作品情報

誠実エリート弁護士はひたむきに愛す~君をずっと待っていた~

「風が吹かなければ、俺たちは出会うことはなかった。運命だったんじゃないかな」

あらすじ

「風が吹かなければ、俺たちは出会うことはなかった。運命だったんじゃないかな」

 勤め先の法律事務所が閉所となり、再就職先を探していた亜子。風に舞った求人票を拾ってくれたのは、なんと大手事務所から独立したばかりのエリート弁護士、秀一だった。
 彼に誘われ勤め始めた二人きりのオフィスで、少しずつ縮まっていく二人の距離。でも秀一は、ウエディングドレスの誰かが写った写真を大事そうに持っていて……?

作品情報

作:花音莉亜
絵:文月ゆなん

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 ●1

「はぁ……。厳しい……」
 夕陽に照らされて、私の影が長く伸びる。背中を丸めている姿は、なんともいえない哀愁を漂わせていた。
(情けない……)
 ひとけのない公園のベンチで、一人とことん落ち込もうと決めてやってきた。だけど実際は先客がいて、数メートル先のベンチに男性が座っている。
 遠目でも分かるほど、その人はスマートなスタイルをしていて顔立ちもいい。クールな雰囲気で、大人のオーラを醸し出していた。
 なにか……、写真のようなものを一人で眺めている。私と同じように、落ち込んでいるのだろうか。
 憂いのある雰囲気を纏っているけれど、人のことを心配している場合ではない。自分の明日さえ見えない私が、見ず知らずの男性を気にかけている余裕などなかった。
「ここも、ここも……。どうして、どこも書類すら送らせてくれないの?」
 手元にある五枚の求人票は、どれも法律事務所のものだ。事務員募集と書かれてあるところに、片っ端からアタックしてみた。
 だけど、どこも漏れなく「条件に合っていません」と門前払いだ。私自身は、中堅私大の法学部を卒業していて、新卒で法律事務所に勤めていた。そこは、七十代の先生と、私より二歳年上の先輩事務員さんがいるだけの小さな事務所。
 それでも、人脈の広い先生は多くの案件を抱えていたから、そこでは仕事は数多くこなしていた。ご高齢の先生はその娘婿が弁護士で、事務所は彼が継ぐことになっていたのだけど……。
(まさかの閉所だもんね……)
 思わず深いため息が出て、求人票を握り締める。引退した先生の跡を継ぐはずだった娘婿の先生は、事務所を閉じて大手の法律事務所へ移ってしまったのだ。
 だから、あたり前にそのまま仕事が継続できると思った私は、途端に職を失ってしまった。
 一緒に働いていた先輩は、これを機会に付き合っていた彼氏と結婚してしまい、私一人が途方に暮れている。
「本当、どうしよう……」
 法律事務所に、拘るからいけないのだろう。それは分かっているけれど、法律に興味があり、念願の法学部を卒業できたのに、まったく関係ない業種を選ぶことに抵抗があった。
 もう一度、深いため息が漏れたとき、突風が吹き、私の手から求人票が飛んでいった。
「あっ……!」
 五枚とも宙に舞い、手を伸ばしたときには遅くて、風に乗って奥にいる男性の足元に落ちていく。
 そして代わりに、私のところへは彼が持っていたものがひらひらと舞ってきた。
「これ……」
 拾い上げると思ったとおり写真で、ウエディングドレス姿の女性が映っている。満面の笑みを浮かべたその人は、カメラ目線でとても幸せそうな顔をしていた。
 可愛らしい人で、少し離れたところに新郎らしき人もいる。完全にこの写真は、彼女のカメラ目線で撮られたものだ。
(なんで、あの人がこれを?)
 タキシード姿の男性は、公園にいる彼とは全然違う。だから、この女の人が彼の奥さんでないことは間違いないだろう。
 見てはいけないものを、目にしてしまったのか。気にしない振りをして写真を大事に持ち、彼のところへ歩いていった。
 すると、ちょうど彼も私の求人票を拾ってくれているところだった。
「拾っていただいて、すみません」
