作品情報

私、裏切り上司に今夜も抱かれます~明智部長の極甘溺愛~

「貴女の淫らな姿は、私だけのものにしたい――」

あらすじ

「貴女の淫らな姿は、私だけのものにしたい――」

 ブラックIT企業勤務の芙美香は、会社の良心と呼ばれる開発部長の明智に想いを寄せていた。ある日心労のあまり資料室で泣いていると、偶然訪れた明智が慰めてくれる。つらさを打ち明けるとそっと抱き寄せられ…そのまま彼と関係を持ってしまう芙美香。憧れ上司との甘い一夜に酔いしれるが――

作品情報

作:フォクシーズ武将
絵:フォクシーズ大使

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本文お試し読み

■プロローグ 刹那

「待っ……て……っ」
 抗おうとした手は力なく宙を掻いただけで、呆気なく彼に捕まえられてしまう。何度達しても許されず、ぐずぐずにとろけた体では、逆らうどころか起き上がることすらもままならない。
 捕まえた手の指先から手首へと、彼は見せつけるように何度も口づけを落とす。いつもは眼鏡の奥に隠れた切れ長の妖艶な双眸が、蠱惑的な光を湛えて芙美香を見下ろしていた。指先に舌を這わされると、ぞくりと疼きが走る。体の奥が、内側で脈打っている彼の熱を、意図せず締め付けてしまう。
「っ、ふ、ぁ……っ」
「まだ、足りないようですね」
 低く熱を帯びた声で言うと、彼はくったりと横たわった彼女の腰を持ち上げる。最奥まで貫いたままの楔が、ゆるゆると揺すられた。
「や、ぁ……っ、違……っ」
 奥の奥まで何度も愛されて、もうこれ以上は受け止められそうにない。蜜窟の肉襞はとろとろに押しほぐされ、彼のかすかな動きや脈動からすら、淫靡な快楽を受け取ってしまう。攻め立てるほどではない穏やかな動きにもかかわらず、彼女はもう掠れてしまった声で甘くうめいた。
「あ、ぁあ……っ、もう、だ、め……」
「まだ、そんなことを言う力が残っているではありませんか」
 彼は面白そうに笑い、あやすように彼女の頬に口づけを落とす。こんな風に苛まれているときだと言うのに、優しい口づけに胸の奥が震えた。
 いつも涼やかで、優しかったあなたが……
 そんな彼が自分の中でこれほど熱く猛っているということ、そして彼の目に確かに情欲が燃えていること。それが芙美香に、怖いほどの悦びを感じさせた。貪られるほど、彼のことが愛しくなっていく。
「明智、さん……」
 恍惚の笑みを浮かべてすがりつくと、彼は優しく抱きしめてくれる。恋人同士のような抱擁に、奥がきゅんと収縮する。
 ――もし、彼と本当に愛し合えたなら、どんなにいいだろう。
「まだ、他所事を考えていますね……」
 不機嫌な嘆息が聞こえ、再び脚が持ち上げられる。当たる場所が浅くなり、彼女のたまらない所を強く抉った。
「ひ、あ……っ!」
「もっと、感じてください。私のことしか、考えられなくなるまで」
 執着を感じさせる危険な言葉に、ぞくぞくと被虐の悦びに震えた。
「あ、ぁああっ……! すご、い……っ」
 深く最奥まで突き上げられ、荒れ狂うような快感に頭が真っ白になる。とろけきった体は従順に屈服し、すぐに芙美香の心は狂おしくも甘美な悦楽に染め上げられていった。
 淫らな水音と、自分の鼓動が耳の奥で反響している。彼が耳元へ顔をうずめ、その熱く荒い吐息が耳朶をくすぐった。時折こぼれる熱っぽい呻きが、まるで愛撫のように芙美香の心を疼かせる。
 彼の方はもう、何度達しただろうか。体の中に感じる熱は、焼け付くほど熱くなっていく一方だ。
 息をつくこともできないほどの快楽に悶えながらも、芙美香は彼にきつくすがりついた。より深く繋がれるよう、彼の背に脚を絡める。
 あなたも、私のことしか考えられなくなってくれればいいのに――
 心の底で、薄暗い衝動が確かに燃えていた。また朝が来れば、彼は去ってしまうのだろうか。そしてまた、会えない日々が続くのだろうか。
 こんなに熱く、深く繋がっていても、彼の心の奥には入れない。
 このまま時が止まってしまえばいい。そう思いながら、芙美香は甘い刹那に溺れていった――

