この人、折れないな。
 というよりも、私じゃこの人を退けるのは無理だ。経験値が違いすぎて、あっという間に籠絡されてしまうだろう。そして、それでいいと思っている自分もいる。
「桜庭さんって、振られたことないでしょ」
「さあ。どうだろうな」
 曖昧な返事をする彼に言われるままタクシーが行き先を変え、私はダサイ服を脱ぎ捨てることになった。

「恥ずかしい……」
「いまさら」
「本当に、無理」
 ずるずるとホテルのエレベーターに乗せられ、顔を覆い隠す私に桜庭さんが笑う。
「お腹出てる……」
「出てない」
「胸ない……」
「大丈夫」
「腕もちょっとパツパツしてる」
「気のせいだ」
 もう、色気だの恥じらいだのは捨てた。
 ホテルクローシェへやってくる前に、桜庭さんは顔なじみだという服屋に私を引きずり込んだ。女性もの専用というより、金持ち専用といったほうが正しいその店で、ダウンコートもセーターもジーンズも引っぺがされ、散々着せ替え人形にされたのだ。
 桜庭さんはちょっと飽きていたようだけれど、店員さんが楽しそうだったから最後まで根気よく付き合ったという感じで、しかも試着したものをすべて買うという大奮発振りだった。そして、その中からワインレッドのタイトなドレスを私に着るように指示し、言いなり状態で着替えたのだが。
 フィッティングルームで、自分の体型の寸胴さに愕然とした。なんだかお腹が出ているような気がするし、胸ももうちょっと膨らんでいると思っていたのだが、予想以上に貧相だ。重たい荷物を抱えることが多かったせいで、レースで作られた袖に包まれた腕は太く、動かしにくい。
 日頃から体型なんて見ていないから、ショックは何倍にも膨れ上がる。
「こんな体型の出る服、絶対似合ってない」
「早く脱ぎたいってリクエストされてるのか、それは」
 上層階専用のエレベーターに乗せられても、私は往生際悪く足掻いていた。なんとかして桜庭さんが興味をなくさないだろうかと思っていたのだが、逆効果のようだ。
 エレベーターが到着すると、桜庭さんの手が私の腕を引っ張った。
 背が高く、手足が長くて大きいので、彼の隣にいれば私でも華奢に見えるかもしれないけれど、普通の女性ならもっとか弱く見えるのだろう。途中でガラスに映った自分の姿を見たけれど、あんまり可愛くなかった。服ではどうにもならないのだ。
 顔はきつそうに見えるし、身体は筋肉質で柔らかくなさそうだし、肌荒れだってひどい。履き慣れないヒールで何度も躓くし、そのたびに桜庭さんは私を受け止めて、抱き寄せてくれるけれど、きっと面倒くさいと思ったはず。
 部屋の前で立ち止まり、彼が扉を開けた。
「美雪。どうぞ」
「ね、ねえ。桜庭さんってそうやってすぐに名前で呼んじゃうの?」
「俺のことも名前で呼べばいい」
「そういうことじゃないってば」
 逃げようとしても逃げられないのはわかっている。でも、「じゃあどうぞ」と身体を晒せる勇気もないのだ。
 もじもじしながら部屋に入ると、桜庭さんの手が私の背を押す。奥へどんどん歩かされ、大きな窓の前まで連れてこられた。ホテルクローシェの最上階フロア。最上級スイートから見下ろす夜景は絶景だ。
「うわぁ……みんなの労働の痕跡!」
「言い方どうにかしろよ」
 ガラス越しに見える桜庭さんが笑っている。
 だって、夜景綺麗ね、なんてロマンチックに言えるキャラじゃないと思うから。照れくさいし、恥ずかしい。
「可愛げがなくてごめんなさい」
 きっと、彼が連れてくる女性はこの景色を喜び、可愛らしい反応を示すのだろう。このスイートルームだって、身の丈に合わなさすぎて落ち着かない。
「俺も夜景になにかを感じるわけじゃないから、別にいいけどな」
 桜庭さんの手が私の身体を撫でて後ろから抱きしめる。耳にキスをされ、ゆっくりとその熱が首筋へと下った。
 身体がぞわぞわする。感じたことのない感覚が身体を這い回っていくことが怖くて、だけどドキドキしている。
「桜庭さん……ベッドに行かないの?」
「どうしようかな。まだそこまでは考えてない」