 こっちは落としたものが求人票で、なんだかとても恥ずかしい。しかも、全部大きくバツ印を書いてしまっている。
 彼は数秒じっと求人票を見て、私のほうへ差し出してくれた。
「こちらこそ、失礼しました」
 背筋を伸ばした彼は、見上げるほどに背が高い。たぶん、一八〇センチはありそうだ。私とは、三十センチは差がある。
 涼しげな目元は近寄り難い印象だけれど、瞳の奥には温かみがあった。均整の取れたルックスをしていて、思わず息を呑んでしまう。
「いえ、これを……」
 写真を控えめに差し出すと、彼はそれを表情ひとつ変えず受け取った。そして、私は求人票を手に取る。
「写真を、ありがとうございました。失礼ですが、弁護士事務所の求人を探しているんですか?」
「え? は、はい。そうなんです……」
(やっぱり、気づくよね……)
 なんだか決まりが悪くて、求人票を急いでバッグへしまった。せめて、バツ印はやめておけばよかったと、今さらながら後悔する。
 彼も鞄に写真をしまうと、私を見据えた。見つめられているわけではないのに、綺麗な彼の瞳にドキッとしてしまう。
「俺は、|来島《くるしま》|秀一《しゅういち》といいますが、知ってるかな?」
「え? 来島……秀一さん?」
 どうして、そんなことを聞くのだろうと思ったすぐあとに、彼が誰かが分かって驚いた。来島秀一さんは、有名な敏腕弁護士だ。
「まさか……。来島先生なんですか?」
 たしか、大手法律事務所である内野法律事務所に勤めていた人だ。でも四年前にアメリカへ一年間留学をして、最近独立したと聞いたことがある。
 やり手のイケメン弁護士として業界内で有名だけれど、本人を直接見たことはなかった。
 まさか、この人が来島先生だったなんて……。噂どおり仕事ができそうで、さらに見た目も完璧だ。
 童顔で小柄な私は、来島先生にどれほど頼りなく写っているだろう。
「知ってくれているなら、怪しい者じゃないと分かってもらえたと思う。俺でよければ、話を聞こうか? 法律事務所で働きたいんだろう?」
「いいんですか……? ご迷惑では?」
 来島先生に相談に乗ってもらえるなら、こんなに心強いことはない。そういえば最近も、独立したばかりで訴訟に勝ち、クライアント企業から高い評価を得たと噂になっていた。
「構わないよ。これも、きっとなにかの縁だと思うから」
 来島先生はゆっくりと答えると、ベンチに座った。私も遠慮がちに、少し離れて隣に座る。傍から見たら怪しげに映るかもしれないけれど、彼は弁護士業界ではカリスマのような存在だ。とても、近くに座れない。
「ありがとうございます。私は、|山名《やまな》亜子《あこ》と申します。現在、二十六歳です。中堅私大の法学部出身で、半月前まで田中法律事務所に勤務していました」
「田中先生? ああ、そうか。引退されたんだな。たしか、事務所も畳まれたとか」
「はい。そうなんです。来島先生、ご存じだったんですね。それで、次の職場を探していまして……」
 さすが、来島先生は業界の事情をよく把握している。田中先生もやり手の弁護士だったけれど、来島先生のほうが業界ではかなり有名で有能だ。
 田中先生は頻繁に、来島先生の凄さを力説していたくらいだった。そもそも、娘婿の先生が大手に移ったのも、来島先生のようになりたいからという理由だった。そんな来島先生が、田中先生を知っていたことに驚いた。
「そういうことだったのか。山名さんは、法律事務所勤務に拘ってる?」
「はい。元々、法律が好きだったんです。学生の頃も、裁判の傍聴に行ったりしていました」
 授業の中では、裁判の傍聴についてのレポート作成を求められるものもある。わざわざ出向くのを面倒くさがる学生は、出席した学生から内容を聞いて書いたりするけれど、私は裁判所の雰囲気が好きでレポートとは関係なく傍聴に行ったりしていた。
 そのことを来島先生に話すと、クックと笑われてしまった。目を細めて笑う先生は、不覚にもドキッとするほど甘い雰囲気になる……。
「珍しいな。裁判所の雰囲気が好きっていう人と、初めて出会ったよ。山名さんは、弁護士は目指そうと思わなかったのか?」