■第一章 憧憬

「ビデオ通話の音が出ないんだけど」
 妻木芙美香が膨大な請求書ファイルのフォルダから目を上げると、営業部の花柳涼子が目を釣り上げて立っていた。
「え、永井さんは?」
「知らない。お昼じゃない?」
 華やかな髪を揺らしながら、花柳はつんと言い捨てる。
 パーテーション越しに情報システム課の永井の席を見やると、確かに席は空だった。本来なら通信や機材のトラブルは彼が対応してくれるはずだ。しかし彼がいない以上、花柳が総務の芙美香に声をかけるのは当然のことではあった。
(でも今日はすんごく立て込んでるんですけど……)
「今、行きますね」
 不満は心の中に留めて、急いで席を立ち会議室に向かう。ビデオ会議の機器のことなど何もわからないながら、こうなったら仕方がない。
 会議室に入ると、営業部の面々が当惑した様子で一斉に睨みつける。
「失礼しまーす……」
 その刺すような視線に脅かされながら、芙美香は機材と奮闘した。
 最終的にマイクのコネクタが劣化していたという初歩的なミスが不調の原因だった。モニターの向こう、那覇支社のマーケティング部長のこれみよがしなため息を聞きながら、そそくさと会議室を出る。
 席に戻ると、経理課の山木祐輔が苛立たしげに佇んでいる。
「運用部の請求書まだですか? 今日中に処理しないと」
「え、だって提出締切は明日ですよね? 今から確認するところです」
「こっち手が空いちゃってるんですけど。ペース考えてくださいよ」
 各部署の外注請求書は、総務課で確認の上、経理課に回されることになっていた。本来、人数の少ない経理課の負担を減らすためにこういった手順になっている。しかし年末の異動で総務の人数が減った今や、逆に今は芙美香の方が業務が立て込んでしまうようになった。どうしても確認が後回しになり、こうして経理の山木に小言を言われるのは、もはや毎月恒例のことになっていた。
「……もう、確認してないものを直でお渡ししちゃっていいですか?」
「いや、それは困る。もし間違ってたら僕から運用に言わないといけなくなるでしょ?」
 それは自分の仕事ではないと言わんばかりに眉をひそめる山木に、少し苛立つ。彼は総務になら何でもぶつけていいと思っているのだ。そしてそういう社員は、決して少なくない。
「午後には回しますから、待っていてもらえますか?」
 苛立ちを飲み込んでただそう告げると、山木はあからさまに溜息をつき、無言で去っていった。
 十六時を過ぎてやっと、本来なら昼休みだったはずの休憩に入ると、芙美香は誰にも見咎められないようにそっと息をついた。
 芙美香が働く『ゼクステ』は、創業五年のアプリ開発会社だ。従業員五十人程度のスタートアップ企業だが、時流に乗って今や年商二十億以上の収益を上げている。
 その規模で、いま総務をまかなっているのは芙美香一人だ。年末の異動以降、総務人事部は人事部長と芙美香の二人きりである。ベンチャーの総務は得てしてあぶれ仕事が全て回ってくる。芙美香の勤務待遇は決してホワイトといえる状態ではなかった。
 それでも芙美香は、短大新卒で入社し四年間過ごしてきたこの会社に愛着がある。
 彼女の家庭は決して裕福ではなく、両親は堅実な企業への就職を望んでいた。家計の事情から大学は諦めたが、何とか飲食店でバイトしながら短大に行くことは許された。しかし在学中折りしも不況に見舞われ、就活は難航。思えば子供の頃から彼女は、自分の「夢」について考える時間をろくに与えられなかった。
 大企業への就活に軒並み失敗して、ITのスタートアップ企業に目標を改めたのは、ある意味では両親への意趣返しだったのかもしれない。
 新しい技術、急成長していく事業、未来の可能性――ゼクステでの仕事に、芙美香は自分が見つけられなかった「夢」のようなものを感じていた。
 始めは当然反対した両親も、ゼクステの成長を見るにつけ口を閉ざしていった。アプリ開発などというよくわからない業種、とぼやいていた彼らですら、今や日々スマホを手放せないでいる。勢いのある仕事など、常に変わっていくものだ。現代の眼を持っているのは芙美香の方。会社の成長とともにそれが証明されていくようで、彼女は誇らしく思っていた。
 自分は最先端の開発者ではない。しかし会社の一員として、時代を先導する彼らを支えている。新しい時代を作っていく人々を。
 同じ総務の仕事でも、ゼクステであることに意味がある。どんな雑務であっても全力で向き合いながら、製品開発のエンジニアたちに心の中でエールを送る。それが彼女の日々の、密かな心の支えだった。
 