 背中のファスナーが引き下ろされた。部屋は暖められているけれど、やはり外気に触れると少しひんやりとして、身体がふるりと震える。
「ね、ねえ……ガラスに映るの恥ずかしいんだけど」
「ちゃんと前を見てろ」
 肩からワンピースが落とされると、下着姿の自分がガラスに映し出された。
 抜群のスタイルなんて持ち合わせていない。そんなものを見せられても、気持ちが落ち込むばかりだ。
「桜庭さん、これ、ガッカリしちゃうやつ……」
「そんなことはない。少なくとも俺は興奮する」
 そういうものだろうか。ちらりとガラスに映る桜庭さんを見ると目が合って、すぐに視線を逸らした。
 ブラのホックが外され、取り払われる。
 首筋にキスをされ、ゆっくりと彼の手が肌を撫で上げた。胸を覆い、優しく力が込められていく。
「っ……ん……」
 手つきが優しすぎて、なんだか変な気分になる。次はどこを触られるのだろうと、期待している自分にも驚いた。
「ね、ねえ、桜庭さん。……私、こういうときどうしていいかわからないんだけど……」
「感じていればいい」
 そんな難しいことを言われても、そうできないから困っているのだ。
 苦し紛れに彼の腕を掴むと、身体が寄せられて強引に口づけられた。
「んっ……んぅ……」
 厚みのある舌が差し込まれ、感触に身体が震える。手が身体を這い、そのたびに腰や肩が跳ね上がった。
 こんなの、恥ずかしすぎる……っ。
 時折胸にも触れてくるが、あまり興味がないのか、彼は腰や腹から脇腹に掛けて優しく撫でる。
 やっぱり、もうちょっとボリュームがあったほうがいいのかな。
 彼のキスを受けながらそんなことを考えていると、より一層深いキスへと変えられた。
「んっ! んぅっ……、ふ……んんっ」
 口内の奥まで舐め尽くされて唾液を注がれ、呼吸は奪われる。苦しくて身を捩ったが、桜庭さんに抱きしめられると、抵抗はあっけなく抑え込まれた。
「んっ……く、ふ……んぅっ」
 舌を絡められながら、粘膜を舐められる。粘った水音が思考を溶かしていくようで、それに抗うように彼に縋った。
 身体がぴったりと寄せられると、力が掛けられてバランスが崩れる。驚いたが、桜庭さんに支えられていると理解すると、安心して身を委ねてしまえた。
 ソファに座るように押され、されるままそこへ身を沈める。広いとはいえないが、狭くもない。
 押し倒され、桜庭さんが覆い被さってくる。呼吸を荒らげながら彼を見上げると、顔を伏せ、胸元に吸い付く瞬間が見えた。
「あ……っ、んっ……」
 先端を唇で擦ったあと、優しく舐め上げられる。そんな様をまじまじと見つめてしまったが、恥ずかしさよりも歓喜が勝った。
 男性にこんなふうに触れてもらうことなんて、二度とないだろう。最初で最後の人が彼で良かったと、いまは素直に思える。
 適度に遊び慣れていて、適度に優しいくらいがいい。そのうえ外見は好みのど真ん中。きっと素敵な夜になる。そんな予感に心が弾んでいるのを感じた。
「ん……っ、ふ、ぁ……っ」
 胸の先端を吸われ、腰が揺れる。感覚に鈍感だった身体が、少しずつ鋭敏にされていく。
 最後まで身につけていたショーツが引き下ろされ、一糸まとわぬ姿にされると桜庭さんとの対比が気になってしまう。
 ネクタイさえ緩められていないから、温度差があるのではと不安が駆り立てられた。
 喜んでしまっているのは私だけかな……。
 目を逸らすと、すぐに頬に手が当てられて視線を引き戻される。
「どうした?」
「……ううん。桜庭さんは脱がないのかなって思っただけ」
「君を一度イかせたらな」
 するりと脚の間に手を入れられ、とっさにそれを押さえた。
「っ……そ、そんなところ、触るの……?」
 びっくりした。知識くらいはあるが、知っているのと経験をするのとはわけが違う。
「触られるのは嫌いか? 痛い?」
「し、知らないけど……びっくりしちゃって……」
 経験が皆無だからこういった場面でなにをされるのかが予測できない。恥ずかしいし、戸惑うし、でもちゃんとしないと、と思うとなんだか泣きたくなってしまう。思春期じゃあるまいし、これくらい余裕で受け流さなければ。