 そう聞かれ、慌てて両手を目の前で大袈裟に振った。
「まさか! 私には、そんな才能はありませんから。それに、サポートの役割が好きなんです。誰かの助けになるような……」
 だから、事務員募集に応募したというのに、どうしてどこも書類すら送らせてもらえないのだろう。
「なるほど。きみの雰囲気でいうなら、納得だな。それで、求人票の大きなバツ印は、ダメだったということなのか? それとも、山名さんにとって好みの職場でなかったとか?」
「いえ、あれはダメだったところなんです。それも、どこも書類すら送る余地を与えてくれなくて。どうしてなんでしょうか……」
 来島先生とは初対面なのに、ペラペラと話をしてしまう。もっと、取っつきにくそうな人だと想像していたのに、話してみるととても親しみやすい。
 外見や業務の進め方はクールなイメージなのに、内面はもしかすると違うのかもしれない。思わずため息をついていると、先生は少し考えるように腕を組んだ。
 それにしても、来島先生は腕組みすら絵になるのだから、見惚れてしまいそうになる。今はそんなことを、考えている場合ではないのに。
「もしかすると、山名さんが小さな事務所出身ということで、敬遠されているのかもしれないな」
「えっ? そうなんですか?」
 それはまったく想像していない答えで、目を丸くするしかなかった。むしろ、小さな事務所のほうが、業務内容が多岐に渡っているから経験も豊富なつもりなのに。
 どこか納得できないでいると、来島先生が続けた。
「さっきの事務所は、どこも大手ばかりで人間関係も大変だし、忙しさも半端ないから。経歴を聞いて、山名さんに頼りなさを感じたのかもしれない。事務所経験は、田中先生のところだけなんだろう?」
「はい。そうです……」
 そういうことなのかと分かったら、途端に再就職の自信をなくし肩を落とした。自分では、雑務まで幅広くこなせると思っていたけれど、客観的な評価は違うらしい。
 法律事務所の求人は、それほど多くはないし、実際もう目星をつけているところはない。このままだと、一人暮らしをしているマンションの家賃が払えなくなるし、業種に拘らず仕事先を見つけるしかないのだろうか。
 でも、せっかく法学部まで出て法律の勉強をしたのに……。
 言葉にならず落ち込んでいると、来島先生が私の顔を覗き込むようにして言った。
「そんなに法律事務所に拘るなら、俺の事務所で働いてみる?」
「……え?」
 今、来島先生はなんて言った……? 一瞬で理解できず、あ然としてしまう。
「実は、俺の事務所には事務員さんがいなくてね。一人でこなしているんだよ」
「来島先生がお一人で……ですか?」
 それは、かなり大変なのではないかと、さらに呆然としてしまう。今日、この場所で来島先生に会えただけでも奇跡なのに、さらにその先生の事務所に呼んでもらえるかもしれないなんて……。
(頭が混乱する……)
 さすがに二つ返事ができないでいると、彼は鞄から名刺を取り出し渡してくれた。
「事務所はここ。街の真ん中だから、アクセスはいいと思う。ただ、山名さんが選んでいたような大きな事務所ではなく、あくまで俺の個人事務所だ。もし、興味があればおいで。今週は、ほとんど事務所にいるから」
 そう言って来島先生は立ち上がり、私も慌ててつられるように立った。
「あ、あの。どうして、私を呼んでくださるんですか?」
 いくら個人事務所だからといっても、来島先生は有名なやり手弁護士だ。五社も断られた私を、採用したいと思うのだろうか。
 不安な目で彼を見つめると、来島先生はふっと柔らかな笑みを見せた。
「裁判所の雰囲気が好きなんだろう? それでOK」
 彼はそう言い残すと、颯爽と公園を出ていった。一人残された私は、来島先生の名刺を持ったまま立ち尽くすだけ。
 本当に、先生の言ったことを真に受けていいのだろうか。でも、来島先生ほどの人が、冗談半分で言ったとは思えない。
「いい匂い……」
 ほのかに甘い匂いがする名刺を抱きしめ、夕陽の当たる公園でしばらく動くことができなかった──。