(お腹すいた……やっとごはん……)
 伸びをして席を立ち、近くのコンビニに遅い昼食を買いに行こうとした時だった。
「妻木さん」
 声をかけられ、ぎくりとして振り返る。そこにいたのは、また山木だった。焦った様子で、なぜか芙美香を睨みつけている。
「開発部の請求書がまだ出ていませんが」
「え?」
 責めるような声で言われて、目を見開く。
「朝まとめてお渡しした中に……」
「なかったから、聞いてるんです」
 慌てて記憶をさかのぼる。プロダクト事業の中核である開発部は、多くの外注先と連携しており請求額が大きいので、見落とすはずはない。開発部長もそのことをよくわかってくれていて、いつも早めに提出してくれるはずだ。
「いつも開発は先に出してくるじゃないですか。今回はないのでおかしいと思っていたんです」
 山木が苛立たしげに言う。
 芙美香は慌てて机へ帰り、PCを確認する。各部から預かったファイルの中を探しても、開発部の請求書は見つからない。
「無いんですか?」
「そんなはず……」
 芙美香は思わず言葉をつまらせる。請求書納品の社内チャットをざっと遡るが、そこにも見当たらなかった。
「聞きに行ってくださいよ」
「え?」
「開発部に」
 山木はしれっと言う。
「いえ、チャットで聞きますから……」
「それじゃ、ここでぼくも返事を待てって言うんですか」
「山木さんにもチャットでご連絡しますから……」
「今聞きに行けば済む話でしょ?」
 山木は苛立たしげに言ったが、芙美香は気が進まなかった。多忙な開発部に、経理関連のことで迷惑をかけたくはなかった。しかし山木が引き下がらない以上は、訪問するしかない。
 芙美香が席を立つと、山木もなぜかついてくる。
「え、山木さんも一緒に行くんですか?」
 嫌な顔をしたつもりはないが、山木は悪い意味で受け取ったらしい。
「妻木さんのせいで、今手空きなもので」
 嫌味たっぷりに言われる。おそらくついてきて、芙美香か開発部長のいずれか、請求書の納品を遅らせた犯人の方を詰ってやろうという魂胆なのだろう。この男には以前から、人に文句をぶつけて鬱憤を晴らすようなところがある。憂鬱な気分で、開発部に足を向けた。
 