「ごめんなさい。私、本当に……」
「……脚、開いて」
「えっ? 脚?」
 膝に手を掛けられ、ゆっくりと力が込められていく。でも、強引に開かせるわけではなく、私を促しているようだ。
「恥ずかしいなら言ってくれ。多少は強引なこともするが、君の嫌がることはしない」
「……うん」
 よくわからないが、言われるまま脚を少し開いた。
「もう少し」
 じっと桜庭さんが私の脚を見ているので落ち着かないが、先ほどよりもう少しだけ開く。
「もう少し」
「えっ」
「俺の身体が入るくらい」
 そんなに開けるはずがない。下着も着けていないし、桜庭さんはじっと見ている。いや、見ていなくてもできるはずのないことだ。
「そんなには無理……」
「わかった」
 そう言うや、彼が私の膝を大きく割った。
「ひゃ……、さ、桜庭さん……っ」
 誰にも見せたことのない場所が露わにされる。恥ずかしすぎて消えたくて、でもそんなことはできないから顔を覆い隠した。
 脚を抱え上げられ、彼はためらう様子もなく彼は秘部に口をつける。
「あ……っ、だめ……そんなところ……」
 舌でねっとりと舐め上げられた。
 初めて触れられる場所に初めての感触を与えられ、思考は拒絶するのに身体は従順にそれを受け入れてしまう。
「んっ……あっ、やだ……、変……っ」
 くちゅくちゅと音を立てながら秘裂をなぞり、蜜口に舌を差し入れられる。感覚と思考が合致しないせいか、身体は震えて揺らめくのに、それを受け入れきれなかった。
「身体は気持ちよさそうにしてるけどな。こことか……」
 花芯を食まれ、腰が浮く。
「あ、ああ……っ、ん」
 刺激を与えられ続けると、仰け反るほど気持ちいい。
「や、だぁ……あ、あっ」
 未知の感覚に支配され、逃げ出したくて身体が勝手に暴れた。もがいて身を捩ったが、力が入っていないのか、桜庭さんがそうしているからなのか、まるで抜け出せない。
「んっ……あ、は……っあ……だめ……なにかきちゃ、う……」
「そのまま身を委ねていればいい」
 肉芽を強く吸い上げられると、頭が真っ白になる。
「あ……っ、あ……っ、ん……っ!」
 なにかが迫ってきたと思ったら、一瞬にして弾けた。直後、身体がひどく痙攣してのたうち、やがて弛緩する。
 なにが起きたのかわからず放心していると、蜜口からなにかが押し込まれてきた。
「っは……あっ……、……っ」
 苦しさと違和感を伴い、桜庭さんの腕を掴む。
「指を入れてるだけだから、そんなに不安そうな顔をするな」
 私に覆い被さりながら、頭を撫でて宥められた。まるで子供をあやすような手つきだが、もう片方の手は膣壁を強引に押し開いてくる。
「っ……あ、んっ……苦し……」
「我慢してくれ」
 ネクタイを解きながら、額や目元にキスをされた。
「嫌なこと……しないって……」
「強引なことも多少はする、とも言った」
「ふ……、苦しい……や、あっ」
 抗議をしたつもりだったが、彼はそれをあえて聞き流す。さらに指を増やされ、息が詰まった。
「桜庭……さん……っ、もう……」
 苦しすぎて涙が零れる。でも、彼がやめてくれる気配はなくて、ぐちゅぐちゅと中をかき回された。
「ふ……あ、ああっ……」
「美雪……入れていいか……?」
 これ以上なにを入れようというのか。視界が歪んでいたけれど、桜庭さんを見つめると、美しい裸体を晒して私を熱っぽく見つめている。
 男性の身体はこんなにも綺麗なのか。
 筋肉質で逞しく、引き締まって無駄がない。そっと肌を重ねられると、その熱さに驚いた。
「桜庭さんの身体……温かい……」
 うっとり呟くと、彼は苦笑いを浮かべた。
「こっちは持て余してるってのに……」
 唇を塞がれ、キスに没頭する。舌が差し入れられるのもはじめは戸惑っていたはずなのに、いまは気持ちいいとすんなり受け入れられてしまう。
 彼の首筋に腕を回し、甘いキスに酔いしれていると、下腹部に硬いものが押しつけられた。
「んっ……」
「これ、入れていいか?」
 思わずそちらに目を向けると、彼の分身が腹に押し当てられている。
「……!」
 まっ……、待って。待って……!?