 ●2

「本当に、来ちゃった……」
 翌日、ビジネススーツに身を包んだ私は、名刺の住所を頼りに来島先生の事務所へやってきた。
 昨日の夜、先生のことはネットで調べている。三十四歳の先生は、仕事ではストイックで、裁判で勝つためには強硬手段に出るところもあるとか。
 それでも来島先生に依頼が多いのは、そのやり方が至極真っ当で計算し尽くされたものばかりだからだと書かれていた。
 さらに、プラス情報で独身ということも分かり、情けなくもそちらにも注意が向いてしまった。
(だめ、だめ。邪念は追い払わないと)
 来島先生は、初対面でも引きつけられる魅力がある。でも、それは業務とは関係のないこと。
 これまでも評判の高かった来島先生のサポートをして、さらに弁護士として活躍してもらう。私はその役割を担うために、ここへ来たのだから。
「失礼いたします」
 彼の事務所は、オフィス街をほんの少し外れた場所にあり、いろいろな会社が入るビルの一階にあった。
 十五階建てらしく、側にある入り口の奥はエレベーターホールがあり、ビジネスマンが行き来している。
 摺りガラスの扉を押すと、中は意外にも開放感がある部屋になっていて爽やかだった。奥の正面に来島先生のデスクがあり、私を見るなり彼が立ち上がった。
「山名さん、こんにちは」
「こ、こんにちは。あの……、こちらに伺って、本当によかったんでしょうか?」
 未だに、どこか信じられなくて、恐々と彼に目を向ける。すると、来島先生はクスクスと笑った。
「そんなに、ビクビクしなくていいよ。どうぞ。俺の事務所に、興味を持ってくれた?」
 彼が促してくれたのは、来客用のソファで、私は控えめにそこへ座る。まだ新しい事務所だからか、すべてに清潔感があり綺麗に片づけられている。
 田中先生の事務所は、書類やら六法全書などが山積みになっていて、どこか乱雑な感じだった。
 だけど、ここは来島先生の性格なのか、整理整頓がされていて観葉植物も置かれた垢抜けた雰囲気だ。
 窓から日差しも降り注ぎ、明るい印象だった。
「興味といいますか、来島先生の事務所に呼んでいただけること自体が光栄で……。本当に私でよければ、精一杯頑張りたいと思います」
「そう思ってもらえるなら、俺としても嬉しいな。実はね、何度か事務員さんの面接をさせてもらってるんだけど、ピンとくる人に出会えなくてね」
「そうなんですか? 先生の事務所の求人は、見つけられなかったんですが……」
 もし探し当てていたら、間違いなく受けたと思う。だけど、来島法律事務所の名前はどこにもなかった。
「それが、友人のアドバイスで、紹介制で募集を募ったんだよ。そのほうが、より仕事を分かった人が来てくれると思ってね」
「でも、いらっしゃらなかったんですね?」
「そう。女性がたくさん来てくれたんだけど、申し訳ないが皆いまいちだったんだ。仕事は新人でもいいから、もう少し法律に興味を持ってほしいというか」
 先生は思い出したのか、苦い表情をしてため息をついている。
(それって、もしかして先生目当てだったんじゃ……)
 思った以上に、来島先生は親しみやすそうだ。先生の友人からの紹介なら、きっと来島先生の人柄はしっかり伝えられていただろう。
 誰だって、こんな素敵な弁護士先生なら、一緒に働きたいと思う……。
「だから、山名さんの裁判所の雰囲気が好きというのは、俺の中では最高だったな」
「そうですか? それでしたら、安心しました」
 思わずふふっと笑ってしまうほど、先生との会話は随分前からの知り合いのようにテンポがいい。
 心地よさを感じているのは私だけかもしれないけれど、ここでこれからできるだけ長い時間、仕事を頑張らせてもらいたいと思っていた。
「俺は独立したばかりだし、それほど案件は多くないんだ。田中先生のところと比べれば、きっと余裕だと思う」
「分かりました。精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 ペコリと頭を下げると、来島先生は柔らかい笑みを向けてくれた。そんな笑顔を見てしまったら、心がまったく揺れないわけがない。
 だけど、法律事務所での就職を諦めかけていた私に、来島先生が手を差し伸べてくれた恩を忘れてはいけない。感謝でいっぱいで、雑念は胸に押し込めて背筋を正した。