 開発部のオフィスは、総務課と同フロアの別室にある。新規アプリの企画からリリースまでを手がける花形部署であり、十五人ほどのエンジニアが毎日せわしなく業務に励んでいた。花形といっても、何もかもパソコン上で行われる作業ではあるので、一見したところそのオフィスは静謐そのものだ。張り詰めた空気の中にキーボードを叩く音だけが響き渡り、皆粛々と自らの業務に向き合っている。いわゆる活気があるオフィスというイメージとは違う。しかしここにいるメンバーの力で、この会社は躍進しているのだ。
「失礼いたします」
 声をかけ、そっと邪魔にならないように入室する。おずおずと入っていっても、顔を上げる者すらいない。素っ気無くも思える態度だが、悪意ではないと芙美香は知っていた。彼らの集中力は、専門外の者の感覚では想像できない。
「どうかなさいましたか」
 そう言って席を立ったのは、開発部長の明智光輝だ。
 彼と話すことになると分かってはいたものの、芙美香はちくりと胸が痛んだ。誰より、彼の邪魔だけはしたくなかったのに。
 明智は開発部長であり経営企画室長。ゼクステの看板商品の発想はほとんど彼の頭から出たものだ。大学では経済学部に在籍しながら、独学で商用アプリ開発を手がけていたという多才の人。芙美香は彼の経歴を全て聞いているわけではないが、やはり新興のアプリ開発会社でプログラマをしていたのを、社長が起業に際してヘッドハントしてきた人物だそうだ。
 創業当時から社長・織田真奈美と明智は、ジョブスとウォズニアックに例えられるほど、名実業家とエンジニアとして蜜月の関係だった。創業一年目、当時としては珍しいスケジュール管理アプリがゼクステ最初の当たり作となる。それ以降も、新規アプリの開発に明智が携わっていないことはなかった。エンジニアとしての能力だけでなく、時流への観察眼、理想の実行力ともに、稀代の人物だというのは誰もの評価だった。
 精鋭のエンジニアチームを従えつつも、今でも自らコードも打つこともある。管理職でもあるのだからオーバーワークだと噂されながらも、常に涼やかな印象で、多忙さや疲れなど感じさせる様子はなかった。誰に対しても物腰柔らかで優しく、冷静で気配りがあり、せわしない社内のオアシス的存在だ。
 二十八歳、未だ独身。繊細な印象の美形のため、女子社員たちからの人気は厚い。実は織田社長の愛人なのではないかなどという噂もまことしやかに囁かれていた。実力を買われていることは疑いようもないが、彼の美貌もまたひとかどのものではない。
 芙美香もまた、ひそかに彼に憧れる一人ではあった。無論、未だに生活が厳しく服装にも容姿にもろくに気を配る余裕の無い芙美香は、他の女性達と競って彼の唯一の相手となるべく名乗りをあげようなどとは思いもしない。恋情というよりは、まさしく憧憬の想いだった。
 彼こそ、新時代の視界を持つ人。芙美香がこの業界に抱く夢を具現化したような人だ。彼女は自分の夢も、彼に預けているかのように思っていた。彼の仕事にひたむきで、まっすぐな姿、そしてその頭脳が生み出す奇想天外な発想が、芙美香にとっては希望だった。
 いつも通りの涼しげな美貌と穏やかな佇まいを前に、芙美香が思わず恐縮してしまうと、山木が横から喧嘩腰に言う。
「請求書が出ていないのですが」
 明智の視線が芙美香に向いた。
「二月分でしょうか。先月――確か二十五日頃にお送りしたはずですが」
「え、そんなに前ですか?」
 芙美香は驚いた。請求書の処理を始めるのは月初なので、二十五日に渡されていたとするともしかしたら自分が見落としたのかもしれない。段々に自信がなくなってきた。
「早めに出揃ったもので。その旨もお伝えしたつもりでしたが……」
 明智は申し訳なさそうに眉を下げる。
「か、確認いたします」
 席に戻って確認するためその場を辞そうとしたが、明智がそれを手で制した。
「いえ、いいんです。すぐに再送できますから、少し待っていてください」
 山木は攻めるような視線を芙美香に向けている。やはりお前が間違えたんだろうが、と言わんばかりだ。小さな舌打ちの音すらも聞こえた。
 混乱しながらも記憶を辿っているうちに、不意にはっきりと思い出した。二十五日に開発部からチャットが来て、早いな、と思った記憶が確かにある。そこまで思い出すと、連なってどんどん記憶が蘇ってきた。送られてきたファイルは月初に処理を始める段になってから他とまとめてダウンロードするつもりで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
(まずい、やっぱり私のミスだ)
 二人に告白して謝らなければ、と思ったとき、明智がPCを見ながら軽く眉を上げる。
「おや」
 彼はPC画面を何度か追って、気まずそうな苦笑を見せた。
「ああ、どうやら送り損ねていたようです。すみません、お二人とも」
「え……?」
 そんなはずは、と言おうとした瞬間、明智と目が会った。
 ドキンと鼓動が跳ねる。明智は喧嘩腰の山木から芙美香をかばってくれているのだ。その視線で、それがはっきり分かった。
「え……なんだ、そうでしたか。いえ、開発は忙しいですから、無理ないですよね」
 山木も面と向かって謝られて意気が削がれたようで、気まずそうな苦笑を浮かべた。しかし芙美香には、それでもちらりと睨むような視線を向ける。怒る機会を失って、残念だと言う気持ちがありありと表れていた。
「じゃ妻木さん、確認と転送、急いでくださいよ」
 そして山木はそっけなく言い捨てた。
(どうしよう。このままじゃ……)
 明智に罪をかぶってもらうことになってしまう。しかし唇を開こうとする前に、
「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
 明智が被せるように言い添えた。芙美香は口を切るタイミングを逃してしまう。彼の厚意だとすると、無にするのも悪い。どうしていいかわからないまま、その時はただ、そのまま部屋を辞すしかなかった。