 キスに蕩かされていたが、一気に冷静さを取り戻してしまった。
「そ、そんなの、無理……入るわけない……」
「大丈夫だ」
「桜庭さんは大丈夫でも、私が……、あっ……」
 秘裂に擦りつけられ、身体がビクッと反応する。
「俺も気持ちよくなりたい……だめか?」
 そんなことを言われたら、強く拒めない。私は気持ちよくしてもらったのだし、それを返すのも当然。でも怖いし、初めては痛いとも聞く。怖じ気づいてしまうのは仕方がない。でも、断りたくもない。
「……い、痛くしないでくれる……?」
「約束はできないが善処はする」
「うまくできないかも……」
「それは俺の責任だ」
「……うん。いい、よ」
 頷くと、彼は子供のように頬にちゅっとキスをする。
 避妊具を手にして封を切る姿を見て、彼に抱かれるのかとようやく実感した。
 熱い欲望が蜜口からヌプリと押し込まれる。
「んっ……、ふ……」
 ゆっくりと進めてくれるが、やはり痛みは伴った。眉根を寄せると、桜庭さんの手が頭を撫で、労るような手つきで身体を這っていく。
「桜庭さん……」
「壮吾」
 瞬きをひとつした。
 意味がわからなかったが、名前を呼べということだろうか。
 困惑していると、剛直がさらに奥へと押し込まれた。
「っあ……あ、んっ……」
「名前で呼べ。ちゃんと呼び捨てろよ」
「……そ、壮吾……っ」
 腰を掴まれ、膣壁がこじ開けられていく。
「は……っ、あ……っ」
 息を詰めても彼の侵入を止められるはずもなく、下腹部に熱が満たされた。
 身体が軋むように痛い。楔で彼に繋がれ、身動きをすれば痛くて涙が出るし、息をしても苦しかった。
 こんなものの、なにがいいのだろうと思考の一片で考える。桜庭さんだって面白くないはずだと思って目を向けると、切なげな表情でなにかを耐えているようだった。
「壮……吾……?」
 名前を呼ぶと、彼と目が合う。眼光の強い人だと思っていたが、いまの彼はよりそれが顕著だ。身体が竦んでしまう。
「……痛くないか?」
 上擦った声にドキリとして、反射的に頷いた。
 本当は痛いし、抜いてほしいとも思うのだが、なんだかそれを言ってはいけない気がする。
「なら、動くぞ」
「う……、うん……」
 ゆっくりとした動きで彼のものが引き抜かれていく。
「んぅっ……」
 圧迫感が軽くなってほっと息をついた。けれど、すぐにその質量が戻ってきて、目の前に火花が散る。
「あっ、ぅ……、……ふ……っく」
 想像していたよりもつらい。擦られるたびに痛むし、彼が動くたびに苦しくなる。
「あ……っ、は……、あぅ……っ」
 彼の胸を押し返していたのは無意識だった。手を取られ、手のひらに唇を押し当てられる。
「気持ちいいよ、美雪……」
「本、当……?」
 なんだか泣けてきてしまう。つまらなく感じているだろうと勝手に思い込んでいたから、彼が良くなってくれているならそれだけで充分だ。
 目元をぐいと拭われ、彼が微笑む。
「本当だ。俺ばかり気持ちよくなって悪いとは思ってるけどな……」
 首筋に甘く歯を立てられ、そのままちゅっと吸い上げられる。
「壮吾が気持ちいいなら、それでいい」
 照れて笑い返したけれど、内側で彼の欲望が一際膨らんだ気がした。
「っ……んっ」
「ごめん……興奮した」
「……なんで、いまなの……」
 わけがわからなくて困惑する私にはかまわず、彼が腰を打ち付けてくる。
「っん……あ……っは……」
「君が、自分より俺を優先してくれたから……かな」
 乾いた音を立てて肌をぶつけられ、頭がくらくらした。痛くて、でも奥が熱くなってくる。
 ぬちゅぬちゅと結合部が淫猥な音を立てていて、彼がそこへ目を向けるたびに羞恥心が煽られた。
「あ……あぁっ……」
 突き入れられる衝撃に声が勝手に漏れ出て、そのたびに彼は切なげに吐息する。
 それが妙に色っぽくて、彼の顔を引き寄せてキスをねだった。優しい口づけを与えられ、より強く抽送を繰り返したあと、彼が息を詰めて吐精する。その瞬間を感じたけれど、そこから先のことはわからなかった。