 ──余裕なんてない。
 仕事を始めて一時間、綺麗な茶色のデスクで業務ができるなんて嬉しいと、若干浮かれていた自分を戒める。
 来島先生は、案件が少ないから余裕だと言っていた。その言葉に嘘はなく、彼の言ったとおり田中先生に比べると案件数は少ない。
 だけど、内容が濃過ぎる。クライアントに大企業が多く、訴訟内容がとても複雑だった。担当者と打ち合わせだけでも大変そうなのに、電話応対などの雑務も一人でこなしていた先生に、心から尊敬の念を抱く。
 独立して半年といっていたけれど、ここまで一人でやりこなすのは苦労があったに違いない……。
 ちらっと来島先生のほうに目を向けると、真剣な目で書類を見ている。眉間にシワを寄せているところを見ると、きっと内容が深いものだろう。
 先生のデスクは、作業台を挟んで奥側にあり正面を向いている。だから、私からは彼がよく見えた。
(なんの案件なんだろう……) 
 とりあえず私は、先生から頼まれた次の裁判の資料作成をしている。田中先生のところでの経験があり、作業自体は難なくこなせていた。
 だけど、どうしても来島先生が気になってしまう。今まで先生は一人だったのかと思うと、彼の役に立ちたいという気持ちが大きくなり、彼の行動を妙に意識してしまうのだ。
 資料を作りながらも、半分注意が先生のほうに向いていると、彼が立ち上がる気配がした。さりげなく目を移すと、給湯室へ向かっている。
「来島先生! お茶でしたら、私が入れます」
 思わず立ち上がり声をかけると、先生が驚いたように振り向いた。勢い任せに立ったせいもあり、椅子を壁にぶつけてしまった。
 そんな私に、先生は微かな苦笑を向けた。
「大丈夫だ。自分でできるから」
「で、でも。ずっと、一人でされていたんですよね?」
「そうだけど……」
 訝しげに見る来島先生に、私はどうしてもいたたまれず言った。
「だったら、私にやらせてください。今まで、お一人で寂しくされていたんですから」
 それを想像すると、とても切なくなってくる。せめて、今後は少しでも私に頼ってほしい。そう思っていたら、来島先生に思い切り笑われてしまった。
 顔がくしゃくしゃになるほど笑っていて、うっすらと目に涙が浮かんでいるほどだ。
「先生……?」
 今度は私が訝しげに見ると、先生はようやく笑いを止めながら涙を拭った。
「ごめん、ごめん。山名さんは、本気で心配してくれてたんだよな。だけど、面白くて、つい……」
 来島先生は、まだ笑いを堪えている様子だ。なにがそんなにおかしかったのだろうかと、不安な目で見ていると彼はようやく落ち着いた顔をした。
「本当に、ごめん。ただ、俺って寂しい人みたいに映ってたんだなと思って」
「えっ!? そ、そういう意味ではなかったんです。すみません……」
 たしかに、思い返してみれば、とても失礼なことを言った気がする。ただ私は、これまで一人で頑張っていた来島先生が健気に思えて……。
(あ、でもこれも、失礼な言葉かも……)
 恐る恐る来島先生を見ると、思い出し笑いをしている。クックと堪えながら、声を殺して笑っていた。
「本当に、すみませんでした」
 初日から、大失態だと肩を落とすと、先生の柔らかい声がした。
「山名さんって、どこか天然で親しみやすさを感じるな。人懐っこい性格?」
「いえ……、そういうタイプではないです。それに私には、来島先生のほうが親しみやすい方に見えたんですが。初めて会ったときから、とても話しやすかったので」
「そうか……? 俺はむしろ、きみのほうが屈託ない性格に見えたけど」
 と、二人で首を傾げていると、同時にふふっと笑みがこぼれた。
「俺たち、なにを話してるんだろうな」
「本当ですね」
 きっと、来島先生が言ったことも、私が言ったことも間違っていない。互いに、話しやすい雰囲気があったのかも……。そう思うことにする。
「じゃあ、山名さんにお茶を頼もうかな。熱いのが好きだから、それでよろしく」
「はい! すぐに入れてきますね」
 来島先生にクスクス笑われながら、私は給湯室へ急いだ。小さな流し台とコンロがあり、こぢんまりとした食器棚が置かれている。
 来客用のものはまとめて収められていて、来島先生の湯呑みはすぐに分かった。電気ポットには既にお湯が作られていて、茶葉を入れた急須に注いでいく。
(来島先生って、緑茶が好きなんだ……)
 湯呑みにお茶を入れると、緑茶の香ばしい匂いがする。茶葉にも拘っているみたいだし、今度私も同じものを買ってみようか。
「先生、どうぞ」
 デスクに湯呑みを置くと、来島先生が顔を上げて小さな笑みを見せてくれた。
「ありがとう。とても、いい匂いがするな」
「そうですよね。私も、お茶を入れながらそう思いました。先生は、緑茶がお好きなんですか? 茶葉が、高級そうでしたが」
 来島先生は、一口飲んだあとに小さく頷いた。
「ここの近くに、お茶の専門店があるんだよ。以前、勤めていた事務所の女の子から勧められてね。それ以来、ハマってる」
「そうだったんですか。とてもいい匂いだったので、きっと美味しいんだろうなって思って。私も、買って飲んでみます」
 そう言うと、先生はふっと柔らかく笑った。来島先生が、こんなに頻繁に優しい表情を見せる人だとは想像もしていなくて、彼と接していると心が躍ってしまう。
 職場にいることを、これほど楽しいと思ったことはなかったことに気づいた。来島先生に貰った今の状況に感謝をしながら、再び業務に取り掛かった。