 席に戻ると、すぐに先月の社内チャットを確認する。二十五日には確かに明智から請求書が届いていて、再び心苦しい気持ちがこみ上げ、芙美香は頭を抱えた。
(まさか明智さんに庇われちゃうなんて……)
 やはり、このままにするわけにはいかない。ひとまずはチャットの返信の形で謝罪を、と思ってPCに向き直る。
 しかし、しばらく白紙の画面を前に考え込んでから、芙美香はおもむろに立ち上がった。
(やっぱり、チャットじゃだめだ)
 思い立った勢いのまま、彼女は部屋を出た。直接謝らなくちゃ。その思いで頭がいっぱいだった。しかし開発部の扉の前まで来て、はたと気づく。
(いや、この行動はウザいかもしれない……明智さん忙しいのに……)
 扉を開けるのを躊躇する。しかし、どうしてもこのままにはしたくなかった。面倒でうるさい女だと思われてもいい。厚意をうやむやにするよりは。そう意を決して、扉を開けた。
 明智は机についていたが、再びすぐに顔を上げる。
「おや」
「明智さん、ありがとうございました。さっきは庇ってもらっちゃって……」
 心苦しく思いながらも、ぐっと頭を下げる。
「でも、あれは私のミスです。本当にすみませんでした。ご迷惑をおかけして」
 顔を上げると、決死の覚悟で告げた。
 明智は目を丸くしてしばらく見つめていたが、やがてふっと笑った。
「わざわざいらっしゃるなんて、あなたらしい」
 優しい声音に、つい胸が高鳴る。
「あなたには珍しいミスだったので、少し心配しました」
 まるで、いつも彼女を見てくれているかのような言葉だ。胸が熱くなるのを抑えられない。
「でも、もう大丈夫のようですね」
 そして向けられた微笑に、つい立場も忘れて見入ってしまう。込み上げる感情を、ぎゅっと唇を噛んで押さえ込んだ。
 たった一言と、ほんの少しの微笑。それだけで、彼は何と力をくれるのだろう。彼が信頼してくれていると思うだけで、芙美香は自分の仕事に大きな誇りが持てるような気がした。それだけではない。なんだか自分の存在まで、認めてもらえたような気がする。
「この時期は妻木さんも忙しいと思いますが、無理はしないでくださいね。お昼、ちゃんと食べましたか?」
「あ……」
 さっきちょうど昼休みを取ろうとしていたことを思い出して、思わず口を押さえる。明智はふっと柔らかな苦笑をこぼした。