 翌朝、目が覚めたときは桜庭さんの腕の中にいた。
 大切なものを抱きしめるようにして眠る彼の顔を見て、思わずキスをする。
 そのあと、彼が寝返りを打ったタイミングでベッドを抜け出し、服を探して着た。いつの間にベッドへ運ばれたのだろうか。
 広くて、豪華で、私には不釣り合いな部屋。目が覚めたら全部夢で、隣に誰もいなくても驚かなかっただろう。でも、ちゃんと彼は隣にいて、まるで恋人のような目覚めを体験させてくれた。
 このまま帰るのがいいかな。
 いや、でもそれだとホテル代を踏み倒すことになる。
 ここって、いくらくらいするんだろ……。
 帰国後に宿泊予定だったホテルは、安いビジネスホテルだ。数日宿泊して、新しい部屋を探すつもりだったのだが、だいぶ予定が狂ってしまった。
 住むところ、どうしようかな。
 ベッドの縁に座ってそんなことを考えていると、腰に腕が回ってきた。
「っ! びっくりした……」
 逞しい筋肉質の腕は、桜庭さんのものだ。
「おはよう、美雪」
「うん。おはよう、桜庭さん」
「……最中しか名前を呼んでくれないのか、君は」
 ごろんとこちらに身体を向ける彼に、私も身体ごと向き直る。
 日差しを眩しそうにしているから、カーテンを閉めたほうがいいかなと思ったけれど。
「…………」
「……なんだ?」
 じっと見入る私に、彼は不思議そうな顔をした。
「ううん。なんでもない」
 桜庭さんって綺麗だなと思って。……なんて言えるわけがない。
 それにしても、モテるんだろうなとは思ったが、ここまで美形だとは。
 色気をダダ漏れにする人なんてそうそういないと思ってたけど、いるところにはいるのね……。
「身体、平気か?」
「んー……変な感じはしてる」
 下腹部も腰も、鈍く痛む。それもこれも、昨夜の出来事が嘘でも夢でもないという証明だ。
「でも着替えたってことは、動けないわけじゃないんだな」
 身体を起こして、桜庭さんがシャツに袖を通す。
「うん、そこまでじゃないわ」
「それならいい。秘書がそろそろ来る時間だから、もう少しだけ待っててくれ」
「今日もお仕事?」
「さすがにもう仕事納めにするよ。いつまで働くつもりだって言われてるし」
 だとしたら、秘書さんは彼を送るために迎えに来るのか。
 あれ。じゃあ待ってる意味なくない?
「桜庭さん。私、電車で帰るわ。ハンカチは返せないんだけど……どこかにお店とかあるかしら。代わりのものを用意するわ」
「洗って返してくれればいいよ」
「でも、汚れ落ちるかな……一応メイクもしてたし……」
 なにより、洗ったところで散々涙に濡らしたハンカチを返すのは気が引ける。
「ところで、どこか部屋を借りてるのか? ホテルはキャンセルさせたが……」
「そうね。勝手にキャンセルしたものね。行くあてはないけど、……実家にでも帰るわ」
 厭味のひとつくらいは言われるかもしれないが、追い出されることはないだろう。すぐにアパートを借りて、働き口を探せばいい。貯金も少しならあるからどうにかなるはずだ。
「帰りたくなさそうだな」
「反対を押し切ってフランスに行ったから、いい顔はされないと思うの。しかも、結果も出せないまま帰ってきてるわけだし。だから安いホテルに泊まって家探しをして、就職先を探すつもりだったのに、桜庭さんが予定を狂わせたの」
 むっと拗ねると彼は可笑しそうに顔を伏せて笑った。
「そうか、俺のせいか……」
「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃないの……誤解しないでね」
「いや。責任を取らないとなって思っただけだよ」
 顔を覗き込むように見つめられ、ドキリとした。距離を詰められて、キスをされる。
「どう取るのがいい? 俺の部屋に来てもいいし、この部屋をこのまま使ってもいい。住みたい場所があるなら、一室くらいすぐに用意させられるが」
「一室数千万の部屋とか言ったらどうするのよ」
「問題ない」
 どんなスケール!?