「山名さん、一緒にお昼に行こうか? ささやかだけど、入社祝いということで」
 十二時前になり、来島先生に声をかけられた。この事務所では、来客は完全予約制となっており、今日は一日アポがない。
 電話は先生の携帯へ転送されることになっていて、二人で事務所を出ても問題はない。来島先生からの誘いに、私は盛り上がりそうになる心を抑えて返事をした。
「はい。ぜひ、ご一緒させてください」
 なにより、先生の気遣いが嬉しい。田中先生は、どちらかというと寡黙な人で、必要最低限のこと以外は会話がなかった。
 それはそれで業務に集中できてよかったけれど、コミュニケーションを取りたいタイプの私としては、少し寂しい部分もあったのだ。
 だから、来島先生に積極的に声かけをしてもらえ、嬉しさでいっぱいになっていた。
「この先に、美味しいフレンチの店があるんだ。行ってみよう」
「楽しみです。よろしくお願いします」
 事務所を出ると、通りはすでにビジネスパーソンで賑わい始めている。この辺りは飲食店が多く、お昼時になると人通りが多くなるらしい。
 そこを来島先生と並んで歩くのは、少し緊張してしまう。スマートな先生は、歩く姿も颯爽としていて凛々しい感じがする。
 時折、道行く人の女性の視線を奪っていて、改めて来島先生の華やかなオーラに感心してしまった。
「山名さん。あの店が、お茶の専門店だ。せっかくだから、少しだけ見る?」
 先生が指差した方向には、小さな緑色のテントがついた店がある。数人が出入りしているのが見え、人気店らしいことがすぐに分かった。
「いいんですか?」
「いいよ。行ってみよう」
 店舗は小さいけれど、商品が綺麗に陳列されていて窮屈さは感じない。店内には数組のお客さんがいて、どれにしようか迷いながら見ている。
「私、先生と同じものを飲んでみたいです」
 正直、お茶に詳しいわけではないし、拘りがあるわけでもない。きっと、あれこれ見てみても分からないだろう。
 それよりも、来島先生が飲んでいたお茶がとても美味しそうだったから、まずはそれを飲んでみたかった。
「そうか。あれは、とてもお勧めだよ」
 先生はそう言いながら、店の奥にある棚から袋を手に取った。銀色のそれは、給湯室にあったのと同じものだ。
 上品なパッケージだったと、印象に残っている。
「それじゃあ、これは俺からのプレゼント。入社祝いだ」
「えっ? で、ですが……」
 お茶の袋をかざした先生は、ニッとするとレジへ進んだ。戸惑いながらも彼についていくと、私が財布を出すより先に会計を済ませている。
「気にしなくていいから、これは今日だけの特別」
 お茶が入った紙袋を手渡されると、それが本当に貴重なものに感じられる。来島先生からのプレゼントに、胸が熱くなっていった。
「ありがとうございます。絶対に、大切に飲みます」
 控えめに笑顔を向けると、来島先生は優しい表情を返してくれる。今まで名前しか知らなくて、まるで雲の上のような存在だった来島先生だったのに。
 こうやって二人で並んで歩いて、プレゼントにお茶を買ってもらう。今のこの状況が、まるで夢のようだ。
 それから三分ほどで、フレンチの店へ着いた。白い垢抜けた建物で、一階と二階に客席がある。
 私たちは二階へ案内されると、窓際のテーブルへ向かい合って座った。程よく日差しが入り、暖かくて心地いい。
 先生お勧めのコース料理を頼むと、ふと気になったことを聞いてみた。
「そういえば来島先生は、以前は内野法律事務所に勤められていたんですよね? このお茶は、そのときに教えてもらったものなんですか?」
 たしか、来島先生はそう言っていた気がする。前の事務所の事務員さんに、勧められたとか……。すると、先生はゆっくり頷いた。