 翌月の決算を経て、ゼクステ社内はにわかに忙しなくなった。
 ITの新興事業は栄枯盛衰も激しい。ゼクステも創業三年目で大きく売り上げた健康管理アプリを境目にして、業績は徐々に下降しつつあった。昨年の秋からは現運用アプリのどの部署も縮小傾向にあり、そろそろ次の当り作を出さないことには、経営自体を危ぶむ噂もそこここに囁かれ始めていた。
 事業の動揺はそのまま人事に影響してくる。昨年内はどの部署も手が足りないと言って採用を求めておきながら、年が明けると一転、人員を減らす方向に舵が切られた。
 そしていよいよ決算と共に、社長から更に目標の下方修正が指示された。それに伴って大きくリストラが行われる。人事課は恨みを買い、その後退社に当たっての手続きを担当する総務課は大忙しになる。胃が痛くなりそうな日々の到来を目前に、芙美香は緊張感の増していく日々を過ごしていた。
 そんな中、社全体を揺るがす事件が起きた。事業縮小に当たって、明智が社長と大きくぶつかったのだ。開発の手がけていた新規プロジェクトが中断されたことが主な問題のようだ。
 プロジェクトの内容については、芙美香は蚊帳の外ではあったが、ただ明智のことが心配だった。詳しい話を聞こうと、伝てのある運用部の同期を通じて、開発部の若手女子・荻野沙希をランチに連れ出すことに成功した。
「社長が下請けを切って、途中段階までの開発費用を払わないって言ってるらしいんです」
 荻野は運ばれてきたパスタにろくに手もつけずに、ほとばしるように語り始めた。縁の広い眼鏡をかけて、飾り気の無いTシャツにジーンズ。華やかでは無いが、快活な印象の可愛らしい女性だ。
「え、そんなことしていいの?」
「だめですよ、当然」
 芙美香が聞き返すと、荻野は声を潜める。
「でも元々、うちと下請けの契約ってめっちゃ適当なんですよ。特に今回揉めた『カンパネラ』社さんは、社長が何か弱みでも握ってるみたいで」
「それで、向こうは何も言ってきてないの?」
 穏やかではない話に、思わず絶句する。
「泣き寝入りするしかないみたいです。うちの皆もずさんな契約のことはずっと知ってたので、何も言わずにいたんですけど」
 荻野はパスタを頬張りつつも、眉をひそめて続ける。
「明智さんは、我慢ならなかったみたいです。正義感かもですけど。カンパネラ社と何か癒着があるって話もあります」
「癒着って?」
「そこまでは知らないです。ただの噂です」
 荻野は肩をすくめてみせた。

 その後も、経営企画会議では社長と開発部長の対立が続いているようだった。芙美香は実際目の当たりにしたことはないが、会議室から漏れ聞こえる声や、人々の噂などから、いやでも察しはついてしまう。
 芙美香も名前を知っているプロジェクトなのだから、有償作業の段階まで進んでいなかったとは考えにくい。契約がいい加減とはいえ、これで支払いがなされないで済むなどということがあるのだろうか。
 自分に法務の知識がないことを歯がゆく思う。確か契約が請負か準委任かによって、頓挫による報酬支払いの義務は異なってくるはずだ。しかしそもそも、開発の下請けとの契約書の中身については、芙美香はまるで知らなかった。
 織田社長は起業当初から、強引な経営でのし上がってきた人だ。法の抜け目をくぐったような、倫理的に疑わしい綱渡りが何度もあったと噂されていた。今回の件で、さすがにその汚濁が明るみに出るだろう――そんな噂もある。
 しかし一方で、明智について避難する声もあった。開発部長はクリエイター気質で、会社に帰属するプロダクトを自分のもののように考えている。問題になったプロジェクトも、稟議が降りる前に彼がカンパネラ社と勝手に始動したことに問題がある、という意見だ。
 芙美香には、実際のところどちらが正しいのかはわからなかった。
 しかしいつも穏やかな明智が、沈んだ面持ちで会議室を出る姿を見かけるのは、芙美香にとっても心配なことだった。
 業績の悪化に伴って、社長はきっと焦っている。しかしそれを打開するのは、きっと明智の力であるはずなのに。これ以上亀裂が大きくならなければいいが、と芙美香は祈ることしかできないでいた。

(――つづきは本編で!)

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