 びっくりして逃げ出しかける私を、桜庭さんの腕がぎゅっと捕まえて抱きしめる。
「俺としては、家へ来てくれるのがいいな。いつでも会えるし」
「行きずりの女を連れ込むのはどうかと思うの。私が悪いことしたらどうするつもりよ」
「悪いこと? たとえば?」
 面白がるように言われて、唇が突き出てしまう。
「え、えっと……お、お金! そう、財布を持ち逃げするかもしれないでしょ!」
「やるならもうとっくに逃げてるだろうな」
「桜庭さんの財産にたかられるとか思わないの!?」
「別にいいよ。使う予定も特にないし。カード渡そうか?」
「渡さなくていい!」
 この人……もしかしてものすごく金銭感覚がずれてるんじゃ……。
「ほかに悪いことって?」
「……こっ、こ、恋人を連れてきたりとか」
「そんなことをしたら相手を社会的に抹殺してやる」
「ひぃっ!?」
 できるの? そんなことできるのこの人!?
「だいたい、君は俺と付き合うつもりはないのか?」
「えっ、ないですけど!?」
「俺が恋人だと不服なのか?」
 不服なんてないが、一夜を共にしただけで付き合えると思うほうがどうかしている。
「一晩だけの関係でしょ!」
「君は俺がそんなつもりで誘ったと本気で思ってるのか」
「だって桜庭さん絶対モテるもの! 恋もセックスもカジュアルに楽しんでそうだし!」
「……君は俺をどんな軽薄な男だと思ってるんだ」
「……準備万端だったじゃない……」
 ぼそぼそと口にすると、彼は一度吹き出した。そのあと平静を装う努力をしたようだが、笑いのツボにはまってしまったようだ。
 ひどくない……?
「私、浮気は絶対許さないし」
「そもそもしない」
「たぶん、嫉妬深いし……」
「君になら束縛されてもいい」
「上手に恋愛できないと思うし」
「俺とうまく付き合えればそれでいいだろう」
 本当に折れないな、この人。
 口をパクパクさせながら、次になにを言おうか考えていると部屋の扉がノックされた。
「誰か来たみたいだけど……」
「秘書だよ。それで? 俺と付き合うんだろ?」
「付き合わないってば……」
 生活の水準がそもそも違うし、素敵な女性はたくさんいる。私を選ぶ理由なんてどこにもないのだ。
「もし、桜庭さんが昨夜のことを気にして言ってくれてるんだとしたら、無用の心配だわ。だから――」
「俺が付き合いたいだけなんだけどな。ちょっと待っててくれ」
 桜庭さんが寝室を出て行く。さすがに秘書を突っ立たせたままではいけないと思ったのだろう。
 ……桜庭さんが付き合いたいと思ってくれてる……のか。
 リップサービスだろうけれど、彼に言われて悪い気はしない。求められているようで嬉しくなる。
 でも、夢を叶えられなかった下っ端料理人と、有名企業の社長とでは釣り合うはずがないのだ。彼に相応しいのは、もっと大きな企業の令嬢とか、銀行役員の娘とか。美人で、楚々としていて、だけど華やかさのある人だろう。
 なんで私なんか誘ったんだろ。
 そんなに寂しそうに見えたのかな。憐れまれるくらいひどかったのかな。
 ……情けなくなる。
 ベッドを抜け出して、旅行鞄を持った。荷物はごく少量。でもやけに重たく感じて、ここには思い出と悔しさが詰まっているなぁなんて思った。
 寝室を出て行くと、見知らぬ男性と目が合った。桜庭さんと話をしていたようだけど、私を見ると軽く会釈をしてくれる。
「おはようございます、片倉さん」
 なんで名前を知ってるの……?
 私は有名人でもなんでもない。桜庭さんといい、おそらく秘書だろうこの男性といい、どこで情報を手に入れているのやら。
「おはようございます」
 挨拶を返すと、桜庭さんが振り向いた。
「美雪。俺の部屋に来い」
「いや、だから……行かないってば」
「三ヶ月だけでいい。その間に君を振り向かせられればいいんだろう?」
 にやりと口の端を持ち上げて、桜庭さんは自信たっぷりに笑った。
「俺に、君を本気にさせる時間をくれ」
 こんなことを言われて拒めるほど私は男性に慣れていないし、嫌だとも思っていない。迷いはあるけれど、答えはすでに決まっていた。
「…………。……じゃあ、三ヶ月だけ……」
「決まりだ」
 ちゅっと唇を重ねられ、恥ずかしくなりながらもこくりと頷く。
 彼ならそんなことをしなくても強引に心を奪えるだろうに、ちゃんと向き合ってくれようとしてくれることが嬉しかった。
 私は、これからの三ヶ月できっと、どうしようもないくらい恋に落ちていくのだ。

(――つづきは本編で!)

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