「そう。そこにね、由依子ちゃんっていう事務の子がいたんだ。後輩の子でね、とてもお世話になったんだよ」
「そうなんですね。その由依子さんって、まだ内野法律事務所に勤められているんですか?」
「ああ。内野真斗って知ってる? 俺の友人でもあるんだけど、彼と結婚したんだ。今は、夫婦で事務所を盛り立てているよ」
「はい。もちろん、存じ上げています」
 内野真斗さんは、内野法律事務所の御曹司と呼ばれている人だ。大先生が、お父さんだったはず。内野先生も、来島先生と同様にイケメンエリート弁護士として有名だ。
 その人の奥さんが、由依子さんという人なのか。事務員だったのなら、社内恋愛で内野先生と結婚をしたということ……。
 まるでシンデレラストーリーのようで、ため息が漏れてしまった。
「由依子ちゃんも、山名さんのように少し天然で可愛い人だったよ。真斗とは四年前に結婚をして、今は子供さんが一人いる」
「そう……なんですか」
 由依子さんの話をする来島先生は、どこか楽しそうで目を細めている。きっと、とても可愛がっていた後輩だったのだろうけど、それだけでこんなに優しい顔をするものだろうか。
(好き……だったのかな?)
 聞きたいようで、でも不躾な感じがして聞けない。来島先生が誰を好きだったかは、私には関係のないこと。
 それなのにどうして、こんなに心がモヤモヤするのだろう。
「あ、そうそう。昨日、山名さんに写真を見られてしまったと思うんだが。彼女が由依子ちゃんなんだよ」
「そうでしたか。失礼ながら拝見しましたけど、とても可愛らしい方だなって思いました」
 やっぱり、あの写真の女性が由依子さんだったのか。でも、どうして来島先生は、今さら写真を眺めていたのだろう。
 四年前に結婚をしているなら、あの写真もそのときのもの……。それとも、挙式を最近行ったとか? いや、それにしては写真に小さな子供の姿はなかった。
 それに、あの写真の由依子さんの笑顔は、とても初々しい感じだった。とても、最近のものとは思えない。
「可愛かっただろう? 実は、俺が好きだった子でもあるんだ。でも、あっさり真斗に取られたけど」
 苦笑する先生に、私の胸は締めつけられた。それがどういう意味か、自分でも分からないけれど切なさを感じている。
「来島先生が惹かれる女性なら、本当に素敵な方なんでしょうね」
 笑顔を見せたつもりなのに、ぎこちなくなってしまう。どうして、会ってたった二日目の先生に対して、そんな風な態度になってしまうのだろう。
(もしかして、一目惚れしちゃったとか?)
 ふっと揺れた自分の心を、慌てて吹き飛ばす。たとえそうだったとしても、来島先生は弁護士業界ではとても有名な人。
 有能なイケメン弁護士と言われる人なのだから、私が付き合えるような相手ではない。きっと、もっと近寄り難い人だと思っていたのに、そうではなかったから心が混乱しているだけだ。来島先生に一目惚れなんて、そんな身の丈に合わない気持ちは抱いていない。
 心の中であれこれ葛藤していると、先生にふと声をかけられた。
「もしかして、また寂しい男だと思った?」
「えっ!? そ、そんなことはないですよ」
 笑って誤魔化しながら、少なくとも来島先生には私の様子のおかしさが伝わっていたことを自覚する。
 今は、先生が自虐的に受け止めてくれたからよかったけれど、本心を見透かされたらとても気まずい。
 来島先生はとても魅力的な人だけれど、私情を挟むのは慎もう。彼の笑顔や優しさに、簡単に心を揺らしている場合ではない。
 私に課せられたものは、先生の事務所で仕事の役に立つこと。
 それだけだから──。

(――つづきは本編で!)

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